白州町情報最前線 サブやんのなんでもジャーナル

山梨県・北杜市・白州町のありのままの姿をジャンルを問わず綴っていきます

過去の投稿日別表示

[ リスト | 詳細 ]

全1ページ

[1]

イメージ 1

昭和34年 台風七号『昭和34年災害誌』昭和37年 山梨県総務部広報課編集(一部加筆)
十二日
午後九時に硫黄島南東方洋上にあって、中心気圧九九五ミリバールに発達し、その後も発達しながら毎時三五キロの速度で北西に進み、
十三日
午前九時には硫黄島の北方洋上に達し、小型ではあるが最大風速四五メートルで中心付近の風は猛烈なものとなっていた。台風はこの頃からさらに速度を増し、十三日夕刻には毎時五十キロ夜半には六十キロの速度で北上し、刻々本土に接近し、
十四日
朝には関東南部から東海道に接近又は上陸の態勢となった。
十四日
午前零時甲府気象台から暴風雨警報が発せられた。
 放送局は深夜放送を続けていたので台風来襲の気象情報、注意報、警報は刻々とラジオによって県民に知らされていた。
十四日
早朝には、予想されていた最悪の事態をむかえることになった。
 午前六時半頃駿河湾から富士川河口に上陸、富士川に沿って北上、七時頃山梨県下に入り、七時半頃には甲府盆地の西部を毎時七十五キロの超スピードで北上し、長野県諏訪方面へ抜けた。
 台風が上陸する午前六時頃から急速に風が強くなり、これから八時頃まで約一時間半にわたり大暴風となって県下一帯は台風七号の蹂躙するところとなった。
 甲府の最大風速は東南東三三、九メートル、瞬間最大風速四三、二メートル(七時二十五分)に達し、また船津では最大風速南東三〇、四メートル(七時二十分)瞬間最大風速東南東三八、○メートル(七時)で、甲府船津とも観測開始以来の記録であつた。
 甲府では七時半頃東よりの風が三十メートルを越え屋根瓦が木の葉のように吹き上げられトタン屋根はまくりあげられ、壁はやぶられ、倒壊半壊家屋が続出、樹木や電柱は倒れ、切断された電線が蜘蛛の巣を乱したように下り、看板、雨戸、瓦、ガラスの破片が散乱。道路には水があふれて歩くことも出来ない惨状で、台風一過周辺の愛宕山、湯村山の松は地上二米ぐらいから全部折れて、いたいたしい白い傷跡をみせ、暴風のものすごさを物語っていた。
 釜無川上流一帯のもろい花山岡岩質は、五〇〇ミリの豪雨で各所に山崩をおこし、これが沢に押し出して、自然にダムを形づくり、それが崩壊して砂と石を多量に含んで山津波となって下流を襲った。
 大武川、小武川、尾白川等の河川は下流の武川村(町)と白州町で死者十人、行方不明二人、流失一三〇戸の被害をあたえ幹線釜無川へ乱入、釜無川橋、穴山橋の二つの永久橋を破壊し、韮崎市街地を襲った。
 釜無川の奔流は韮崎市祖母石部落の上部の堤防をやぶり、同部落の数戸を濁流に呑んで七里岩に突き当り、下流の一ツ谷部落をものみ、再び釜無川に合流、武田橋を押し流し余勢で韮崎中学校の西側の堤防を破壊して韮崎町の裏側から中心商店街に流れ込み、決壊個所から一キロメートル下まで水深一、二メートルもの泥海となった。
 盆地の東部山沿いの塩山市重川流域でも山津波の大被害をうけた。
 大蔵沢山の記録が六〇〇ミリを示すように、大菩薩嶺一帯は豪雨に見舞われこれに源を発する重川の支流文殊川は急激に氾濫し、奔流は鉄砲水となって川ふちの九戸を瞬く間に破壊し中子沢部落では、死者八人、行方不明三人に及ぶ大被害を出した。
 早川流域では、南ア一帯の豪雨が二〇〇ケ所に及び山崩れをおこし早川沿いの幹線道路は一七三ケ所にわたって決壊、支流も含めて橋梁の二十五が流失、山間の各部落が相互に孤立する最悪の状態におちいった。
 また上流には発電所工事の人夫一、三〇〇名、西山温泉の浴客六〇〇名が孤立したため一時は治安、食糧などが憂慮された。
 交通、通信がまったくとだえた孤立地ほ北巨摩郡武川村、韮崎市一ツ谷、祖母石、中巨摩郡芦安村、南巨摩郡中富町の一部、早川町、宮沢町の一部、東山梨郡三富村、大和村、塩山市、落合一の瀬高橋、裂石。東八代郡芦川村。北都留郡丹波山村、小菅村であつた。
 その他県下全域にわたり道路、交通、通信、送電等が途絶したため各地の実情把握が極めて困難であつた。
 十四日早朝から刻々に入る被害情報により事態の重大性が察知されたので、午前十時緊急部長会議を開き、災害救助対策本部の設置が決定、速刻(即刻)、陸上自衛隊に対し、派遣方を要請した。また各部長を被災者の激励と現地事情把握のため各方面へ派遣し、本部長である天野知事も現地を視察したあと次の談話を発表した。
「七号台風の被害は甚大である。死者、行方不明、負傷者には謹んでお見舞を申し上げる。死者については、ほどこすすべはないけれど行方不明、負傷者については県警と提携して救助対策を講じている。状況の判明した地区には直ちに災害救助法を適用し、全力をあげて被災者の救護にあたる。家屋の流失、倒壊、浸水、田畑の流失、道路、橋、堤防の被害に対しては県の全機関を総動員して必ず以前に勝る復興を達成する。これを実現するためには禍を福に転ずる決意を以て努力する。県民各位も協力してこの大災害に対処してほしい。」
 刻々入る情報は被害の大きさを伝えるものばかりであった。
 これに基き、第一回の災害救助法適要地域、三十七市町村を指定、第二回、第三回をもって四十八市町村を指定し、救助活動が軌道に乗って動き出した。
 七号台風はその被害の大きさから俗に百年台風などと呼ばれたが、その概要は、死者六六人、行方不明二十四人、流失家堅二〇三戸、全かい一、六五九戸、半かい、浸水、一部破損等を含めた家屋の破損は五万二千戸、耕地の流失埋没二千百七十三ヘクタールに達し、程度の差はあれ、県民誰一人としてこの災害をまぬがれることは出来なかった。当時の日誌を拾うと次の通り。

八月十四日
 午前七時二十五分、台風第七号甲府市を通過、各地に甚大なる損害を与える。十時緊急部長会議、県に災害救助隊太部を設ける。
自衛隊の派遣要請とヘリコプターの派遣を申請する。
松浦総務部長ら韮崎、武川方面の現地を調査中堤防欠壊のため一時孤立。
自衛隊川崎航空提供のヘリコプター各地で人命救助救護班を編成、直ちに韮崎市へ派遣。
防疫本部設置。
甲府市給水車を韮崎へ急派。
各地への救援物資の輸送を始める。救援食糧の確保、物資の調達計画樹立の被害地現地調査団編成。
農作物に対する技術対策を決定ラジオ等で放送。

八月十五日
 十時より部長会議。自衛隊(一監)入県。
知事のメッセージ入り通信簡投下。
ヘリコプター武川、韮崎地区の救援に活躍。
韮崎市他十三市町村に災害救助法適用。
自衛隊機による救援物資の投下非常用備蓄物資を災害地に配布。
防疫、食品衛生対策を発表、応急医薬品の配布。
救援食糧をヘリコプターにて芦安へ空輸。
技術指導班を現地に派遣。
災害のための物価騰貴を防ぐため県下業者に協力を要請通達。
木村守江、米田正文氏など自民党災害視察団入県。
村上建設大臣災害地視察のため入県。
県庁職員の非常配置。
対中央広報資料第一号東京へ自動車輸送。

八月十六日
 ヘリコプター基地勤労員を増員、自衛隊との連絡班編成、宿舎、物資の調達手配完了。
富士吉田市ほか二十二、市町村に災奮救助法の適用(追加)。
同法適用町村へ救援物資輸送。
韮崎市一部通水可能となる。
自衛隊ヘリコプターによる消毒薬晶を空輸、
自衛隊衛生大隊と防疫対策を協議。
武川村へ救援班派遣。
災害復旧工事要領決定。
自衛隊派遣要請(第二次)。
県教委で高校生の災害復旧作業動員を決定。
村上建設大臣一行程災地視察(二日目)。
自衛隊続々と入県復旧作業に着手。
知事上京要路に陳情。
対中央広報資料として災害写真を急送。
復旧金融措置について関係者と協議会を開く。
各地より被害状況を収集。
土木部緊急物資の県外調達手配。
自衛隊建設大隊と方法協議。
林務部風倒木の払い下げを営林局に申請。
野呂川林道建設事務所の連絡を回復するため職員派遣。
経済部技術指導班を各地に派遣。

八月十七日
 知事上京(大蔵、自治、農林厚生、建設、文部各省及び国会方面に陳情)。
東京事務所に災害対策本部設置(本部長、勝俣出納長)。
出先機関を動員被害状況の把握方手配。
中央線の開通に伴い物資救援対策強化。
厚生省との接触のため職員派遣。
水道施設の被害状況本省報告。
陸上自衛隊第一一管区総監、高山陸将外一千七有余名災害地派遣配置。
森永ミルクより給水車の申出あり。
食品衛生対策の徹底方通達。
救援食糧ヘリ空輸早川三里ほか、救援物資の調達依頼二千人分。
稲作等予防対策を指導し防除農薬の準備体制完了。
経済部被害状況本省報告。
果樹地帯で高校生の奉仕団活躍。
愛知、埼玉両県の災害復旧土木技術職員応援に入県。
甲府、岳麓地区で日赤救護班活躍県、出先機関への応援団編成。
農林省災害担当官現地視察来県。
林務部長林野庁へ陳情。
対中央連絡のため写真を急送写真アルバム作製。

八月十八日
 防衛庁陸上幕僚長杉山茂陸将入県。
自衛隊指揮班援助完了。
知事、農林、建設ほか関係各省へ陳情。
臨時県議会招集準備。
県職員勤労奉仕隊を編成、甲府市、御坂町、勝沼町に派遣。
一宮町ほか五力町村に災害救助法適用(合計四三市町村)。
救助法により炊き出し、給水の延長。
救援物資の空輸続く。
厚生省防疫瓢より視察来県。
自民党調査団吉川久衛氏ほか来県。
自衛隊首脳部と県部長会議との合同会議。
社会党議員団金丸徳重民ほか視察来県。
救援食糧ヘリ輸送。西山、中富町へ。
救援物資(衣料)確保完了。
各種農業対策を徹底指導方示達。
塩山市に排水ポンプ貸出。
復旧資材の調査開始。
復旧基本計画の検討。
農林省災害復旧課長ら担当官来県。
緊急土木出張所長会議。
応急復旧用資材緊急輸送。
各地で自衛隊復旧作業始まる。
林野庁始め課長ら視察来県。
災害復害住宅相談所を開設。
天皇・皇后両陛下より御敷地金御下賜。

八月十九日
 知事帰甲、部長会議、臨時県議会開会。
勤労奉仕隊各地で活躍。
救助法適用市町村に教授物資送達に全力集中。
自衛隊衛生大隊韮崎に出動。
救援食糧のヘリ輸送、西山、窪平。
農産物災害状況錮査集計の上農林省へ報告(第三次)。
みどり号で災害地の技術対策の普及。
被害ぶどう特別処理について対策協議。
晩秋蚕対策を検討。
復旧金融対策について打合せ、関係機関へ要望。
自衛隊各地で復旧作業。
愛知、東京、神奈川、埼玉の各県に職員派遣要請。
橋梁架設資材調達交通不能カ所踏査、芦安林道復旧資材調達。
災害特報第一号を発行関係方面に配布。

八月二十日
 赤城防衛庁長官災害派遣部隊巡視のため来県。
名執県議長ほか議員団防衛庁長官及び第一監区総監に感謝状決議文手交。
連絡課長会議。
知事視察。
地方交付税繰上げ交付方自治庁に懇請し二十四日に繰上げ交付が決定さる。
災害復旧応急対策一時融資そちについて財務部と折衝。
勤労奉仕隊甲府、石和、勝沼各地で活躍。
各種施設被害状況調査。
救助法適用町村の実態調査。
早川町に救護班急派。芦安村に集団患者発生緊急医療を手配。
西山より急患輸送あり緊急入院そち。
各保健所は防疫対策強化。
韮崎市と住宅復興について協議。
住宅復興相談殺到。
道路橋梁資材調達。
林務部復旧土木工事の執行手配。
芦安林道工事原材料調達。

台ケ原宿(「白州町誌」より)
第六節街道と村(伝馬宿と助郷)
 
徳川氏が政権を掌握すると、江戸を中心に五街道を制定し宿駅を設けた。宿場は本来、公用の旅行者の貨客の輸送を円滑にすることを目的としていたが、もちろん一般旅行者も利用した。公用の旅行者とは、将軍の朱印状や幕府の証文を持参するものである。幕府の名代で朝廷への使者、伊勢神宮代参などに当る幕府役人や大名をはじめ、公家、門跡が主要なもので、変ったところでは「宇治御茶壷御用」などがあった。
宿駅における逓送(継ぎ立て)には
御朱印=公用の貨客で無賃
御証文=公用の貨客で無賃
御定賃銭=公定の価格で割安
相対賃銭=使用者と駄賃稼のもの相互で決める価格で、天保年間ころの例では御定賃銭の約二倍
 
各宿場とも駅伝業務を円滑にするため、常備の馬や人足が定められていた。甲州街道の各宿は、25人、25疋と決められていたがそのうち五人、五疋は火急に備えて待機させていた(囲い人馬)、常備の人馬は宿内の一定の家が当り、交代で勤めたが余暇があると相対賃銭で駄賃稼ぎもした。
公用者はあらかじめ先触れを出すことにより、許可された範囲の人馬を無料で使用でき、不足の場合は御定賃銭によるのが通例である。
諸大名の参勤交代の場合は、御朱印、御証文は与えられたかったから多くは御定賃銭であり、一般旅行社は相対賃銭であった。御定賃銭は人足や馬の運ぶ目方も決められ、各宿ごとに次宿までの値段が、高札場に掲げられたのである。一般的には人馬の運ぶ量は次の四種に分けられていた。
本馬(馬へ荷物だけつける)40貫以内
乗尻(人が乗った馬に荷物をつける)20貫以内。
軽尻(人が乗った場合は小荷物)5貫以内。
(荷物だけの場合)20貫以内。
人足(人の背で運ぶ荷物)五貫以内。
《助郷》
大通行の場合は、宿場の人馬だけでは消化できず近郷の応援を求めることになる。これが助郷村で元禄7年(1694)制度化され、各宿ごとに助郷が指定された。助郷は宿場の近隣とはいえ、宿場への往復にも蒔間がかかり、しかも交通量の多い時期が農繁期と重たり、さらに動員されるのは働き盛りの男であることなど、農村に与える影響が大きく、しばしば間題が起っている。
先に述べたように宿場は貨客の逓送業務のために設けられたものであるが、一つの村落でもある。従って一般の村落同様、村方三役(問屋などの兼任もある)が置かれ、領主(代官)の支配下に属していた。しかし宿場の業務は幕府の所管で、道中奉行の支配下にあり、間屋場を中心に駅伝業務が行なわれていたのである。問屋場は、貨客の継ぎ立てを行なうための事務所であり、その責任者が問屋である。通常は宿場の中央部にある問屋の家が問屋場となり、間屋のほかに年寄、帳付、馬指など宿役人が毎目詰めて業務に当っていた。
年寄は問屋役の補佐であり、帳付は問屋場の下役で毎目の人馬の使用状況を日〆帳に記録した。馬指は問屋場で直接人馬の配置に当る役で、宿内人馬はもとより助郷人馬も差配した。人馬の差配や駄賃の支払い業務は極めて複雑であったから、問屋場での仕事は実際上、帳付と馬指によって行なわれていたと考えられる。
宿場のもう一つの機能は休泊機能である。そのため宿泊のための旅篭屋や休憩所(立場)としての茶屋などがあった。寛永12年(1635)、三代将軍家光によって参勤交代制が定められ、大名や上級家臣が休泊する本陣や脇本陣ができた。
甲州街道は、臨時の通行を除き、信州の高島、高遠、飯田の三藩が利用しただけであったが、他の街道同様に本陣や脇本陣がある。本陣、脇本陣は問屋同様、宿場の中央部にあり、格式も高く間屋や宅主を兼ねる場合もあった。
一般家臣団や庶民が宿泊するのが旅篭屋である。旅篭屋の数は同じ街道でもかなり違いがあるが、通行量の少ない甲州街道は一般的に少なく、農業と兼業のものが多かった。
宿場の町並は、高札場や間屋場、本陣、脇本陣などを中心に、街道の両側に街村状に人家が並び、裏通りもあっても田畑への通行路などであった。また宿の入口や出口には、枡形や鍵の手があって宿内が見通せないようになっていた。-
 
《台ケ原宿》
台ケ原宿の起源は明らかでないが、甲斐国志に「甲州道中ノ宿場ナリ、古道ハ逸見筋ソ渋沢ヨリ此二次グ、今ハ韮崎宿へ逓送セリ」とある。
渋沢(長坂)から花水坂を下り、台ケ原に達する古道というのは、近世以前の諏訪口を指していると思われるから、台ケ原は甲州街道の設定以前から、交通集落としての機能を果していたと考えられる。
近世における江戸中心の幹線道路である五街道は、慶長6年(1601)にまず東海道に伝馬制を定めから中山道、奥州道中、甲州街道、目光道中が順次整備されていった。
甲州街道は元和4年(1618)に「宿請」が申し渡されたという。(「勝沼町誌」)、従って本町内の台ケ原、教来石両宿ともに、このころから宿場として整備拡充されていったと考えられる。すなわち、渋沢から花水坂へ下る古道から、釜無川に沿う甲州街道への移行は、治水や架橋など土木技術と深いかかわりがあり、近世初頭は、このような意味で本県交通史上一時期を画すものといえる。もちろん甲州道中の設定後も洪水には悩まされている。
釜無川をはじめ西部山地から流出する諾河川を横断するための橋が流されることが多かったからである。「此宿前後橋々出水之節流失いたし本道通路差支候砌者、若神子通り渋沢村江当宿より出張いたし、御朱印、御証文、御用物、御状箱等小渕沢村通継立候侯」(宿村大概帳、台ケ原宿)のように、本道が通行不能のときは、韮崎宿から七里岩台上へ上り、渋沢、小渕沢を経て蔦木宿へ逓送した。この場合、宿から渋沢や小渕沢へ出張となり、橋の修復とともに本町の両宿は負担が大きかった。
(略)
当時おおかたの宿場同様、台ケ原宿も高札場や問屋場などを中心に約1キロにわたって道路の両側に家並が続いていた。
国境に位置し、比較的近距離にあった台ケ原、教来石両宿と信州蔦木宿は、人馬の継ぎ立てに関して申し合せがなされていた。すなわち台ケ原宿は、御朱印、商人荷物は毎月1日から25日まで、上りは韮崎宿へ、下りは蔦木宿へ継ぎ立て、25日から晦日まで、下りは教来石宿へ、上りの武家荷物だけは終始韮崎宿へ継ぎ立てることになっていた。
規定の人馬、25人、25疋のうち、4人、4疋は加宿の三吹村が受け持ち、5人、5疋は緊急用の囲い人馬であった。伝馬役は宿内で優劣のないよう配慮され、勤めることの困難なものは「随役金」と称して出金し、病人、子供は随役金も免除された。
(略)
安永八年(1779)の「台ケ原宿人馬勤方二付宿中連印一札」(県立図書館蔵)の定書に
「惣家数九拾四軒之内七拾六軒ハ宿役相勤、残リ拾八軒之内拾軒ハ随役金差出、其外平吉、伊右衛門、新七、幸蔵、甚五左衛門、又七、新五右衛門、松之丞八人之儀ハ親夫相果、後家、子供或ハ重病人ニ而当日難凌困窮之者ニ付、宿中相談之上随役金用捨致侯事」
とある。また同資料によると、台ケ原宿の人馬役金は当時、弐拾両弐分で、その半額は高割、半額は間口割で出金していた。役金は当時の宿役馬37疋、人足3八人に割り当てられるが拾両弐分を馬持ち、残りの拾両を人足役のものが受けとっている。
甲州街道は、東海道や中山道と異たり大名通行や商人荷物は少なく、しかも中馬(農民の駄賃稼ぎとして発達したもので、馬による荷物運送であり宿場も一定の口銭を納め付け通すことができた)が発達していた。そのため宿村大概帳にもみられるように、駄賃の割増しも何回か行われたが実利は少なかった。
《お茶壷道中》
先に述べたように甲州街道は、大名通行は少なかったが、近世前半の寛永9年(1632)から元文3年(1738)の間、御茶壷の通行があった。将軍飲用の宇治茶を、東海道は潮風に当るとして中山道から甲州街道を経て江戸に運んだのである。台ケ原の田中神杜は御茶壷の一宿の場所であった。
甲斐国志に「村上官道ノ東ニ在リ、除地四畝廿四参、社記ニ云フ所祀大已貴ノ命ナリ、古神像アリ、馬場美濃守ノ産神ニテ安産ノ守リ神ト称ス(中略)
此ノ拝殿、昔時ハ毎年御茶壷一宿ノ処ナル故ニ修造料トシテ、金十両宛二度拝領セリ、慶安五年六月、立札ノ写一御茶壷毎年当杜拝殿御一宿候間、拝殿並御番所柱、板壁等落書一切仕ル間敷候、総而穢ラハ敷者並ニ乞食非人等昼夜不可集リ居候事トアリ、其ノ後御茶壷通行相停リ、今ハ形バカリノ拝殿ナリ、見聞雑事ニ御茶壷通行ノ停マリシハ、元禄三年ナリト見エタリ(後略)とある。
御茶壷道中の各宿では、道路を清掃し、環境を整え、百数十人の人足と数十匹の馬を用意し送迎したのである例年六月初旬から下旬が、本町付近の通過時期であり、農繁期と重なった。御茶壷に限らず代官所役人の視察である御巡見もやっかいなものの一つである。
 
『御巡見二付申渡御請印帳』
一、土橋等取繕可申事
一、木之枝、竹薮等往還江出張之分者不障様切払可申事
一、往還筋垣根繕直シ塗壁塀等破損所取繕可申事
一、民家見世先 草履(ぞうり)草鞋(わらじ)等つるし置申間敷、下ニ置可申事
一、通行之節送り迎え役人其外御駕篭之右之方江平伏可致事
一、壱里塚並拾弐町目、弐拾四町目建札可致事
一、休泊請候宿 麻上下着用村内断案内可仕事
一、番小屋三ケ所 村役人詰合不寝之番時序廻り火之元心附之事
一、休泊所之三宝三ツ 御朱印御証文可載三宝壱ツ置可申事
(中略)
一、不用物置雪隠等取払可申候用侯分ハ取繕可申事
一、大巡見御廻村之節御休泊所ニ而馬撃場取建置可申事
「休泊之記」
一、上ノ間襖替可致事
一、小用所等新規ニ可仕事
一、大便所籾柄入可申事
一、手水鉢、手拭、風呂桶
一、手水たらい心附可申事
(後略)
甲州巨摩郡白須村
天保八年酉十二月(白州町役場蔵)
 
右の資料のように通行路の清掃から垣根や屏の修理、不寝番など事前の準備、見廻りの場合、案内人は麻上下着用、一般の村人は右側へ平伏することまで指示されている。
台ケ原宿と明治天皇御巡幸
 
 文明開花、殖産興業を目指す政府のもとで意欲的であった藤村県令は、道路整備にも積極的であった。着任して一年を経た明治七年(1874)一月の告示で「四方ノ声息通ジ難ク、民情随テ固胆ニ安ソジ物産工業為ニ興ラス」(山梨県政百年史)と述べ、四囲を山岳に囲まれた本県の実態から、殖産興業を推進するためにも道路整備が急務であることを指摘している。以来、甲州街道をはじめ旧街道の修築が急速に進められた。
 当時の道路整備は、曲折や高低差の修正、架橋など本格的なもので明治十二年(1879)までに、諸道の修築延長が百二十里に達したと伝えられている(県政百年史)整備に要したぼう大な経費は、学校建築などと同様に大部分が区、戸長はじめ村の有力者や篤志家の寄付によったというから、当時の諸改革は民間の協力なしには推進し得なかったといえよう。
 交通制度もまた新政のもとで改革整備が行なわれた。本県では明治五年(一1872)、県が大蔵省に提出した会社創建の稟議にはじまる。これによると各駅(甲州街道の各宿駅のうち、本県内に十八駅)に陸運会社を設立し、相対賃銭で人馬継立業務を行なうというものである。往還稼ぎを行なうものはすべて入社し、その鑑札をもたなければ営業できないことになった。陸運会社はその後の改正を経て、明治八年(1875)には全国規模の内国通運会社と連合し、鉄道開通まで主要な運輸機関としての役割を果したのである。
 本町の台ケ原、教来石両宿もこのようにして交通集落としての楼能を保ち、近世以上に繁盛した。おりから地域住民あげて新時代の到来を自覚するようなできごとがおこった。明治十三年(1880)、明治天皇の山梨、三重、京都三府県のご巡幸である。ご巡幸は伏見官をはじめ太政大臣三条実美、参議伊藤博文、内務郷松方正義ら供奉する文武百官四百余人を随え、六月十六日皇居を出発したのである。
 本県ではすでに四月十三日、県下から各郡長に内達され、二十六日には聖旨を県民に布達、三十日には沿道各町村において心得べきことを各役場へ布達していた。甲州街道を進まれた行列は、甲府に二日滞在後、六月二十二日、午後一時五分、円野御小休所を出発、午後二時十五分、菅原行在所(北原延世宅)にご到着、一泊された。すでに現つ神として尊崇されていた主上をはじめ、新政府の要人多数を迎えて、台ケ原宿はもちろん沿道各地では近世における大名行列以上に混雑を極めたと思われる。
 御泊行在所は菅原村北原延世、
御馬車舎は古屋喜代造、
御厩は北原延世田内、
御立退所は菅原村蓮照寺、
御小休所は教来石駅河西九郎須宅
と定められ、五月十八日、近衛局御先発陸軍会計軍吏副横幕直好から次のような指令があった。
〔菅原行在所〕
  菅原行在所 北巨摩郡台ケ原駅 北原延世
 北原延世は酒造業を営み、家宅広く行在所に可なるを以て笹子峠と同じく、
 五月七日、行在所に内定し、左の箇所の修繕を指令す。
  御泊行在所
一 御浴室並御厨取設ノ事
一 御馬車足並御馬繋取設ノ事
一 表裏へ内メリノ事
一 門並玄関へ幕張折釘打ノ事
一 馬繋場奥入二付宿並建札ノ事
一 在来便所へ障子〆切ノ事
    〆六件
 此営繕費金七百六拾五円余、外に私費修繕したるもの、表裏門戸修繕費金百参拾四円余也
  御立退所 同村蓮照寺
 供奉官員以下屈従者の宿割は、駅内及び隣村の民家舎北原慶道外三十余戸に割当す。宿割左の如し。
第一号甲
第一号乙
第三号
第四号
第五号
第六号
第七号甲
第七号乙
第八号
第九号
第十号
第十一号甲
第十一号乙
第十二号
第十三号
第十四号
第十五号
第十六号甲
第十六号乙
第十七号
第十八号
第十九号
第二十号
第二十一号
第二十二号
第二十二号ノ内
第二十二号ノ内
第二十三号甲
第二十三号乙
第二十四号甲
第二十四号乙
第二十四号乙ノ内
第二十四号乙ノ内
号外一号
号外二号
大臣護衛警官
伏見官
参議護衛官
内閣書記官以下
内務書記官以下
駅逓官員
警視以下
護衛長
大蔵書記官以下
陸軍中将
陸軍佐尉官
騎兵下士以下
騎兵下士以下
宮内卿
宮内少輔
宮内書記官以下
式部助以下
待 従
待 従
待医以下
内膳課
調度課
内匠課
内廷課
宮内属
輿丁
輿丁
御厩課
御厩課
宮内属以下
宮内省雇
馬丁
馬丁
文学御用掛
印刷局
北原慶造
台原台祥
原光太郎
宮川庚平
原田佐左衛門
北原民平
清水勘四郎
石井半十郎
大輪関三郎
山田勘兵衛
古屋荘平
山本庄青
島口杢兵衛
北原 篤
北原 篤
宮川仁左衛門
原 弘
古屋茂一
古屋照時
小松浜平
入戸野六平
台原益之
島口元右衛門
北原庄太郎
細田信茂
細田薫顕
細田治郎吉
菊原是副
細田 伝
伏見伝八郎
鈴木員村
鈴木清兵衛
伏見孫右衛門
山田伝右衛門
大森直竜
      
〔御小休所〕
御小休所も亦、行在所と同時に内定す。北都留郡田尻駅、犬目駅、花咲駅、初狩駅、東八代郡駒飼駅、東山梨郡日川村、東八代郡石和駅、中巨摩郡竜王村、北巨摩郡円野村、教来石駅の十箇所なり。指定したる家主の氏名及び修繕箇所 左の如し。
北巨摩郡教釆石駅 河西九郎須
  御小休所
一 湯殿床下並入口戸締ノ事

全1ページ

[1]


.

過去の記事一覧

白州町地域なんでもジャーナル
白州町地域なんでもジャーナル
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30

Yahoo!からのお知らせ

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

CMで話題のふるさと納税サイトさとふる
毎日お礼品ランキング更新中!
2019年のふるさと納税は≪12/31まで≫
数量限定!イオンおまとめ企画
「無料お試しクーポン」か
「値引きクーポン」が必ず当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事