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設楽原の戦い 設楽原をまもる会
(註、山梨県にはこうした事例は見えない)
戦国時代に、長篠城をめぐる戦いは三回行われましたが、ふつう「長篠の戦い」という場合は、天正三年(一五七五)五月の戦いを指します。そしてこの戦いは前の部分の「長篠城の攻防」と、後の部分の「設楽原の決戦」の二つに大きく分けることができます。
一、長篠城をめぐる攻防
甲斐の武田軍にとって長篠城は信州の山間を通って三河の平地に出るところにあり、やがて京都をのぞむためには、とても大事な拠点となる城と考えられていました。それに、元亀二年(1571)には一旦武田方に属したものの、二年後の天正元年には徳川方に降った城でもあります。
天正三年五月に奪い返そうとして武田勝頼は15,000の大軍を率いて、長篠城を取り囲みました。
五月八日から毎日のように攻撃を仕掛けましたが、奥平貞昌以下500の城兵僧よく戦って防ぎました。しかし、少人数で城を守各にも限りがあるため、貞昌は救援の使者として鳥居強右衛門勝商を岡崎へ向かわせました。徳川家康はその報告を受け取ると、かねてからの約束通り織田信長の助けを借りて五月十七日には設楽原へ出陣し、長篠城救援の気構えを見せました。
設楽原へ到着した織田・徳川、38,000は連吾川の西側に陣を敷き、馬防柵を入りに作りはじめました。これは当時日本一と恐れられていた武田軍を迎え撃つために信長が考え出した戦法です。つまり、武田軍を柵の前におびき出寄せて、隠し持った鉄砲3,000挺を撃ちかけて一気に勝敗を決しようとする方法です。このため信長ははるばる岐阜から柵木を持ちはこばせていました。
一方、武田勝頼は軍議の結果、一部を長篠城に残しておき、大部分の軍勢を引き連れて豊川を渡り設楽原へ出陣しました。そし連合川東岸の台地に敵陣を見下ろすような格好で陣地を敷きました。
このときの両軍陣地のあらましは次の通りです。
(武田軍)北の方から
武田軍の本陣 才の神
馬場信房の右翼隊
内藤昌豊の中央隊
山県昌景の左翼隊
織田信長の本陣 茶臼山
(織田・徳川連合軍)北の方から
佐久間信盛の丸山陣地
徳川家康の八剣山陣地
大久保兄弟の小川路陣地
後詰めとして羽柴秀吉、岡崎信康、織田信忠。
鳶ケ巣山奇襲隊として酒井忠次、菅沼定盈
その別働隊として設楽貞通
設楽原決戦の行われた五月二十一日は、今の暦でいうと七月九日に当たります。
ちょうど梅雨明けの頃で野山には夏草が生い茂り、田んぼには稲の苗も植え付けられて、かっこうやカエルの鳴き声がのどかに聞こえていたことでしよう。
前夜から密かに豊川を渡り吉川を通って、鳶ケ巣山を目指していた潜井忠次は夜明けとともに武田軍陣地に襲いかかりました。その喚声が遥かに聞こえてきた設楽原では、しばらくたってから勇猛を誇る武田軍が連合軍陣地に殺到することで戦いの幕が開けられました。
しかし慎重に作戦を立て、準備をして待ちかまえていた連合軍の前では、さすがの武田軍もいつもの戦いとは勝手が違ったことでしょう。柵の手前には狭いながらも連吾川があり、川を挟んでは、田植えを終えたばかりの泥田が続いています。それらを越えて、やっと柵に近づいたかと思うと三〇〇〇挺の鉄砲が間断なく火を吹きます。激しい攻撃が繰り返されるたびに死傷者の数が増えていくばかりです。
しかしそうはいってもやはり天下無敵とうたわれた武田軍です。どこでも、勇猛果敢な戦いぶりを示しました。中央部の八剣山付近では、柵にとりついて大音声をあげて壮烈な最期を遂げた土屋昌次、また三重の柵を乗り越えて敵陣に突入した甲州武者の活躍が、むしろ連合軍側で感動を持って伝えられていきました。
北方の丸山陣地では佐久間信盛の堅い守りを崩して、取りつ取られつの死闘を繰り返した馬場信房、そして豪勇の真田信綱、正輝兄弟、兄弟の軍に攻撃を仕掛けていく山県昌景率いる赤備えの部隊、駆け引きを心得た勇戦ぶりの数々、いちいち挙げたらきりがありません。
やがて正午も過ぎ二、三時間たつと、武田軍の劣勢はもはや明らとなりました。柵より討って出る敵方に押されて、じりじりと後退を始めました。
この上はせめて大将武田勝頼だけは無事国元へ落ち延びさせたいと馬場信房が最後の力をふりしぼり、銭亀付近で殿戦に果てると、朝からの激しい戦いも、ようやく終幕を迎えました。武田軍10,000、連合軍6,000、これがたった一日10時間足足らずの戦闘で失われた尊い人命です。
設楽原に住む村人たちは、戦いの行われていた間、じっと息を潜めるような思いで、小屋小久保に避難していました。やがて戦いが終わり、家に帰って行ったのは、夥しい死者を懇ろに葬ることでした。
その場所は今も慰霊の丘として知られる信玄塚で、毎年行われる「火おんどり」は死者を供養するための火祭で、四百三十年余年も連綿と受け伝えられています。
結び
設楽原の戦いの後、武田軍の勢力は次第に弱まり、七年後に甲斐天目山で滅ぶきっかけとなりました。またこの時の戦い方が、その後の戦法や築城に大きな影響を与えました。
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