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白州町の神社 近代の神社
慶応三(1867)年十月、将軍徳川慶喜の大政奉還から、同年十二月明治天皇復古宣言により、明治維新は神武のいにしえにかえり「敬神崇祖」「祭政一致」の精神をその根底においたものであって、慶応四年三月には太政官布達によってこの方針が明
示された。
明治元年三月二十八日太政官布告により、明治維新の「神仏分離令」が発せられ、それまで神仏習合思想により、神と仏は一心同体と考えられ神仏混清であったものを、神仏をそれぞれの本来の姿にたちかえらせようとしたものであり、「本地垂迹説」により、神社の境内に神宮寺や本地堂が建てられていたが、明治四年ごろまでの間に神社から分離されたり廃絶されたりした。
明治初年以来政府は全国の神社の調査をした結果、明治十二(1879)年法的根拠をもつ全国神社明細帳を完成した。これによると神社の総数は一七六、〇四五社である。
昭和二十年八月、日本の「ポツダム宣言」の受諾にともなって、同年十二月十五日の「神道指令」ならびに昭和二十二年五月三目に施行された「日本国憲法」は、明治時代以来の神社対国家の関係を全面的に変革したものであり、これによりいっさいの宗教は国家から分離され、昭和二十二年二月二日の勅令第七十一号および内務省令第五号をもって、神社に関係する従来のいっさいの法規や社格、そして神低院の官制までも全廃した。
昭和二十年十二月二十八日宗教法人が発令され、神社は従来の性格を改めて宗教法人として発足することになった。
また国家の神杜行政上の機関であった神?院をはじめ都道府県の社寺課、市町村の社寺係なども廃止されたので、昭和二十一年二月にいたって、全国神社の総意にもとづいて、神社本庁なる宗教法人の包括的教団が組織され、本部を東京に置き、都道府県にそれぞれ神社庁を設けて、神社の宗教法人事務および宗教教化などに関する連絡をとることとなった。
当時全国における神社数は一〇六、二二七社であったが、宗教法人とみなされたものは八七、二一七社で、そのうち八六、一五七社は神杜本庁に属し、他の一、〇六〇社は単立社もしくは一教派となり、残余の社は小桐であるとの理由で宗教法人の登記をしなかった。
国家管理は消え、神社を崇拝する氏子または崇敬者によって維持経営をせねばならたくなった。また同二十二年国有境内地の処分法が施行され、明治四年上知された境内地は既得の権利を生かして社寺に無償譲与となった。それから約四十年経た今日信仰の念篤く祭事も昔時の彩に復活しつつある。
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