白州町情報最前線 サブやんのなんでもジャーナル

山梨県・北杜市・白州町のありのままの姿をジャンルを問わず綴っていきます

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山梨県歴史講座 武田発祥の重要文献 甲斐武田氏は、流罪人義清を祖とすること
武田義清・清光をめぐって(『武田氏研究』第9号 志田諄一氏著 一部加筆)

これまでの武田定説
 甲斐武田氏の出自については、新羅三郎義光の子の義清が甲斐国巨摩郡の武田郷に館を作って住んだので武田と称したとか、あるいは義清が甲斐国市河荘に土着して、甲斐源氏の基盤を作り、子の清光を八ケ岳山麓の逸見荘に配して荘司としたので逸見冠者と称した。清光は子の信義を武河荘武田に配した。この信義が初めて武田氏を名乗った、ともいわれてきたのであります。
 これらの説は長い間定説とされてはきたが、従来も甲斐武田氏の出自に関しては釈然としない面があったのです。それは『尊卑分脈』や.「武田系図」に、義光の子義清が「甲斐国市河荘」に配流されたと記されていたからであります。義清の配流が甲斐源氏の土着のきっかけになったわけであります。これは甲斐武田氏の研究にとっては、もっとも重要な史料であり、なによりも間題にしなければならなかったのであります。
 だが江戸時代以来の研究者は、このもっとも重要な史料の解釈を一歩から誤ってしまったのであります。義清が甲斐国市河荘に配流されたということは、犯罪により流罪になったことを意味するわけであります。そうすると、甲斐武田氏は、流罪人義清を祖とすることになるのであります。
 そこで武田を最初に名乗ったのは、義清ではなく孫の信義が武河荘武田に住んで武田氏を称した、としたのではないでしょうか。
 義清配流の事実は、甲斐武田氏にとって不名誉なことと考えていたことが知られるのであります。この事実を正面から取りあげて否定しようとしたのが『甲斐国志」であります。
 そこでは、
「義清ガ初メ官ヲ授カリ市川郷ニ入部シタルヲ誤リテ京師ヨリ還サルト憶ヒ、配流ト記シタルナラン、必ズ流罪ニハ有ルベカラズ」
と弁解しているのであります。「必ズ流罪ニハ有ルベカラズ」というのは、義清が流罪者であっては絶対に困るのだ、という強い意志がみられるのであります。
 「二宮系図」でも義清が甲斐の目代青島の下司になり、入部した、と記しています。『甲斐国志」の説は広く受けつがれ定説となりました。
 奥野高広氏の『武田信玄」にも、「義光の二男義清は市河荘と青島荘の下司として、この地に土着した。新羅三郎義光は義清を嫡子と定めた。つぎに義清・清光父子が経営に着手したのは巨摩郡北部の逸見郷で、逸見その他の荘園を成立させた。清光の長子光長は逸見荘を守って逸見の始祖となり、次子信義は武河荘の武田に住し、甲斐武田氏の祖とたる家柄をきずいた」と述べております。

甲斐武田氏は、流罪人義清を祖とすること
 しかし、義清は市川荘や青島荘の下司として甲斐国に派遣されたのではなく、市河荘に配流されたのです。また義清の孫信義が最初に武田氏を名乗ったのではなく、義清は初めから「刑部三郎武田冠者義清」として甲斐国に配流されたのであります。
 それでは甲斐武田氏の祖となった義清はどういう人物なのか、なぜ市河荘に配流されたのか、などを考えてみましょう。義清の父である新羅三郎義光が、後三年の役のとき兄義家の苦戦を聞き、左兵衛尉を辞し救援のため奥羽に下向したのは有名な話であります。しかし、藤原為房の日記『為房卿記』、寛治元年(一〇八七)八月二十九日条によると、義光は「身の暇も申さず、陸奥に下向し、召し遣わすといえども参らなかったので、解任した」とあります。『本朝世紀」寛治元年九月二十三日条にも、「左兵衛尉源義光の停任の宣旨を下さる」とみえるので、八月二十九日に義光の左兵衛尉解任が決議され、九月二十三日に天皇の決裁が下されたのであります。
 義光のこうした強引な行動は、兄弟愛や源氏発展のためだけとは思われない面があるといわれています。義光の兄である義綱は義家不在の京都で源氏の代表者として摂関家に臣従し、武威を誇っていながら義家の奥羽での戦いに協力した形跡がないのです。義光はこれまでいつも兄の義家・義綱の威勢に押されて、自分の力を発揮することができなかったといわれております。そこで後三年の戦いを利用して奥羽に乗りこみ自分の勢力を拡大しようと考えたのであります。

白州町 旧鳳来小学校沿革
明治六年七月
学制領布につき上、下教来石、鳥原の三ケ村合併して下教来石来福寺を仮用して教来石学校を設立する。
明治六年八月
県官出張して開校の式を行なう。大武川村福泉寺に大武川学校を設立する。
明治八年
新村成立により鳳来学校と改名する。
明治十二年三月
小学組合を設け教育会議を起す。
明治十三年十月十九日
新築校舎落成、県令藤村紫朗臨席L開校する。
明治二十年四月
鳳来尋常小学校と改名し、大武川学校を分校とする。
明治二十年五月三十日
下教来石大火災につき臨時休校する(一週間)。
明治二十年七月二十一日
父兄を召集して授業料の儀につき説諭する。
明治二十年十一月十日
高等小学校に入学しない生徒のために温習科を設け教授する。
明治二十一年三月二十六日
小学校教科書改正せられる、本校教員は郡衛に会して其の図書を決定する。
明治二十一年九月十八日
各小学校三、四年級生徒を河原部高等小学校に召集し臨時合同試験を行う。
明治二十二年三月十四日
郡長より本校規則を認可さる。
明治二十四年六月一日
農休を開始す、六月一日より二十五日までとする。
明治二十五年四月一日
大武川を分教場とする。
明治二十五年五月十八日
新学令により小学校修業年限を四ケ年と決して知事に認可を願い出る。
明治二十五年五月二十三日
大武川分教場設置の件郡長より認可される。
明治二十五年八月七日
教育幻燈会を開く、当村初めてなので教育上大いに感動を与える。
明治二十六年七月二十七日
《明治天皇》
聖影奉迎のため村界、濁川端まで、児童、教員、村役場吏員、村会議員、区長、組長、村有志■二一〇名。
午前十一時三十分頃一発の祝砲と共に警察署長騎馬にて前駆御馬車は巡査護衛にて無事御安着直ちに拝戴式を挙行、式終了後児童一同赤飯、参加者には祝酒赤飯をふるまう。
本日の祝いとして煙火二十本を打ち上げた。
明治三十三年七月十七日 
学校医設置され、清水業造医師之に当る。
明治三十三年十月四目
始めて本校、分教場の児童の身体検査を行なう。
明治三十六年七月四日
落合小学校内において甲信連合懇話会を開く。
明治四十年六月二日
大武川分教場焼失、校具過半を失う仮校舎福泉寺とする。
明治四十年十一片十四〜十五日
岡谷に修学旅行を行なう。
明治四十一年七月二十七日
大武川分教場上棟式を行なう。
四十一年九月一日
村内赤痢病大流行(患者百余宅)のため十五日まで臨時休校となる。
明治四十一年十二月九日
大武川分教場新築落成する。
明治四十二年七月五日
各区児童出席奨励の手段として始めて優勝旗を其の往復に樹立させる。
明治四十三年八月十九日
卒業生同窓会組織さる。
四十三年十月二十一日
本校改築竣工し大武川分教場と併せて本日を以って開校式を挙行する。
明治四十四年五月十日
高等小学校を設置し之を尋常小学校に併置する事の件認可される。
明治四十四年十月二十一日
本校改築一周年記念大運動会を行なう。
大正二年十月二十二〜二十三日
清水校医来校、児童トラホーム定期検診を行なう。
大正三年
校舎を増築する。
大正三年三月十日
本校第一回父兄会を開く、会する者百余名の盛会を極め、一般参考有利の点多きを感ずる。
大正四年三月十日
母姉会を開き実地授業参観後学芸会を開く。
大正四年十一月十一日
御大礼記念連合運動会を鳳来、駒城、菅原、富里各学校合同にて白須松原御料林内で行なう。
大正五年三月十日
父兄懇話会を開催。
大正九年一月二十七日
インフルエンザ大流行のため二月二日まで学校閉鎖する。
大正十一年一月二十八日
村教育会の発会式を行なう。
大正十一年十月三十日鳳
来少年団を設立する。
昭和三年六月二十日
校舎増築落成す。
昭和五年六月三十日
北巨摩郡教育会主催バスケットボールに優勝する。
昭和五年十月十二日
北巨摩郡教育会主催陸上競技大会に第二位となる。
昭和八年十一月二十五日
児童農産物品評会開催展覧す。
昭和九年一月十八日
従来の火鉢を全廃してストーブを取付ける。
昭和九年一月二十六日
第一回スケート大会を鳥原部落の田において行う。
昭和九年三月六日
父兄会並に学芸会を行なう。
昭和九年十一月二十六日
児童一坪農産物品評会を開く。
昭和十年一月十五日
本校尋常科五年以上の児童を以て組織した少年消防隊発令式を挙行する。
昭和十年三月二十日
本校実習田収穫米を各部落五神社に供えた御供米を村内各戸に配布した。
昭和十二年三月三十一日
大武川児童、落合村よりの登校禁止に接し、尋常科昭和六年以下二学級編成で開校する。
昭和十三年十月十四日
尋常科六年生四三名参宮旅行を行なう。
昭和十六年四月一日
学校令改正により鳳来国民学校(初等科・高等科)と改名する。
昭和二十年二月一日
保護者会開かる。
昭和二十年六月二十二日
鳳来国民学校学徒隊結成式を行なう。
昭和二十年八月十五日四月
始めより高等科児童は授業停止、学徒動員され、教室は軍小池隊に貸与し、其の上諸程の作業に協力したが終戦となり、再び元の教室に入り授業を開始する。
昭和二十一年一月二十九日
御真影を奉還す。
昭和二十一年五月二十八日
五、六年生食料野草を採集する。
昭和二十一年九月三十日
外地引揚老戦災者軍人遺家族慰安学芸会を行なう。
昭和二十一年十一月二十五日
教育再建父兄大会を行なう。
昭和二十二年四月一日
学則改正により鳳来小学校と改名する。
昭和二十二年六月十六日
DDTを全校児童に散布する。
昭和二十二年十月十六日
教育復興村民体育大会を開く。
昭和二十三年五月十六日
学校自治会の結成を行なう。
昭和二十三年七月十五日
校内放送設備完了する。
昭和二十三年十月二十二日
子ども信用組合を設立する。
昭和二十四年一月二十九日
五日制を実施する。
昭和二十四年六月四日
米国軍政部担当官グレゴリー氏本校を視察する。
昭和二十四年九月十七日
菅原小学校に支会各小学校集り連合体育祭を行う。
昭和二十六年四月一日
大武川分校児童落合小学校に委託する。
昭和二十八年六月三日
目バードウーク学校賞を受ける。
昭和二十九年二月十七日
ミルク給食を開始する。
昭和二十九年十二月一日
給食にみそ汁を加える。
昭和三十年六月四日
郡球技大会に優勝する。
昭和三十年七月一日
町村合併により白州町立鳳来小学校となる。
昭和三十一年四月四日
町制祭につき講堂にて芸能大会を催す。
昭和三十一年九月十九日
第六学年文部省学カテスト実施
昭和三十二年五月二十七日
郡球技大会に於いてソフトボール優勝する。
昭和三十三年一月十七日
ミルク給食が牛乳となる。
昭和和三十七年十二月七日
健康優良学校として県より表彰さる。
昭和三十八年十二月二日
給食がセンターにより行なうようになった。
昭和三十九年二月二十五日
納税奨励作文最優秀校になる。
昭和三十九年十月二十三日
交通安全協力校として県警より感謝状を受ける。
昭和四十年十月十六日
長坂署より学校交通自治班が表彰。
昭和四十三年五月二十四日
郡球技大会にソフトボール優勝する。
昭和四十五年八月十日
村民有志と教職員の寄附金によって、下の校庭にプールを設置、本日竣工し児童初泳ぎをする。
昭和四十九年六月二十二日
県教委より昭和四十九年県統計教育研究校に指定される。
昭和五十年五月十四日
県教委より昭和五十年度県統計教育研究校に指定さる。
昭和五十年十二月四日
県統計教育研究大会開催。統計図表入選者表彰式で本校児童多数受賞
昭和五十二年三月七日
閉校記念として校舎全景写真撮影。
昭和五十二年三月二十三日
閉校式挙行児童、職員の写真撮影。

白州町 旧鳳来小学校沿革の概要
明治六年七月、
学制頒布後下教来石では、来福寺を仮用して教来石学校を、大武川では福泉寺において大武川学校(後の分教場)を設立して開校したのが鳳来小学校のはじめであった。
その後地域住民の理解と協力で施設設備の充実が図られ、明治十五年学齢児童一五五宅の内就学児童一五〇名と、就学率も約九七バーセソトに達して義務教育の成果が順次向上していった。

明治十三年十月十九日
県令藤村紫朗臨席のもとに新校舎の完成式が盛大に挙行された。

明治三十五年三月
村議会に於いて教育費五七四円九六銭が議決され、児童数一一六名であった。

明治四十年
義務教育年限が四ヶ年から六ヶ年となり、基礎教育の向上がはかられた。

明治四十三年八月
同窓会を組織して発会式をあげ、会員相互の親睦を図るとともに学校教育を側面から援助することになった。

明治四十三年十月二十一日
本校改築竣工と大武川分教場とを併せて開校式を挙行したが、本校改築費は郷土出身東京松屋百貨店杜長古屋徳兵衛氏や、北海道で名をなした名取高三郎氏ほか十三名の浄財三、九〇〇円の寄附によってまかなわれた。なお下教来石青年団も廻旋塔一基を寄贈された。以後本校には篤志家による施設設備の寄贈が多くなされ学校教育推進向上に多大な貢献をしてきた。なかでも古屋徳兵衛氏は度重たる金銭、物品の寄贈をされたので、村民こぞって昭和十二年十月六日同氏の碩徳碑を校地内に建立し、除幕式が挙行された。

明治四十四年五月一日
高等科併置が認可された。併置当時は在籍数尋常科二六四名(男一三六名女一二八名)。高等科一七名(男一五名・女二名)となっている。
 
大正二年
在籍児童数は尋常科二八三名(男二二四名・女一四九名)、高等科二一名(男一七・女四)、教育費一、五六五円七十銭と、父兄も教育には熱心で大正四年には母子会をつくり、授業参観をして家庭と学校との話し合いの会を開いた。

昭和二年
在籍児童数尋常科二六七名(男一四三名・女二一四名)高等科五四名(男三二名・女二二名)。教育費も七、九〇五円と増え、

昭和三年十月十日
校舎増築落成式を挙行して、建物も教育内容も充実してきたが、日華事変の勃発とともに戦時色が濃くなり、

昭和和十六年
校名も十六年には国民学校と改称され、国家総動員態勢が一段と強化し、教育内容も戦時体制の方向に変わっていった。戦争が熾烈になるにつれ主要都市等の爆撃も烈げしさを増し、学童の生命を守るため地方へ疎開させたので十六年本校学級数初等科八、高等科二、在籍児童数初等科二〇三名、高等科七〇名

昭和二十年
初めには初等科三一〇名、高等科八○名計三九〇名と増加した。

昭和二十年八月
敗戦以後も食糧や生活物資が不足し、闇商が横行し、正直者は生きて行けない時代と言われた。このときユニセフ物資によるミルク給食、続いてパソ食を加えた学校給食が開始された。

昭和二十二年四月一日
六・三制の実施による学制改革で鳳来小学校となったが終戦前後は、極度に食糧や生活物資が欠乏して国民生活は非常事態であった。敗戦によって封建主義の時代から民主主義の時代と、杜会や教育に大きな変革がなされ、民主主義の新しい教育理念にたった教育基本法に基づいた教育が実施されてきた。

昭和二十七年十一月
市町村に教育委員会が設置され、地域の要望にそった教育がなされるようになった。またPTAの誕生によって父母と教
師とが一体となって教育の推進をしていくのであるが、本校では二十一年学校に在籍する児童一の父母ばかりでなく、村全体が学校教育向上に協力すべきだという考えのもとに、PTA・後援会を組織し爾来地域を挙げて、物心両面から学校教育推進のために貢献されたのは本校の特色である。

昭和二十八年
またそのころは、物資の不足から教科書も数十ぺージのうすいもので、しかも用紙が粗悪の時代が何年か続き今それを見れば、これが教科書かと思われる程である。その後は急速に経済の回復が進むなかで教育改革も新しい方針に従って国民生活の中に根をおろしていった。校舎の老朽化で改築の気運がもり上ったとき、中学校の統合がなされ新しい中学校舎を二十八年四月より使用することになったので特別教室も多く設けられ、なかでも音楽教室は階段教室ともいわれ、音楽を指導する上で大いに効果をあげてきた。
なお児童の情操教育にも重点をおき自然を愛し物を大切にする教育を推進していくたかで、二十八年六月には北巨摩地方事務所よりバードゥイーク学校賞を受けた。

昭和三十四年八月十四日・三十七年
早朝、台風七号が本町に甚大な被害をもたらし特に荒田方面の災害は大きく児童の家で全壌一、半壊一、土砂浸入家屋九、田畑の流失埋没の被害多大の上に、九月二十六日の台風十五号の再度の災害にあい、下教来石、荒田の集落民は本校講堂で避難の一夜を過した。
情操教育とともに児童の健康教育と健康管理の必要性を痛感し、全ての教育に優先するのは健康教育であるという全職員の共通理解のもとで、昭和三十四年四月から県教育委員会及び学校保健会の実験学校の指定を受け児童の健康教育にとりくんだため、児童の健康状態は順次よくなっていった。その成果を県でも認め昭和三十七年十二月健康優良学校として表彰を受けた。

昭和四十年度
予算は七七二、一五〇円である。

昭和四十九年六月
県統計教育研究指定校になり、統計的なものの見方、考え方による教育の推進を図り成果を上げてきた。

昭和五十年度
学校予算は三五五万三、000円である。

昭和五十二年三月 
文部大臣表彰の栄誉に浴した。その間、花いっぱい運動を展開、花を育てる運動優良校。花いっぱい運動推進校として優秀だったので、郡、県、国の表彰を受けた。また情操教育の充実にも全職員一丸となって努力したので、県内外からの視察者が多かった。

このように開校から閉校まで特色ある学校経営がなされてきたのである。開校以来の卒業児童総数は尋常科三、〇一〇名(明治二十五年以降の卒業児童数で開校から同二十四年までの卒業数は不明)、高等科は八一七名の多数に及んでいる。

鳳来小学校校歌 
作詞 向井房恵
作曲 坂口五郎
一、
ゆかし鳥原清ら石
その名もしるす古里は
いま新生のわかやぎに
かおる鳳来小学校
二、
富士をはじめのいく山が
みかげの水にてりそいて
実のり豊かに春秋を
はげみいそしむ学びの舎
三、
緑のおかに釜無の
平和のひびきこもるなり
世界文化はもみじ葉と
ともに輝くわが母校

白州町の歴史 交通の整備と明治天皇御巡幸

文明開花、殖産興業を目指す政府のもとで意欲的であった藤村県令は、道路整備にも積極的であった。着任して一年を経た明治七年(一八七四)一月の告示で「四方ノ声息通ジ難ク、民情随テ固廼ニ安ソジ物産工業為ニ興ラス」(山梨県政百年史)と述べ、四囲を山岳に囲まれた本県の実態から、殖産興業を推進するためにも道路整備が急務であることを指摘している。以来、甲州街道をはじめ旧街道の修築が急速に進められた。
当時の道路整備は、曲折や高低差の修正、架橋など本格的なもので明治十二年(一八七九)までに、諸道の修築延長が百二十里に達したと伝えられている(県政百年史)整備に要した膨大な経費は、学校建築などと同様に大部分が区、戸長はじめ村の有力者や篤志家の寄付によったというから、当時の諾改革は民問の協力なしには推進し得たかったといえよう。
交通制度もまた新政のもとで改革整備が行なわれた。本県では明治五年(一八七二)、県が大蔵省に提出した会杜創建の稟議にはじまる。これによると各駅(甲州街道の各宿駅のうち、本県内に十八駅)に陸運会社を設立し、相対賃銭で人馬継立業務を行なうというものである。
稼ぎを行なうものはすべて入社し、その鑑札をもたたければ営業できないことになった。陸運会杜はその後の改正を経て、明治八年(一八七五)には全国規模の内国通運会社と連合し、鉄道開通まで主要な運輸機関としての役割を果したのである。
本町の台ヶ原、教来石両宿もこのようにして交通集落としての機能を保ち、近世以上に繁盛した。
おりから地域住民あげて新時代の到来を自覚するようなできごとがおこった。明治十三年(一八八0)、明治天皇の山梨、三重、京都三府県のご巡幸である。ご巡幸は伏見官をはじめ太政大臣三条実美、参議伊藤博文、内務郷松方正義ら供奉する文武百官四百余人を随え、六月十六日皇居を出発したのである。
本県ではすでに四月十三日、県下から各郡長に内達され、二十六日には聖旨を県民に布達、三十日には沿道各町村において心得べきことを各役場へ布達していた。甲州街道を進まれた行列は、甲府に二日滞在後、六月二十二日、午後一時五分、円野御小休所を出発、午後二時十五分、菅原行在所(北原延世宅)にご到着、一泊された。すでに現つ神として尊崇されていた主上をはじめ、新政府の要人多数を迎えて、台ヶ原宿はもちろん沿道各地では近世における大名行列以上に混雑を極めたと思われる。
御泊行在所は菅原村北原延世、御馬車舎は古屋喜代造、御厩は北原延世囲内、御立退所は菅原村蓮照寺、御小休所は教来石駅河西九郎須宅と定められ、五月十八目、近衛局御先発陸軍会計軍吏副横幕直好から次のような指令があった。
○菅原行在所
北巨摩郡台ヶ原駅北原延世
北原延世は酒造業を営み、家宅広く行在所に可なるを以て笹子峠と同じく、五月七日、行在所に内定し、左の箇所の修繕を指令す。
○御泊行在所
一、御浴室並御厨取設ノ事
一、御馬車屋並御馬繋取設ノ事
一、表裏へ内メリノ事
一、門並玄関へ轟張折釘打ノ事
一、馬繋場奥入二付宿並建札ノ事
一、在来便所へ障子〆切ノ事
〆六件
此営繕費金七百六拾五円余、外に私費修繕したるもの、表裏門戸修繕費金百参拾四円余也
御立退所同村蓮照寺
供奉官員以下膚従老の宿割は、駅内及び隣村の民家舎北原慶造外三十余戸に割当する。宿割左の如し。

第一号甲     大臣護衛警官  北原慶造
第一号乙     伏見宮     台原台祥
第三号      参議護衛官   原光太郎
第四号      内閣書記官以下 宮川庚平
第五号      内務書記官以下 原田佐左衛門
第六号      駅逓官員    北原民平
第七号甲     警視以下    清水勘四郎
第七号乙     護衛長     石井半十郎
第八号      大蔵書記官以下 大輪関三郎
第九号      陸軍中将    山田勘兵衛
第十号      陸軍佐尉官   古屋荘平
第十一号甲    騎兵下土以下  山本庄吉
第十一号乙    騎兵下土以下  島口杢兵衛
第十二号     宮内卿     北原篤
第十三号     宮内少輔    北原篤
第十四号     宮内書記官以下 宮川仁左衛門
第十五号     式部助以下   原弘
第十六号甲    待従      古屋茂一
第十六号乙    待従      古屋照時
第十七号     待医以下    小松浜平
第十八号     内膳課     入戸野六平
第十九号     調度課     台原益之
第二十号     内匠課     島口元右衛門
第二十一号    内廷課     北原庄太郎
第二十二号    宮内属     細田信茂
第二十二号ノ内  輿丁      細田董顕
第二十二号ノ内  輿丁      細田治郎吉
第二十三号甲   輿丁      菊原是副
第二十三号乙   御厩課     細田伝
第二十四号甲   宮内属以下   伏見伝八郎
第二十四号乙   宮内弥雇・馬丁 鈴木員村
第二十四号乙ノ内 馬丁      鈴木清兵衛
第二十四号乙ノ内 馬丁      伏見孫右衛門
号外一号     文学御用掛   山田伝左衛門
号外二号     印刷局     大森直竜

○御小休所
御小休所も亦、行在所と同時に内定する。北都留郡田尻駅、犬目駅、花咲駅、初狩駅、東八代郡駒飼駅、東山梨郡日川村、東八代郡石和駅、中巨摩郡竜王村、北巨摩郡円野村、教来石駅の十箇所なり。指定したる家主の氏名及び修繕筒所左の如し。
・北巨摩郡教来石駅河西九郎須
御小休所
一湯殿床下並入口戸締ノ事
一玄関薄縁敷設ノ事
一玄関西ノ方二畳ノ間東ノ方唐紙ヲ障子二替ル事
一門前へ幕串並折釘打ノ事
〆四件


・御休泊所共二御膳水井へ雨除蓋新調井建札取設ノ事
但上屋根有之分ハ不及其義二見込
右の件々現場検査の上御照会および候処相違無之候也
明治十三年五月七目
宮内省十五等出仕中村保福

なお御厩部から次のような指示があった。
仮厩五十三頭建取設ノ事、
北巨摩郡台ヶ原駅山本庄吉、島口多左衛門、島口文左衛門、島口佐次右衛門、鈴木清兵衛、伏見伝八郎、島口嘉吉、山本覚、古屋庄平、古屋茂一
右山本庄吉外九人ハ第十号十一号旅館最寄農家ニテ在来ノ厩ヲ以テ使用ノ積ニ付、別ニ仮建厩ヲ要セザル事
また御膳水については水質極めて精良たるものを選び、四月八日、沿道各郡長に通牒して、予め良水と認むる井水、湧水、流水の場所を調査せしめ、数回水質の分析試験を行ない、宮内省内膳課に報告して次のように採用された。
一、円井御小休伊藤徳右衛門持井戸
一、台ヶ原御泊北原延世持井戸
一、教来石御小休字細入沢湧水
すべて行在所には御厨、御浴室を新設し、御昼行在所及び御小休所には御厨のみを新設した。御浴室は梁間六尺、桁問弐間半、御厩は梁間四尺、桁間九尺、御小休所の御廊は六尺四方羽目板屋根大板葺で、その図面まで示されている。行在所北原延世宅における玉座をはじめ宿泊状況は図面の通りで、北原家の家族は隠宅に移った。また山梨県病院では、台ヶ原駅と下教来石駅に病院出張所を仮設した。
翌二十三日午前七時、行在所を出発。御出門直前に山梨県令藤村紫朗に謁を賜う。七時四十五分教来石駅御小休所(河西九郎須宅)にて休憩。
八時三分ご出発、駅北の端場坂下において早乙女が十四、五人ずつ二組に分れ馬八節を唄いながら田植をしているさまを御通覧たされて長野に向われた。このとき菅原行在所において鳳来村の中山平右衛門、菅原村の小沢らえ、にそれぞれ孝子、節婦として金一封を賜わり賞している。
また各行在所、御小休所等にては、民問より十二、三歳から十六、七歳までの男子にして品行方正容貌端麗なるものを選び給仕として採用した。菅原行在所にては北原忠、北原滝蔵、教来石御小休所にては灰原義一郎、三井幸作、海野義徳がその栄に浴した。


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