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山梨県の自然災害 明治までの釜無川、御勅使川流域の大水害の記録(周辺被害)
(参考『若草町誌』一部加筆)
○勝頼没後、幕府直轄領となるまでの百四十五年間
天正十一年 (一五八三) 十一月
 釜無川・笛吹川氾濫
文禄二年  (一五九三)   
 中巨摩郡下大洪水
慶長十四年 (一六〇九) 九月 
 中巨摩郡下大洪水
慶長十九年 (一六一四) 十月 
 中巨摩郡下大洪水
寛永十九年 (一六四二)    
 中巨摩郡下大洪水
元亀一年 (一五七〇)     
 八ケ岳ヲ押シ出シ塩川釜無ノ両縁ヲ押シ流シ竜王村ヨリ荒川ヲ突キ抜キ笛吹川ニ入ル、国中ハ凡ソ七分
通リ水一面トナル(青木秀知蔵文書).
天正二年 (一五七四)
    八ケ岳崩壌諸川増水、北巨摩、中巨摩郡南湖村付近生田村ことごとく流失、人民流離せんとするを以って之
を北巨摩郡に移せり。現今穂足村に属するもの即ち之なりと言ふ。(『山梨県水害史』)
    伊勢神社(旧村社)須玉町穂足藤田字腰巻当村は天正二年今の中巨摩郡藤田村大洪水のため流亡せるにより全
村民此地に移住し開拓せし新墾地なりと伝えられる。(『須玉町誌』)
文禄二年 (一五九三)
中巨摩郡に洪水
慶長六年 (一六〇一)
穴山村荊の木の堤防決壊、祖母石村の田畠屋敷が流れたので、村人は七里岩の上、新府城跡の南へ移住した。そ
して六年後の寛文五年(一六六五)、釜無川の瀬が変わり安全になったので山を降りて古巣に戻った。(『韮崎市誌』)
慶長一四年(一六〇九)
出水にて中巨摩郡下被害甚大、特に大田和村(田富村)の被害激甚。
正保一年 (一六四四)
御勅使川氾濫。有野村ほか水下二一ケ村に被害。
正保二年 (一六四五)
御勅使川、笛吹川大出水。
承応二年 (一六五三)
九月御勅使川氾濫。沿岸一帯に多大の被害。
承応三年 (一六五四)
諸川氾濫竜王村信玄堤切込水下の田地おびただしく流失す。(甲斐郷土年表便覧)
天和一年 (一六八一)
釜無川大氾濫。竜王村地籍堤防決壊、田畑流失大。
貞享四年 (一六八七)
中巨摩郡下被害大。
貞享五年 (一六八八)
九月笛吹、釜無川ともに洪水。堤防決壊、田畠の被害甚大。人畜の死傷多し。
享保七年(一七二二)
笛吹、釜無川各河川洪水あり、堤防決壊甚だしく農作物の被害大。
山梨県の自然災害 若草町の風水害
(参考『若草町誌』一部加筆)
若草町の地域は東側が釜無川氾濫原、北西側が御勅使川扇状地、南側が滝沢川の氾濫原という地理的条件のため、昔から度々風水害の被害を被ってきた。とくに鏡中条、浅原地区は度重なる釜無川の氾濫により被災の歴史をつづっている。
『甲斐国志』によれば、
○浅原村は天正十四年(一五八六)から寛政三年(一七九一)までの間に五回の移住を繰り返している。寛永年間から(一六二四)は大半の者が西花輸の地に仮住まいし、寛政三年になってようやく当地内新田(現在地)に移住したという。ただしもとから居住していた者は地内の枝郷、三軒屋に集落を形成していたという。
また、浅原という地名の由来も、釜無川の氾濫で一面に水が覆っている状態を表したものだともいわれる。
○鏡中条も『甲斐国志』によれば、釜無川の水難のため、もとの位置より西へ移動したものであるという。
慶長六年(一六〇一)の検地によると村高八一〇石余の反別内訳は田二五町余、畑二五町余、ほかに荒地として田一四町余、畑一〇町余があり、打ち続く釜無川の氾濫のため荒廃した耕地がいかに多かったかを示している。
また釜無川の川除普請の堤防が六ヵ所あり、普請用の渡し舟一隻が置かれたとある。
○寺部村も同じ慶長六年の検地で、村高五二五石余の耕地面積は田三町
余、畑二二町余となっているが、天正十七年(一五八九)に行われた代官伊奈熊蔵の検地、いわゆる「熊蔵荒」では荒地一六町余と記録されており、水による被害が激しかったことを物語っている。
武田治世が終わる天正十年(一五八二)までにも甲斐は度々大水害に見舞われており、天文十三年(一五四四)、十五年、十九年、二十二年、元亀元年(一五七〇)、天正二年(一五七四)などの記録が残されている。
 
山梨県の自然災害 武田信玄の治水
(参考『若草町誌』一部加筆)
 
後奈良天皇の天文十年(一五四一)武田晴信(信玄)は父信虎を駿河に追放して甲斐の国主となった。その前年の天文九年に大暴風雨があり、十一年秋には釜無川の大洪水のため、甲斐一円は泥海と化し、田畑・人畜の被害は目を覆う惨状であった。
信玄は中国の古典に深い造詣を持っていたが、とくに「万里の長江、あに千里に一曲せざらんや」「水を治むる者は天下を治む」という哲理に心酔し、これを甲斐の治水政策の上に見事に適用したのである。
川除けの築堤術というものは、よくよくその流れの特徴を分析して行わないと、築堤の反対側が必ず破れるという鉄則があり、自然の流れに逆らうと予想外の方向に流れてしまうのである。黄河の氾濫に悩まされた中国人は、自然に流下する水路を見極めた上で、無理なく堤防を築いたところ、これが見事に成功した。
信玄はこの点に着目し、普請奉行に命じて釜無川の激流が洪水の時、どのように甲府盆地を襲うのかを研究させ、その原因が本流の釜無川だけにあるのではなく、支流の御勅使川にあることをつきとめた。
そこでこの両川の治水工事に天文十年(一五四一)から取り組み、二十年間に及ぶ大工事ののち、永禄三年(一五六〇)にほぼ完成した。
《筆註》
この記載事項には一部史料に基づかないものがふくまれている。(赤字部分、以下疑問箇所も
 
工事のあらましは、八田村の六科に将棋頭という圭角の石堤を築いて御勅使川を表裏二川に分流させた。分流した新川をさらに割羽沢と合流させ、再び新川に合流させて水勢を弱めながら釜無川に合流させて相牽制させ、さらに東岸の古同岩(現竜王町)に当てて水勢を殺いだのである。
釜無川と御勅使川の合流点には十六個の巨石(十六石と呼ぶ)を並べて、逆流により西岸の本堤が決壊するのを防いでいる。自然力を利用した、まことに巧みな工法であった。
さらに高岩の下流には東岸に堅固な堤防を築き、堤上に竹木を植えて防水林とし、本堤にそってさらに雁行状の突堤をいくつも重複して配列した。治水の方でいう、いわゆる速水刷砂の原理を応用した。「霞堤」である。
これによって暴流を制御し、もし一つの堤が決壊しても第二、第三の堤がこれを防ぐようになっており、後世まで「甲州流川除け」として治水法の模範とされたのである。
「信玄堤」は、今日なお竜王、昭和、田富町地内にその一部を残して偉業を忍ばせている。
 
『甲斐国志』巻之二十八山川部第九(釜無川)
○信玄堤
古老ノ説ニ雁行ニ差次シテ重復セル堤ハ甚タ利益アリ、其故如何トナレハ河邊ニ棄地アレハ、洪水ノ時自由ニ流レテ激怒セス、堤防壌決ノ患ナシ水漸々ニ耕地ニ入レトモ、敢テ秋稼ヲ害スルニ至ラス、砂石モ従ヒテ流レ河底ニ滞ル事ナシ、若シ一堤決崩ストモ、次堤相支ヘテ大破ニ至ラス、今ノ堤ノ一所決潰スレハ数村ノ田園ニ砂石ヲ押埋メ、数年荒廃ノ地トナルカ如キニハ非ス。
 
『甲斐国志』巻之二十八
○山川部第十二(御勅使川)
口碑ニ云古昔洪水ニ因テ、勅使ヲ下シ堤防ヲ修セラルゝ事三次、遂ニ成績アリテ西郡諸村ヲ開ク事ヲ得タリ。民其徳ヲ不朽ニセント御勅使川と称ス。其後藪百歳ヲ経テ川路彌々高ク、水勢建瓶ノ如クナリシカバ釜無河之カ為ニ東
折シテ北山筋、中郡筋ノ卑地へ向ヒ凱流極マリナカリシヲ、武田信玄ノ時ニ至リ大ニ水役ヲ興シ、下條南割ニテ巌石ヲ?(金産)鑿襲スル事廣拾八歩上流ノ駒場、有野ニテ石積出ヲ置キ、駿流ヲ激シテ斜ニ東北へ向カハシム、対岸ハ龍王ノ赤巌ナリ、麦(一名高岩)又六科村ノ西ニ圭角ノ堤ヲ築キ、流ヲ両派ニシテ以テ水勢ヲ分ツ、是ヲ将棋頭と云、其突流シテ釜無河ニ会スル所ニ大石ヲ並置テ水勢ヲ殺ギ釜無河ノ水ト共ニ順流シテ南方へ赴カシム、於是暴流頓ニ止ミ龍王ノ堤ヲ築キテ村里ヲ復スル事ヲ得タリト云、凡ソ治水ハ国家ノ専務ナリ古人ノ心ヲ用フル事如斯精シト謂フヘシ
 
『山梨県水害史』
(参考『若草町誌』一部加筆)
また、『山梨県水害史』には次のような記述がある。
信玄の堤防は水を以て水を流すの法に則りて修築し、之を保護するに人力と自然力とを併用したるものにして、彼の移民保護の如き又御幸祭の如きは、其政策施行の手段に外ならざるものとす、而も信玄は堤防萬能の人に非
ず、能く地の勢を察して術を施せり、笛吹川に一大水防林を設定したるが如きも即ち之なり、且又信玄の治水策は兵法を応用したるを見る。彼の御勅使川の水勢常に奔流激端龍王の堤防を衝くを憂ひ、有野に堅固なる石堤を築き、其水を東北に奔逸せしめ、六科の西方にて其水勢を分割せしが如きは其一なり。
孫子日「我専らなれば一となり、敵分るれば十となる、是れ十を以て其一を攻む則ち我衆にして而して敵寡し」信玄亦此意を以て将棋頭なる石堤を川の中央に築く、而して其一派をして支流たらしめ、其本流をして龍岡村の南岸を壁襲して其下を走らしめ、十六石にて水勢を混乱せしめたるが如きは其二なり。
孫子日く「夫れ兵の形は水に象る、水の形は高きを避て而して下きに赴く、兵の形は実を避て虚を撃つ、水は地に因て而して流れを制す、兵は敵に因て勝を制す故に兵は常勢無くして水に常の形なし能く敵に因て変化して勝を取るもの是を神といふ」と、信玄の治水策の淵源する虜誠に遠深なる、豊兵法に出でさるなからんや。
 
山梨県の自然災害 上古より武田信玄公の時代
(天文十年・1541)までに次のような大きな風水害の記録が残されている。
(参考『若草町誌』一部加筆)
 
景行天皇   (一二二)      霧雨
武烈天皇八年 (五〇六)      大洪水
養老二年   (七一八)      大洪水
天平八年   (七三六)      大洪水
延暦八年   (七八九)      大洪水
天長二年   (八二五)  五月  白根山崩壊
天長二年   (八二五)  十月  
天長十年   (八三三)  九月  御勅使川氾濫
承和三年   (八三六)      
長徳二年   (九九六)      大洪水
永保二年   (一〇八二)     大洪水
元永二年   (一一一九)     大洪水
天治二年   (一一二五)     大洪水
長承二年   (一二二三)     大洪水
寛喜三年   (一二三一) 九月  大洪水
仁治三年   (一二四二) 八月  富士川氾濫
建長三年   (一二五一) 九月  県下大水害
正嘉二年   (一二五八) 八月  県下大水害
弘安六年   (一二八三) 九月  県下大水害
正応三年   (一二九〇) 八月  県下大水害
嘉暦三年   (一三二八) 八月  県下大水害
文中二年   (一二七三) 九月  大洪水
康暦二年   (一二八○)     大洪水
至徳元年   (一二八四) 八月  大洪水
明徳元年   (一三九三)     大洪水
応永九年   (一四〇二)     大洪水
応永二五年  (一四一八) 九月  大洪水
文安五年   (一四四八)     大洪水
寛正三年   (一四六二) 八月
応仁二年   (一四六八) 九月  御勅使川氾濫
文明七年   (一四七五)     御勅使川氾濫
文明十四年  (一四八二)     御勅使川氾濫
文明十八年  (一四八六) 九月  御勅使川氾濫
延徳三年   (一四九一) 七月  御勅使川氾濫
明応元年   (一四九二) 七月  県内大洪水
明応四年   (一四九五) 八月  大風・作一本も実らず飢饉
明応五年   (一四九六) 九月  県内大洪水
明応七年   (一四九八) 九月  大地震・大洪水
明応九年   (一五〇〇) 六月  大風
明応十年   (一五〇一) 七月  大風
文亀元年   (一五〇一) 七月  大風
永正元年   (一五〇四)     大風
永正八年   (一五一一) 九月  大風
永正九年   (一五一二) 三月  県下大洪水
永正十五年  (一五一八) 八月  県下大洪水
永正十七年  (一五二〇) 九月  県下大洪水
大永八年   (一五二八) 六月  県下大洪水
天文二年   (一五三三) 六〜九月数回の大雨・大凶作
天文四年   (一五三五) 四月  大風
天文五年   (一五三六) 五月  餓死・疫病
天文七年   (一五三八) 二月  大雨
天文八年   (一五三九) 十一月 洪水
天文九年   (一五四〇) 九月  御勅使川洪水
天文十年   (一五四一) 八月  御勅使川洪水
 

山梨県の自然災害

山梨県の自然災害
(参考『若草町誌』一部加筆)
 
四方をけわしい山なみに囲まれて、急流がきびしい谷をうがち、盆地を貫流する山梨の自然条件は、甲斐の昔から、宿命的に風水害とのたたかいの歴史を刻んできた。
《日本武尊》
神話時代の物語にも、日本武尊がご東征の折、酒折宮にしばらく逗留されたが、このころ甲斐の盆地一帯は大雨のため、湖水のようなありさまであったので、尊はどうかして水を治めて民の苦しみを救いたいと、国成の玉を埋めて神に祈られたという。後に塩見宿弥を国造としてこの国に遣わし、治水と開拓に当たらせたとも伝えられる。
《蹴裂明神・僧行基・兎(う)の瀬》
また、『甲斐国志』にも「本州上古ノトキ湖ナリシヲ、此ノ神山ヲ蹴裂キテ水ヲ行リ、平地トナセリ」と蹴裂明神(鰍沢町小柳川・察神手力雄命)の由緒が記されており、奈良時代の養老年間、僧行基が衆生済度のため「兎(う)の瀬」を開削して難民を救ったとも伝えられている。
《は角倉了、富士川を開削》
下って江戸時代の慶長十二年(1607)には角倉了以とその子玄之が幕府の命により、富士川を開削して舟運の便を開くとともに、低湿地の解消と洪水による被害を防いだ。
《御勅使川(みだいがわ)》
御勅使川は昔から度々氾濫をくり返して広大な原七郷の扇状地を作ってきたのであるが、淳和天皇の天長二年(825)五月にも、白根山が崩壊して御勅使川の出水が甚だしかったため、国司の奏聞によって勅使を三度も遣わされたことから、(三勅使)の名が起こったとも伝えられている。

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