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甲斐駒ケ岳《修験道の起原・信仰》(「白州町誌」山寺仁太郎氏著)
山岳信仰の具体的な姿は、修験道であって、それが今日まで根源的には同じ意識の下に、今日まで続いていると考えられている。その修験道は従来、欽明天皇の十三年(五五二)の仏教公伝以後において、自然信仰の基盤の上に渡来してきた道教や仏教が習合して次第に成立したものと考えられていた。
しかし、最近は、修験道の中心思想が、既に弥生時代を通り越して縄文時代の山岳狩猟杜会に発生しているという説が有力である。上述した坂井、金生などの遺跡からうかがえる先史時代の信仰に根源があるというのである。
縄文時代の人々は川岳原野の狩猟を主業としたと考えられているが、この時代の人々は二つの住居を持っていたと考えられる。一つは、平地・海岸・湖岸に、一つは山間に住んで夏の間は山中に入って狩をしていた。山間に住んで狩猟採集に従事した生活環境の中に修験道の起源を見出す事はむしろ自然な考え方と言えるであろう。修験道における断食、水断ち、穀断ちなど山伏のタブーとするところは、多く狩猟民のものであり、服装、持物も甚だ狩人的である。
縄文時代の終りから弥生時代に入って、平地・海岸・湖岸に住む人々が、稲作文化に入るや、山はもう一つの意味、すなわち水の分配を司るもの、農業を支配する神の凄家という考え方が加わって来た。柳田民俗学における山の神の思想、すなわち冬は山に住み、春から夏にかけては田に下って田の神とたるという考え方はこの辺に起源があると考えられている。これが、氏神の祖型であって、そのため、山麓民が、山頂に本宮(山宮)を設け、山麓に里宮(前宮)を設け、春秋二回に祭事を行なう傾向になった。
駒ケ嶽の山頂の本宮に大已貴命を祭ったとするのは、この神が越中の立山の大汝(おおなんじ)峰の例に見られるようにそもそもは狩猟神であり、それが、大物主或いは大国主命と同一視されることにより農耕神、穀神の性格を加えたことと無関係ではないと考える。
修験道の始祖とされるのは白鳳時代に活動したという役ノ小角(えんおずの)である。役の小角なる人物の実体が何者であるかは、今問うところではないが、彼は密教の秘伝である孔雀王呪法を修して、七〜八世紀のころ、大和の葛城山に籠って天災、怪異、祈雨、出産、病悩、庖瘡等に対して験力を現わした呪術師であった。その験力は異常に強大であった話は、色々の彩で伝えられ、全国名山の多くは、彼の力によって、開発されたと
する。従って当時の山岳信仰者にとっては、一つの理想像として考えられていた。それと共に、彼の代行をするような人物及びその行動が設定され、各山に役ノ小角的な仙翁、異人の物語が発生するにいたった。近い例をとるならば、韮崎市旭町の苗敷山の社記に登場する六度仙人の如きは、鳳凰山の神在丘に止住して、神通力を発揮したことにたっており、同じく、茅ケ岳とその近傍金ケ岳には、江草孫右衛門、金ケ岳新左衛門、さらには孫左衛門という三種の名前を持つ怪人が登場してしきりと怪異をなすのである。

《山岳信仰の発生》(「白州町誌」山寺仁太郎氏著)
甲斐駒ケ嶽の山岳信仰を考察するにあたり、再び深田久弥「日本百名山」を引く。彼は、日本アルプスのうち、もっとも綺麗な頂上を持つ山として黒雲母花崩岩でおおわれた駒ケ嶽山頂を次のように描写した。
「頂上に花庸岩の玉垣をめぐらした祠のほかに、幾つも石碑の立っているのをみても、古くから信仰のあつかった山であることが察せられる。祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)で、昔は白衣の信者が登山道に続いていたのだという。その表参道ともいうべきコースは、甲州側の台ケ原あるいは柳沢から登るもので両登山口にはそれぞれ駒ケ嶽神杜がある。この二つの道は、山へ取りかかって間もなく一致するが、それから上、頂上までの道の途中に鳥居や仏像や石碑が点綴されている。」
と記して、現在の駒ケ嶽山頂の信仰的景観を叙述している。
この山頂、登山道の景観は、概ね明治以降現代に到る百年問の山岳信仰の片鱗を伝えているもので、富士山、木曽御嶽、木曽駒ケ嶽に近似するもので、やや希薄の形態では、鳳凰山や、金峰山などにも見られるものである。それ以前は如何なるものであったか。
韮崎市藤井町坂井遺跡は、縄文中後期を主とする著名な遺跡であるが、その住居趾に彷垂状の石が立つったまま出土した例がある。この遺跡から展望できる鳳凰山の地蔵仏岩を意識して、その尖塔に模した信仰的遺物であるといわれたことがあった。
昭和五十五年、北巨摩郡大泉村谷戸で発掘された金生遺跡は、縄文後晩期の一大祭祀遺構とされるものであるが、その石組の中に棒状の立石が幾つかあった。この立石は恐らく、周辺の高山、八ケ岳、金峰山、鳳風山、特に、真近かに屹立する駒ケ嶽の山容に対する信仰的な関連が十分にうかがわれるものであると言われる。これらの遺構は、考古学的な年代からすると、二、○○O年〜四、○○○年以前のものと思われ、その頃から山岳に対する強烈な自然信仰が存在したことが想像されるのである。(筆註----この説の中で立石であるが、これは男性のシンボルに擬した物が多く、山岳信仰でも火山信仰に近いと考えられる)
恐らく、縄文時代の当時において、あるいは、当時であったからこそ、真西の方角に当って、厳然として餐える駒ケ嶽は、極めて深遠な精神的、信仰的な影響を、先史時代の人問に与えていたのであろう。特に、人間の生者病死の間題、山中原野における狩猟・採集の労苦、粗放原初的な農業の苦心、自然災害や疫病への恐怖、近隣杜会との闘争などへの深刻な対処の長い長い年代の中で、頼るべきものは、雲間に聳立して不動、優美たる大自然の姿であった。極めて徐々とした動きであったが、その信仰的態度は、少しずつ宗教的な心理を深めて行ったことであろう。

《甲斐駒ケ岳 その山名の由来》(「白州町誌」山寺仁太郎氏著)
日本全国には「駒」という山名を冠する山が頗る多いこと、しかも本州の富山、長野、静岡の三県によって劃せられる地域から、東・北日本に偏在することは、興味深い地名現象として、つとに地理学者、民俗学者或いは、山岳研究家の注目するところであった。
「駒」を冠する叫名が、東・北目本に集中して、西、南目本に稀有であるところに、山名探究と、山岳信仰の特色を説く鍵が、秘められていると考えられる。有史以来馬の生産飼畜に関係深い関東・東北・北海道に多くその例を見るのであるが、それらの「駒ケ岳」の中で最高の海抜を誇るのが、白州町西境に聾える甲斐駒ケ嶽であって、その山頂には、二九六五・五八メートルの一等三角点標石が座っている。二番目に高い中央アルプスの木曽駒ケ岳は二九五六メートル、約一〇メートル低いのである。
各地に「駒ケ岳」という山名が多いために、それを区別する必要を生じ、複合した山名、つまり何々駒ケ岳と称したのは主として、明治以降のことであった。特に陸軍参謀本部陸地測量部(その仕事は現在、国土地理院に継承されている)の五万分一地彩図が一般化して、山名の混同を防ぐために生じたものと言えよう。
自州町の「駒ケ嶽」は、その西方、伊那盆地を隔てて対時する長野県の「駒ケ岳」とは特に混同されやすかった。そのために、甲州の「駒ケ嶽」を一般に「甲斐駒ケ嶽」木曽の「駒ケ嶽」を「木曽駒ケ岳」と呼称するようになり、さらに前者を東駒、後者を西駒などという呼び方も一般的になった。
余談ではあるが、甲斐駒ケ嶽を曽って白崩山(シロクズレヤマ)と称していた時期があった。信州側の呼び方で「駒ケ岳」を区別する必要から生じたとも想像される。山頂附近の花崗岩の崩壊した山名に由来した呼称であるが、明治末年までは、地元民も、登山者も実際に使用し、白崩神社という神社もあった。事実、明治四十年ころは、甲州で言う駒ケ岳と信州の白崩山とは別個の山岳と考えられたこともあった(鳥山悌成、梅沢親光、「白崩山に向ふの記」明治四十年山岳第二-第三号所収)。当時、現在の仙丈ケ岳なども前岳と呼ばれていて、駒ケ嶽(白崩山)を主峰とするその前山の意味であった。
「駒ケ岳」という山名を有する山々の由来を概観すると、
1、山容が馬の形をしている。
2、残雪の彩(雪形)が馬の姿に現われ、農事暦の目安とされたこと。
3、山中に清流があって神馬を生ずるという伝承があること。
4、山麓に高麗人が住み、牧馬と関係すること。
5、山頂に山神として駒形権現を祀ったこと。(甲斐国志)
などの諾説が考えられるのであるが、甲斐駒ケ嶽の場合は、1、2、には疑問があり、4、の高麗人と関係するという説は甚だ興味があるが、山名の起源由来を断定することは暫く避けねばならない。今後甲州の古代史の成果を期待したいからである。

《甲斐駒ケ嶽の大観》(「白州町誌」山寺仁太郎氏著)
甲斐駒ケ嶽は標高二九六五・五八メートル、南アルプスの北端に鎭座して、花崗岩の大三角錐を屹立させている。県内各地からそれと指呼することができ、中央道や国鉄中央線を通過する旅人を瞠目させる山岳景観である。特に七里岩台上から、釜無川の河谷の上に、二千数百メートルの高度差を持して一気に聳え立つ雄姿は格別に印象深いものがある。
駒ケ嶽山頂を最高点として、その東麓に展開する白州町の鳥瞰は、絵画の様に美しいと言わねばならぬ。「甲斐国志」いわく、「墟(小渕沢町篠尾塁跡)ノ上ヨリ西南二望メバ駒ケ嶽・鳳凰ノ諸山神秀霊区尾白川・濁川雲端ヨリ流レ下ル。白砂雪ノ如ク白須・鳥原ノ松林地ニ布キテ青ク駅路ハ蓮麗(連り続くさま)トシテ其ノ中ニ亘レリ。実ニ北辺ニ最タル佳境ナリ」と。
山岳の景観を説いて第一人者といわれた深田久弥は、昭和四十六年三月二十一日、韮崎市東方の茅ケ岳の山頂近くで、六十八才の生涯を閉じたが、彼が早春の茅ケ岳を目指したのは、第一に南アルプスの春雪の大観を一望の中に収めるためであった。
山頂から遠望する駒ケ嶽や鳳凰山、白根三山は圧倒的な山岳パノラマを展開する天下の絶景である。著名な山岳人深田久弥の終焉の目に映じたものは、甲斐駒グ嶽ではなかったか。
深田久弥は橘南難の「東遊記」や谷文晃の「日本名山図会」などの伝統にならって、目本の名山選定に着眼、「日本百名山」を残した。その百名山の選定に当って、彼は第一に山の品格、第二に山の歴史、第三に山の個性という基準を設けることを忘れなかった。彼の長年にわたる登山家としての山歴のしからしむるものであった。山梨県及び、その周辺の山々だけでも二十座近くが選ばれているが、その中で、特筆大書しているのが、この甲斐駒ケ嶽である。名山としての所以を縷々(るる)として説いて最後に、
「甲斐駒ケ嶽は名峰である。もし日本の十名山を選べと言われるとしても、私はこの山を落さないだろう」
と結ぶ。深田久弥の眼識によれば、その品格、歴史、個性という点で、駒ケ嶽は日本の山岳でベストテンに入る山と言えるのである。

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