白州町情報最前線 サブやんのなんでもジャーナル

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(山梨県の)天災 人災(台風災害と復旧工事など)
菊島信清氏著(『中央線』第8号 1972 一部加筆)
台風、集中豪雨、地すべり、高汐、地震、津波、雪害などの災害はどうしても避けることができない日本の宿命だろうか。
昭和三三年九月二六日関東、東海を襲った狩野川台風は土石流による被害が大きかった。水害発生の数年前から赤木博士(全国治水砂防協会常務理事、四六年度文化勲章受賞者)などにより、砂防の必要性が強調されていたが、実現するにいたらなかった。
また狩野川の洪水量を計算し、川幅を20メートルにしなければ駄目だと昭和20年頃から叫ばれていたが、沼津市の町中を流れているため地元の反対で、その対策がたてられなかった。そこでやむなく八キロメートルの狩野川放水路を二本こしらえることにしたが、これも土地の補償問題でゆきづまり、工事は少しも進まず、33年切大氷害ではじめて住民の眼がさめたということである。
翌34年9月26日死者5千人を出した伊勢湾台風でも、その二週間前に「愛知県下の高汐対策を急げ」という警告が、名古屋管区行政監察局から出されていたが、何の反応も無かった。海部郡弥富町鍋田部落が一瞬にして海面下に没したのは、地下水のくみあげによる地盤沈下に加えて、防潮堤の裏側にコンクリートが使ってなかった為に堤防がこわれて、海水がどっと押し入ったためであった。
同じ年の8月14日、われわれは永久に忘れることの出来ない七号台風による大水害を被ったのであるが、祖母石は旧桐沢橋(現在の桐沢橋より200メートルばかり上流にあった)の上流堤防(河白堤)が切れて濁流にのまれ、韮崎町は武田橋附近の堤防が切れてあの水禍に遭った。どちらも橋を架けるために川をしぼった所である。桐沢橋も武田橋も旧橋の長さは現在のものの三分の一位であった。当時としては財政面からいっても。技術面からしても長大橋の架設は無理であり、そのしわよせが川へ来たのである。
昭和20年年12月19日韮崎町議会は韮崎土木出張所建設省富士川工事事務所などに対し、武田橋下から船山橋迄の堤防工事を早急実現しないかぎり、工事中の神山地内武田橋上の堤防工事を中止して欲しいと陳情した。このような経緯があったが、神山側の堤防は竣功した。そして34年の七号台風の際その非合法性を暴露したのである。
七号台風の直後、祖母石も韮崎町も次の出水にそなえて仮堤防の築設をいそいだ。仮堤防といっても実態はブルで土砂を盛り上げ、その表法面に鉄線蛇籠を這わせた程度のものである。自衛隊は麻袋に砂をつめて積み上げたが、祖母石の仮堤防は盛立てた土砂の表法面にネコザ(長36メートル、巾1,8メートルの厚手のムシロ)を張り、そして鉄線蛇籠で法覆した。このネコザは七号台風で水につかったものなど各戸から供出してもらったものである。
9月26日真夜中、一五号台風(伊勢湾台風)がたけり狂う中を、私は消防団幹部と避難していた寺の境内を抜け出し、この仮堤防の命運を見きわめようと河原へいそいだ。横なぐりの雨、今にものり越えんとする怒涛の中で頑張り抜いている堤防を見た時の感慨は今も忘れることは出来ない。
9月28日の山日には、奇跡的に助かる祖母石、一ツ谷"とあるが、これは奇跡でもなんでもない、ネコザのお蔭だと私は思っている。
一方韮崎町の仮堤防はムシロで盛土をカバーしなかったために、水位が上がるとともに盛土はくずれ去って蛇籠は転倒し、再び水魔におそわれたのである。
10月25日の山日には、全建設労組の結論として、県の治水計画がその場当りだと非難し、韮崎町の堤防が二度も切れたのは工法の不備でなく、武田橋際(対岸神山町)の県道の取付道路が釜無川につき出しており、釜無川の本流がこれにぶつかりその反射作用で本流が韮崎の堤防を襲ったためだと揚言しているが、私にはそのまま受けとることは出来ない。
以上二、三の例で、治山治水対策や水防体制の是非が、被害を最小限にくい止めたり、逆に大きくしていることがわかる。人災だといわれる所以もここにある。
34年の大水害までの災害復旧のあり方は原形復旧であった。もとの位置へもとの形のものをつくることである。もっとも原形といっても、それはもとの機能を意味するので、場合によっては、位置や形を変えねばならぬこともあった。34年の水害があまりに大きかったので、原形にこだわってばかりいられず、可成り大胆な改良復旧が採択されるようになり、爾後復旧工事は大いに飛躍した。
昭和36年7月25日の山梨時事に、鰍沢町の望月正敏さんは"台風期に思う'と題して次のように訴えている。
また台風シーズンがやってきた。ことしは4,5個が上陸または接近すると聞く。ところでわたしの町、鰍沢町にある鹿島橋は昭和28年4月29日架橋してから、8カ年間にすでに5回流失した。その都度多額の国費を使って復旧し、四回目の架橋も昨年3月よりやく復旧したと思ったら、わずか1年3カ月の寿命で、このあいだの6号台風でまた流れてしまった。この橋が復旧するまでには半年、1年とかかり、保育園や小中学校生、通勤者は渡舟を利用している。この5回にわたる復旧費を計算すると、なんと3千3、4百万円に達し、この額をもって永久橋をかければ、おづり〃がくるくらいの立派な橋ができると思う。わたしがこの地に生まれてすでに70余年、明治30年・40年の大洪水をはじめとして、繰り返される水害にいつも思うのだが、どうしてその場しのぎの工事をするのであろうか。一時の多額の国費をおしんで、結局は損をしているとは、なんと情ないことであろう。
災害復旧について原形復旧か改良復旧かの問題があるが、災害をうけたものがあらかた国の力で原形以上に復旧できるのなら、災害太りの結果となり、だれもが災害を歓迎することになる。オンボロ校舎や古い木橋などをかかえ、財政事情で改修出来ずにいる地方自治体も数多いのに、災害をうけたものだけがどんどん新しいものに替えていけるのなら、災害様々ではなかろうか。
改良復旧の行き過ぎは、公共物尊重の気風を失わせる結果になりかねないという考え方もあるので、仲々望月さんのいわれるようにばかりいかないようだ。
昔は大震災や大風水害を天災と呼んで恐れていた。それは天から下された罰であって、対策のないものだった。科学や技術の進歩した今日でも、人力でいかんともすることの出来ない災害は天災である。人間の努力で防げるのを放っておいて起きるのが人災で、この中には政治の欠陥に起因する政災がある。
しかし天災と人災にはいりまじっている部分があって厳密に区別出来ない。そして天災を大きくするか小さくするかは人間社会の対応のしかたによる。世間一般で人災といわれているものを拾ってみるといろいろあるが、中でも予算が少ないため充分なことが出来なかった場合と、技術の貧困による構造上の欠陥のために招来する災害が一番多いのではなかろうか。
技術の貧困も煎じつめれば金が無いからということになるかも知れないが。
昭和10年9月21日から26日まで降り続いた雨で塩川と荒川が大あれに荒れ、笛吹川に架かる桃林橋が流失した。工事予算が少くて橋脚の根入が充分でなかったとか、橋脚が岩盤に達しなかったとか取沙汰されたが、工費不足による人災というべきだろう。
今年7月五5、静岡県大崩海岸の生埋め事件も人災だとして洞門の設計管理にあたった県の技監ら六人が書類送検されたのも耳あたらしい。四〇年夏山陰、中国地方を襲った豪雨の際起きた鳥根県江川の中国電力浜原ダム浮き戸流失事件は人災を天災に転嫁したとして、地元と中国電力との間で数年も争いが続いた。
大正12年9月1日の関東大震災の被害は1府8県に及び、50万の家が焼けたりつぶれたりした。死傷と行方不明をあ
わせると25万にものぽったが、このうち地震で押しつぶされたのは、たった2千人だった。天災より人災の方がずっとおそろしい。つい先日行われたエムチトカ島核爆発で日本に地震津波の被害は無かったが、昭和35年5月24日のチリ地震津波によって東北地方の太平洋岸は大被害を受けた。
以上書いた人災はまだ情状酌量の余地があるが、台風来に便来して公共物をこわすという、まことにハッキリした人災もある。かって北陸某県で大雨の際、この機会にとばかり寄ってたかって村道の橋の橋げたを切り、わざと橋を流してしまった事件は裁判沙汰になった。又昭和28年山形県では雪害をあてこんで、町村橋梁がダイナマイトで爆破され、災害査定も立派に通って、見事な橋に架けかえられた。28年頃はこうした風潮が全国的にあり、山梨県でも南巨摩にあった。
(四六・一一・一二)

山梨県歴史講座 武田発祥の重要文献 甲斐武田氏は、流罪人義清を祖とすること
武田義清・清光をめぐって(『武田氏研究』第9号 志田諄一氏著 一部加筆)

これまでの武田定説
 甲斐武田氏の出自については、新羅三郎義光の子の義清が甲斐国巨摩郡の武田郷に館を作って住んだので武田と称したとか、あるいは義清が甲斐国市河荘に土着して、甲斐源氏の基盤を作り、子の清光を八ケ岳山麓の逸見荘に配して荘司としたので逸見冠者と称した。清光は子の信義を武河荘武田に配した。この信義が初めて武田氏を名乗った、ともいわれてきたのであります。
 これらの説は長い間定説とされてはきたが、従来も甲斐武田氏の出自に関しては釈然としない面があったのです。それは『尊卑分脈』や.「武田系図」に、義光の子義清が「甲斐国市河荘」に配流されたと記されていたからであります。義清の配流が甲斐源氏の土着のきっかけになったわけであります。これは甲斐武田氏の研究にとっては、もっとも重要な史料であり、なによりも間題にしなければならなかったのであります。
 だが江戸時代以来の研究者は、このもっとも重要な史料の解釈を一歩から誤ってしまったのであります。義清が甲斐国市河荘に配流されたということは、犯罪により流罪になったことを意味するわけであります。そうすると、甲斐武田氏は、流罪人義清を祖とすることになるのであります。
 そこで武田を最初に名乗ったのは、義清ではなく孫の信義が武河荘武田に住んで武田氏を称した、としたのではないでしょうか。
 義清配流の事実は、甲斐武田氏にとって不名誉なことと考えていたことが知られるのであります。この事実を正面から取りあげて否定しようとしたのが『甲斐国志」であります。
 そこでは、
「義清ガ初メ官ヲ授カリ市川郷ニ入部シタルヲ誤リテ京師ヨリ還サルト憶ヒ、配流ト記シタルナラン、必ズ流罪ニハ有ルベカラズ」
と弁解しているのであります。「必ズ流罪ニハ有ルベカラズ」というのは、義清が流罪者であっては絶対に困るのだ、という強い意志がみられるのであります。
 「二宮系図」でも義清が甲斐の目代青島の下司になり、入部した、と記しています。『甲斐国志」の説は広く受けつがれ定説となりました。
 奥野高広氏の『武田信玄」にも、「義光の二男義清は市河荘と青島荘の下司として、この地に土着した。新羅三郎義光は義清を嫡子と定めた。つぎに義清・清光父子が経営に着手したのは巨摩郡北部の逸見郷で、逸見その他の荘園を成立させた。清光の長子光長は逸見荘を守って逸見の始祖となり、次子信義は武河荘の武田に住し、甲斐武田氏の祖とたる家柄をきずいた」と述べております。

甲斐武田氏は、流罪人義清を祖とすること
 しかし、義清は市川荘や青島荘の下司として甲斐国に派遣されたのではなく、市河荘に配流されたのです。また義清の孫信義が最初に武田氏を名乗ったのではなく、義清は初めから「刑部三郎武田冠者義清」として甲斐国に配流されたのであります。
 それでは甲斐武田氏の祖となった義清はどういう人物なのか、なぜ市河荘に配流されたのか、などを考えてみましょう。義清の父である新羅三郎義光が、後三年の役のとき兄義家の苦戦を聞き、左兵衛尉を辞し救援のため奥羽に下向したのは有名な話であります。しかし、藤原為房の日記『為房卿記』、寛治元年(一〇八七)八月二十九日条によると、義光は「身の暇も申さず、陸奥に下向し、召し遣わすといえども参らなかったので、解任した」とあります。『本朝世紀」寛治元年九月二十三日条にも、「左兵衛尉源義光の停任の宣旨を下さる」とみえるので、八月二十九日に義光の左兵衛尉解任が決議され、九月二十三日に天皇の決裁が下されたのであります。
 義光のこうした強引な行動は、兄弟愛や源氏発展のためだけとは思われない面があるといわれています。義光の兄である義綱は義家不在の京都で源氏の代表者として摂関家に臣従し、武威を誇っていながら義家の奥羽での戦いに協力した形跡がないのです。義光はこれまでいつも兄の義家・義綱の威勢に押されて、自分の力を発揮することができなかったといわれております。そこで後三年の戦いを利用して奥羽に乗りこみ自分の勢力を拡大しようと考えたのであります。

白州町 旧鳳来小学校沿革
明治六年七月
学制領布につき上、下教来石、鳥原の三ケ村合併して下教来石来福寺を仮用して教来石学校を設立する。
明治六年八月
県官出張して開校の式を行なう。大武川村福泉寺に大武川学校を設立する。
明治八年
新村成立により鳳来学校と改名する。
明治十二年三月
小学組合を設け教育会議を起す。
明治十三年十月十九日
新築校舎落成、県令藤村紫朗臨席L開校する。
明治二十年四月
鳳来尋常小学校と改名し、大武川学校を分校とする。
明治二十年五月三十日
下教来石大火災につき臨時休校する(一週間)。
明治二十年七月二十一日
父兄を召集して授業料の儀につき説諭する。
明治二十年十一月十日
高等小学校に入学しない生徒のために温習科を設け教授する。
明治二十一年三月二十六日
小学校教科書改正せられる、本校教員は郡衛に会して其の図書を決定する。
明治二十一年九月十八日
各小学校三、四年級生徒を河原部高等小学校に召集し臨時合同試験を行う。
明治二十二年三月十四日
郡長より本校規則を認可さる。
明治二十四年六月一日
農休を開始す、六月一日より二十五日までとする。
明治二十五年四月一日
大武川を分教場とする。
明治二十五年五月十八日
新学令により小学校修業年限を四ケ年と決して知事に認可を願い出る。
明治二十五年五月二十三日
大武川分教場設置の件郡長より認可される。
明治二十五年八月七日
教育幻燈会を開く、当村初めてなので教育上大いに感動を与える。
明治二十六年七月二十七日
《明治天皇》
聖影奉迎のため村界、濁川端まで、児童、教員、村役場吏員、村会議員、区長、組長、村有志■二一〇名。
午前十一時三十分頃一発の祝砲と共に警察署長騎馬にて前駆御馬車は巡査護衛にて無事御安着直ちに拝戴式を挙行、式終了後児童一同赤飯、参加者には祝酒赤飯をふるまう。
本日の祝いとして煙火二十本を打ち上げた。
明治三十三年七月十七日 
学校医設置され、清水業造医師之に当る。
明治三十三年十月四目
始めて本校、分教場の児童の身体検査を行なう。
明治三十六年七月四日
落合小学校内において甲信連合懇話会を開く。
明治四十年六月二日
大武川分教場焼失、校具過半を失う仮校舎福泉寺とする。
明治四十年十一片十四〜十五日
岡谷に修学旅行を行なう。
明治四十一年七月二十七日
大武川分教場上棟式を行なう。
四十一年九月一日
村内赤痢病大流行(患者百余宅)のため十五日まで臨時休校となる。
明治四十一年十二月九日
大武川分教場新築落成する。
明治四十二年七月五日
各区児童出席奨励の手段として始めて優勝旗を其の往復に樹立させる。
明治四十三年八月十九日
卒業生同窓会組織さる。
四十三年十月二十一日
本校改築竣工し大武川分教場と併せて本日を以って開校式を挙行する。
明治四十四年五月十日
高等小学校を設置し之を尋常小学校に併置する事の件認可される。
明治四十四年十月二十一日
本校改築一周年記念大運動会を行なう。
大正二年十月二十二〜二十三日
清水校医来校、児童トラホーム定期検診を行なう。
大正三年
校舎を増築する。
大正三年三月十日
本校第一回父兄会を開く、会する者百余名の盛会を極め、一般参考有利の点多きを感ずる。
大正四年三月十日
母姉会を開き実地授業参観後学芸会を開く。
大正四年十一月十一日
御大礼記念連合運動会を鳳来、駒城、菅原、富里各学校合同にて白須松原御料林内で行なう。
大正五年三月十日
父兄懇話会を開催。
大正九年一月二十七日
インフルエンザ大流行のため二月二日まで学校閉鎖する。
大正十一年一月二十八日
村教育会の発会式を行なう。
大正十一年十月三十日鳳
来少年団を設立する。
昭和三年六月二十日
校舎増築落成す。
昭和五年六月三十日
北巨摩郡教育会主催バスケットボールに優勝する。
昭和五年十月十二日
北巨摩郡教育会主催陸上競技大会に第二位となる。
昭和八年十一月二十五日
児童農産物品評会開催展覧す。
昭和九年一月十八日
従来の火鉢を全廃してストーブを取付ける。
昭和九年一月二十六日
第一回スケート大会を鳥原部落の田において行う。
昭和九年三月六日
父兄会並に学芸会を行なう。
昭和九年十一月二十六日
児童一坪農産物品評会を開く。
昭和十年一月十五日
本校尋常科五年以上の児童を以て組織した少年消防隊発令式を挙行する。
昭和十年三月二十日
本校実習田収穫米を各部落五神社に供えた御供米を村内各戸に配布した。
昭和十二年三月三十一日
大武川児童、落合村よりの登校禁止に接し、尋常科昭和六年以下二学級編成で開校する。
昭和十三年十月十四日
尋常科六年生四三名参宮旅行を行なう。
昭和十六年四月一日
学校令改正により鳳来国民学校(初等科・高等科)と改名する。
昭和二十年二月一日
保護者会開かる。
昭和二十年六月二十二日
鳳来国民学校学徒隊結成式を行なう。
昭和二十年八月十五日四月
始めより高等科児童は授業停止、学徒動員され、教室は軍小池隊に貸与し、其の上諸程の作業に協力したが終戦となり、再び元の教室に入り授業を開始する。
昭和二十一年一月二十九日
御真影を奉還す。
昭和二十一年五月二十八日
五、六年生食料野草を採集する。
昭和二十一年九月三十日
外地引揚老戦災者軍人遺家族慰安学芸会を行なう。
昭和二十一年十一月二十五日
教育再建父兄大会を行なう。
昭和二十二年四月一日
学則改正により鳳来小学校と改名する。
昭和二十二年六月十六日
DDTを全校児童に散布する。
昭和二十二年十月十六日
教育復興村民体育大会を開く。
昭和二十三年五月十六日
学校自治会の結成を行なう。
昭和二十三年七月十五日
校内放送設備完了する。
昭和二十三年十月二十二日
子ども信用組合を設立する。
昭和二十四年一月二十九日
五日制を実施する。
昭和二十四年六月四日
米国軍政部担当官グレゴリー氏本校を視察する。
昭和二十四年九月十七日
菅原小学校に支会各小学校集り連合体育祭を行う。
昭和二十六年四月一日
大武川分校児童落合小学校に委託する。
昭和二十八年六月三日
目バードウーク学校賞を受ける。
昭和二十九年二月十七日
ミルク給食を開始する。
昭和二十九年十二月一日
給食にみそ汁を加える。
昭和三十年六月四日
郡球技大会に優勝する。
昭和三十年七月一日
町村合併により白州町立鳳来小学校となる。
昭和三十一年四月四日
町制祭につき講堂にて芸能大会を催す。
昭和三十一年九月十九日
第六学年文部省学カテスト実施
昭和三十二年五月二十七日
郡球技大会に於いてソフトボール優勝する。
昭和三十三年一月十七日
ミルク給食が牛乳となる。
昭和和三十七年十二月七日
健康優良学校として県より表彰さる。
昭和三十八年十二月二日
給食がセンターにより行なうようになった。
昭和三十九年二月二十五日
納税奨励作文最優秀校になる。
昭和三十九年十月二十三日
交通安全協力校として県警より感謝状を受ける。
昭和四十年十月十六日
長坂署より学校交通自治班が表彰。
昭和四十三年五月二十四日
郡球技大会にソフトボール優勝する。
昭和四十五年八月十日
村民有志と教職員の寄附金によって、下の校庭にプールを設置、本日竣工し児童初泳ぎをする。
昭和四十九年六月二十二日
県教委より昭和四十九年県統計教育研究校に指定される。
昭和五十年五月十四日
県教委より昭和五十年度県統計教育研究校に指定さる。
昭和五十年十二月四日
県統計教育研究大会開催。統計図表入選者表彰式で本校児童多数受賞
昭和五十二年三月七日
閉校記念として校舎全景写真撮影。
昭和五十二年三月二十三日
閉校式挙行児童、職員の写真撮影。

白州町 旧鳳来小学校沿革の概要
明治六年七月、
学制頒布後下教来石では、来福寺を仮用して教来石学校を、大武川では福泉寺において大武川学校(後の分教場)を設立して開校したのが鳳来小学校のはじめであった。
その後地域住民の理解と協力で施設設備の充実が図られ、明治十五年学齢児童一五五宅の内就学児童一五〇名と、就学率も約九七バーセソトに達して義務教育の成果が順次向上していった。

明治十三年十月十九日
県令藤村紫朗臨席のもとに新校舎の完成式が盛大に挙行された。

明治三十五年三月
村議会に於いて教育費五七四円九六銭が議決され、児童数一一六名であった。

明治四十年
義務教育年限が四ヶ年から六ヶ年となり、基礎教育の向上がはかられた。

明治四十三年八月
同窓会を組織して発会式をあげ、会員相互の親睦を図るとともに学校教育を側面から援助することになった。

明治四十三年十月二十一日
本校改築竣工と大武川分教場とを併せて開校式を挙行したが、本校改築費は郷土出身東京松屋百貨店杜長古屋徳兵衛氏や、北海道で名をなした名取高三郎氏ほか十三名の浄財三、九〇〇円の寄附によってまかなわれた。なお下教来石青年団も廻旋塔一基を寄贈された。以後本校には篤志家による施設設備の寄贈が多くなされ学校教育推進向上に多大な貢献をしてきた。なかでも古屋徳兵衛氏は度重たる金銭、物品の寄贈をされたので、村民こぞって昭和十二年十月六日同氏の碩徳碑を校地内に建立し、除幕式が挙行された。

明治四十四年五月一日
高等科併置が認可された。併置当時は在籍数尋常科二六四名(男一三六名女一二八名)。高等科一七名(男一五名・女二名)となっている。
 
大正二年
在籍児童数は尋常科二八三名(男二二四名・女一四九名)、高等科二一名(男一七・女四)、教育費一、五六五円七十銭と、父兄も教育には熱心で大正四年には母子会をつくり、授業参観をして家庭と学校との話し合いの会を開いた。

昭和二年
在籍児童数尋常科二六七名(男一四三名・女二一四名)高等科五四名(男三二名・女二二名)。教育費も七、九〇五円と増え、

昭和三年十月十日
校舎増築落成式を挙行して、建物も教育内容も充実してきたが、日華事変の勃発とともに戦時色が濃くなり、

昭和和十六年
校名も十六年には国民学校と改称され、国家総動員態勢が一段と強化し、教育内容も戦時体制の方向に変わっていった。戦争が熾烈になるにつれ主要都市等の爆撃も烈げしさを増し、学童の生命を守るため地方へ疎開させたので十六年本校学級数初等科八、高等科二、在籍児童数初等科二〇三名、高等科七〇名

昭和二十年
初めには初等科三一〇名、高等科八○名計三九〇名と増加した。

昭和二十年八月
敗戦以後も食糧や生活物資が不足し、闇商が横行し、正直者は生きて行けない時代と言われた。このときユニセフ物資によるミルク給食、続いてパソ食を加えた学校給食が開始された。

昭和二十二年四月一日
六・三制の実施による学制改革で鳳来小学校となったが終戦前後は、極度に食糧や生活物資が欠乏して国民生活は非常事態であった。敗戦によって封建主義の時代から民主主義の時代と、杜会や教育に大きな変革がなされ、民主主義の新しい教育理念にたった教育基本法に基づいた教育が実施されてきた。

昭和二十七年十一月
市町村に教育委員会が設置され、地域の要望にそった教育がなされるようになった。またPTAの誕生によって父母と教
師とが一体となって教育の推進をしていくのであるが、本校では二十一年学校に在籍する児童一の父母ばかりでなく、村全体が学校教育向上に協力すべきだという考えのもとに、PTA・後援会を組織し爾来地域を挙げて、物心両面から学校教育推進のために貢献されたのは本校の特色である。

昭和二十八年
またそのころは、物資の不足から教科書も数十ぺージのうすいもので、しかも用紙が粗悪の時代が何年か続き今それを見れば、これが教科書かと思われる程である。その後は急速に経済の回復が進むなかで教育改革も新しい方針に従って国民生活の中に根をおろしていった。校舎の老朽化で改築の気運がもり上ったとき、中学校の統合がなされ新しい中学校舎を二十八年四月より使用することになったので特別教室も多く設けられ、なかでも音楽教室は階段教室ともいわれ、音楽を指導する上で大いに効果をあげてきた。
なお児童の情操教育にも重点をおき自然を愛し物を大切にする教育を推進していくたかで、二十八年六月には北巨摩地方事務所よりバードゥイーク学校賞を受けた。

昭和三十四年八月十四日・三十七年
早朝、台風七号が本町に甚大な被害をもたらし特に荒田方面の災害は大きく児童の家で全壌一、半壊一、土砂浸入家屋九、田畑の流失埋没の被害多大の上に、九月二十六日の台風十五号の再度の災害にあい、下教来石、荒田の集落民は本校講堂で避難の一夜を過した。
情操教育とともに児童の健康教育と健康管理の必要性を痛感し、全ての教育に優先するのは健康教育であるという全職員の共通理解のもとで、昭和三十四年四月から県教育委員会及び学校保健会の実験学校の指定を受け児童の健康教育にとりくんだため、児童の健康状態は順次よくなっていった。その成果を県でも認め昭和三十七年十二月健康優良学校として表彰を受けた。

昭和四十年度
予算は七七二、一五〇円である。

昭和四十九年六月
県統計教育研究指定校になり、統計的なものの見方、考え方による教育の推進を図り成果を上げてきた。

昭和五十年度
学校予算は三五五万三、000円である。

昭和五十二年三月 
文部大臣表彰の栄誉に浴した。その間、花いっぱい運動を展開、花を育てる運動優良校。花いっぱい運動推進校として優秀だったので、郡、県、国の表彰を受けた。また情操教育の充実にも全職員一丸となって努力したので、県内外からの視察者が多かった。

このように開校から閉校まで特色ある学校経営がなされてきたのである。開校以来の卒業児童総数は尋常科三、〇一〇名(明治二十五年以降の卒業児童数で開校から同二十四年までの卒業数は不明)、高等科は八一七名の多数に及んでいる。

鳳来小学校校歌 
作詞 向井房恵
作曲 坂口五郎
一、
ゆかし鳥原清ら石
その名もしるす古里は
いま新生のわかやぎに
かおる鳳来小学校
二、
富士をはじめのいく山が
みかげの水にてりそいて
実のり豊かに春秋を
はげみいそしむ学びの舎
三、
緑のおかに釜無の
平和のひびきこもるなり
世界文化はもみじ葉と
ともに輝くわが母校


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