白州町情報最前線 サブやんのなんでもジャーナル

山梨県・北杜市・白州町のありのままの姿をジャンルを問わず綴っていきます

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白州町の歴史 交通の整備と明治天皇御巡幸

文明開花、殖産興業を目指す政府のもとで意欲的であった藤村県令は、道路整備にも積極的であった。着任して一年を経た明治七年(一八七四)一月の告示で「四方ノ声息通ジ難ク、民情随テ固廼ニ安ソジ物産工業為ニ興ラス」(山梨県政百年史)と述べ、四囲を山岳に囲まれた本県の実態から、殖産興業を推進するためにも道路整備が急務であることを指摘している。以来、甲州街道をはじめ旧街道の修築が急速に進められた。
当時の道路整備は、曲折や高低差の修正、架橋など本格的なもので明治十二年(一八七九)までに、諸道の修築延長が百二十里に達したと伝えられている(県政百年史)整備に要した膨大な経費は、学校建築などと同様に大部分が区、戸長はじめ村の有力者や篤志家の寄付によったというから、当時の諾改革は民問の協力なしには推進し得たかったといえよう。
交通制度もまた新政のもとで改革整備が行なわれた。本県では明治五年(一八七二)、県が大蔵省に提出した会杜創建の稟議にはじまる。これによると各駅(甲州街道の各宿駅のうち、本県内に十八駅)に陸運会社を設立し、相対賃銭で人馬継立業務を行なうというものである。
稼ぎを行なうものはすべて入社し、その鑑札をもたたければ営業できないことになった。陸運会杜はその後の改正を経て、明治八年(一八七五)には全国規模の内国通運会社と連合し、鉄道開通まで主要な運輸機関としての役割を果したのである。
本町の台ヶ原、教来石両宿もこのようにして交通集落としての機能を保ち、近世以上に繁盛した。
おりから地域住民あげて新時代の到来を自覚するようなできごとがおこった。明治十三年(一八八0)、明治天皇の山梨、三重、京都三府県のご巡幸である。ご巡幸は伏見官をはじめ太政大臣三条実美、参議伊藤博文、内務郷松方正義ら供奉する文武百官四百余人を随え、六月十六日皇居を出発したのである。
本県ではすでに四月十三日、県下から各郡長に内達され、二十六日には聖旨を県民に布達、三十日には沿道各町村において心得べきことを各役場へ布達していた。甲州街道を進まれた行列は、甲府に二日滞在後、六月二十二日、午後一時五分、円野御小休所を出発、午後二時十五分、菅原行在所(北原延世宅)にご到着、一泊された。すでに現つ神として尊崇されていた主上をはじめ、新政府の要人多数を迎えて、台ヶ原宿はもちろん沿道各地では近世における大名行列以上に混雑を極めたと思われる。
御泊行在所は菅原村北原延世、御馬車舎は古屋喜代造、御厩は北原延世囲内、御立退所は菅原村蓮照寺、御小休所は教来石駅河西九郎須宅と定められ、五月十八目、近衛局御先発陸軍会計軍吏副横幕直好から次のような指令があった。
○菅原行在所
北巨摩郡台ヶ原駅北原延世
北原延世は酒造業を営み、家宅広く行在所に可なるを以て笹子峠と同じく、五月七日、行在所に内定し、左の箇所の修繕を指令す。
○御泊行在所
一、御浴室並御厨取設ノ事
一、御馬車屋並御馬繋取設ノ事
一、表裏へ内メリノ事
一、門並玄関へ轟張折釘打ノ事
一、馬繋場奥入二付宿並建札ノ事
一、在来便所へ障子〆切ノ事
〆六件
此営繕費金七百六拾五円余、外に私費修繕したるもの、表裏門戸修繕費金百参拾四円余也
御立退所同村蓮照寺
供奉官員以下膚従老の宿割は、駅内及び隣村の民家舎北原慶造外三十余戸に割当する。宿割左の如し。

第一号甲     大臣護衛警官  北原慶造
第一号乙     伏見宮     台原台祥
第三号      参議護衛官   原光太郎
第四号      内閣書記官以下 宮川庚平
第五号      内務書記官以下 原田佐左衛門
第六号      駅逓官員    北原民平
第七号甲     警視以下    清水勘四郎
第七号乙     護衛長     石井半十郎
第八号      大蔵書記官以下 大輪関三郎
第九号      陸軍中将    山田勘兵衛
第十号      陸軍佐尉官   古屋荘平
第十一号甲    騎兵下土以下  山本庄吉
第十一号乙    騎兵下土以下  島口杢兵衛
第十二号     宮内卿     北原篤
第十三号     宮内少輔    北原篤
第十四号     宮内書記官以下 宮川仁左衛門
第十五号     式部助以下   原弘
第十六号甲    待従      古屋茂一
第十六号乙    待従      古屋照時
第十七号     待医以下    小松浜平
第十八号     内膳課     入戸野六平
第十九号     調度課     台原益之
第二十号     内匠課     島口元右衛門
第二十一号    内廷課     北原庄太郎
第二十二号    宮内属     細田信茂
第二十二号ノ内  輿丁      細田董顕
第二十二号ノ内  輿丁      細田治郎吉
第二十三号甲   輿丁      菊原是副
第二十三号乙   御厩課     細田伝
第二十四号甲   宮内属以下   伏見伝八郎
第二十四号乙   宮内弥雇・馬丁 鈴木員村
第二十四号乙ノ内 馬丁      鈴木清兵衛
第二十四号乙ノ内 馬丁      伏見孫右衛門
号外一号     文学御用掛   山田伝左衛門
号外二号     印刷局     大森直竜

○御小休所
御小休所も亦、行在所と同時に内定する。北都留郡田尻駅、犬目駅、花咲駅、初狩駅、東八代郡駒飼駅、東山梨郡日川村、東八代郡石和駅、中巨摩郡竜王村、北巨摩郡円野村、教来石駅の十箇所なり。指定したる家主の氏名及び修繕筒所左の如し。
・北巨摩郡教来石駅河西九郎須
御小休所
一湯殿床下並入口戸締ノ事
一玄関薄縁敷設ノ事
一玄関西ノ方二畳ノ間東ノ方唐紙ヲ障子二替ル事
一門前へ幕串並折釘打ノ事
〆四件


・御休泊所共二御膳水井へ雨除蓋新調井建札取設ノ事
但上屋根有之分ハ不及其義二見込
右の件々現場検査の上御照会および候処相違無之候也
明治十三年五月七目
宮内省十五等出仕中村保福

なお御厩部から次のような指示があった。
仮厩五十三頭建取設ノ事、
北巨摩郡台ヶ原駅山本庄吉、島口多左衛門、島口文左衛門、島口佐次右衛門、鈴木清兵衛、伏見伝八郎、島口嘉吉、山本覚、古屋庄平、古屋茂一
右山本庄吉外九人ハ第十号十一号旅館最寄農家ニテ在来ノ厩ヲ以テ使用ノ積ニ付、別ニ仮建厩ヲ要セザル事
また御膳水については水質極めて精良たるものを選び、四月八日、沿道各郡長に通牒して、予め良水と認むる井水、湧水、流水の場所を調査せしめ、数回水質の分析試験を行ない、宮内省内膳課に報告して次のように採用された。
一、円井御小休伊藤徳右衛門持井戸
一、台ヶ原御泊北原延世持井戸
一、教来石御小休字細入沢湧水
すべて行在所には御厨、御浴室を新設し、御昼行在所及び御小休所には御厨のみを新設した。御浴室は梁間六尺、桁問弐間半、御厩は梁間四尺、桁間九尺、御小休所の御廊は六尺四方羽目板屋根大板葺で、その図面まで示されている。行在所北原延世宅における玉座をはじめ宿泊状況は図面の通りで、北原家の家族は隠宅に移った。また山梨県病院では、台ヶ原駅と下教来石駅に病院出張所を仮設した。
翌二十三日午前七時、行在所を出発。御出門直前に山梨県令藤村紫朗に謁を賜う。七時四十五分教来石駅御小休所(河西九郎須宅)にて休憩。
八時三分ご出発、駅北の端場坂下において早乙女が十四、五人ずつ二組に分れ馬八節を唄いながら田植をしているさまを御通覧たされて長野に向われた。このとき菅原行在所において鳳来村の中山平右衛門、菅原村の小沢らえ、にそれぞれ孝子、節婦として金一封を賜わり賞している。
また各行在所、御小休所等にては、民問より十二、三歳から十六、七歳までの男子にして品行方正容貌端麗なるものを選び給仕として採用した。菅原行在所にては北原忠、北原滝蔵、教来石御小休所にては灰原義一郎、三井幸作、海野義徳がその栄に浴した。

山梨県の自然災害 明治までの釜無川、御勅使川流域の大水害の記録(周辺被害)
(参考『若草町誌』一部加筆)
○勝頼没後、幕府直轄領となるまでの百四十五年間
天正十一年 (一五八三) 十一月
 釜無川・笛吹川氾濫
文禄二年  (一五九三)   
 中巨摩郡下大洪水
慶長十四年 (一六〇九) 九月 
 中巨摩郡下大洪水
慶長十九年 (一六一四) 十月 
 中巨摩郡下大洪水
寛永十九年 (一六四二)    
 中巨摩郡下大洪水
元亀一年 (一五七〇)     
 八ケ岳ヲ押シ出シ塩川釜無ノ両縁ヲ押シ流シ竜王村ヨリ荒川ヲ突キ抜キ笛吹川ニ入ル、国中ハ凡ソ七分
通リ水一面トナル(青木秀知蔵文書).
天正二年 (一五七四)
    八ケ岳崩壌諸川増水、北巨摩、中巨摩郡南湖村付近生田村ことごとく流失、人民流離せんとするを以って之
を北巨摩郡に移せり。現今穂足村に属するもの即ち之なりと言ふ。(『山梨県水害史』)
    伊勢神社(旧村社)須玉町穂足藤田字腰巻当村は天正二年今の中巨摩郡藤田村大洪水のため流亡せるにより全
村民此地に移住し開拓せし新墾地なりと伝えられる。(『須玉町誌』)
文禄二年 (一五九三)
中巨摩郡に洪水
慶長六年 (一六〇一)
穴山村荊の木の堤防決壊、祖母石村の田畠屋敷が流れたので、村人は七里岩の上、新府城跡の南へ移住した。そ
して六年後の寛文五年(一六六五)、釜無川の瀬が変わり安全になったので山を降りて古巣に戻った。(『韮崎市誌』)
慶長一四年(一六〇九)
出水にて中巨摩郡下被害甚大、特に大田和村(田富村)の被害激甚。
正保一年 (一六四四)
御勅使川氾濫。有野村ほか水下二一ケ村に被害。
正保二年 (一六四五)
御勅使川、笛吹川大出水。
承応二年 (一六五三)
九月御勅使川氾濫。沿岸一帯に多大の被害。
承応三年 (一六五四)
諸川氾濫竜王村信玄堤切込水下の田地おびただしく流失す。(甲斐郷土年表便覧)
天和一年 (一六八一)
釜無川大氾濫。竜王村地籍堤防決壊、田畑流失大。
貞享四年 (一六八七)
中巨摩郡下被害大。
貞享五年 (一六八八)
九月笛吹、釜無川ともに洪水。堤防決壊、田畠の被害甚大。人畜の死傷多し。
享保七年(一七二二)
笛吹、釜無川各河川洪水あり、堤防決壊甚だしく農作物の被害大。
山梨県の自然災害 若草町の風水害
(参考『若草町誌』一部加筆)
若草町の地域は東側が釜無川氾濫原、北西側が御勅使川扇状地、南側が滝沢川の氾濫原という地理的条件のため、昔から度々風水害の被害を被ってきた。とくに鏡中条、浅原地区は度重なる釜無川の氾濫により被災の歴史をつづっている。
『甲斐国志』によれば、
○浅原村は天正十四年(一五八六)から寛政三年(一七九一)までの間に五回の移住を繰り返している。寛永年間から(一六二四)は大半の者が西花輸の地に仮住まいし、寛政三年になってようやく当地内新田(現在地)に移住したという。ただしもとから居住していた者は地内の枝郷、三軒屋に集落を形成していたという。
また、浅原という地名の由来も、釜無川の氾濫で一面に水が覆っている状態を表したものだともいわれる。
○鏡中条も『甲斐国志』によれば、釜無川の水難のため、もとの位置より西へ移動したものであるという。
慶長六年(一六〇一)の検地によると村高八一〇石余の反別内訳は田二五町余、畑二五町余、ほかに荒地として田一四町余、畑一〇町余があり、打ち続く釜無川の氾濫のため荒廃した耕地がいかに多かったかを示している。
また釜無川の川除普請の堤防が六ヵ所あり、普請用の渡し舟一隻が置かれたとある。
○寺部村も同じ慶長六年の検地で、村高五二五石余の耕地面積は田三町
余、畑二二町余となっているが、天正十七年(一五八九)に行われた代官伊奈熊蔵の検地、いわゆる「熊蔵荒」では荒地一六町余と記録されており、水による被害が激しかったことを物語っている。
武田治世が終わる天正十年(一五八二)までにも甲斐は度々大水害に見舞われており、天文十三年(一五四四)、十五年、十九年、二十二年、元亀元年(一五七〇)、天正二年(一五七四)などの記録が残されている。
 
山梨県の自然災害 武田信玄の治水
(参考『若草町誌』一部加筆)
 
後奈良天皇の天文十年(一五四一)武田晴信(信玄)は父信虎を駿河に追放して甲斐の国主となった。その前年の天文九年に大暴風雨があり、十一年秋には釜無川の大洪水のため、甲斐一円は泥海と化し、田畑・人畜の被害は目を覆う惨状であった。
信玄は中国の古典に深い造詣を持っていたが、とくに「万里の長江、あに千里に一曲せざらんや」「水を治むる者は天下を治む」という哲理に心酔し、これを甲斐の治水政策の上に見事に適用したのである。
川除けの築堤術というものは、よくよくその流れの特徴を分析して行わないと、築堤の反対側が必ず破れるという鉄則があり、自然の流れに逆らうと予想外の方向に流れてしまうのである。黄河の氾濫に悩まされた中国人は、自然に流下する水路を見極めた上で、無理なく堤防を築いたところ、これが見事に成功した。
信玄はこの点に着目し、普請奉行に命じて釜無川の激流が洪水の時、どのように甲府盆地を襲うのかを研究させ、その原因が本流の釜無川だけにあるのではなく、支流の御勅使川にあることをつきとめた。
そこでこの両川の治水工事に天文十年(一五四一)から取り組み、二十年間に及ぶ大工事ののち、永禄三年(一五六〇)にほぼ完成した。
《筆註》
この記載事項には一部史料に基づかないものがふくまれている。(赤字部分、以下疑問箇所も
 
工事のあらましは、八田村の六科に将棋頭という圭角の石堤を築いて御勅使川を表裏二川に分流させた。分流した新川をさらに割羽沢と合流させ、再び新川に合流させて水勢を弱めながら釜無川に合流させて相牽制させ、さらに東岸の古同岩(現竜王町)に当てて水勢を殺いだのである。
釜無川と御勅使川の合流点には十六個の巨石(十六石と呼ぶ)を並べて、逆流により西岸の本堤が決壊するのを防いでいる。自然力を利用した、まことに巧みな工法であった。
さらに高岩の下流には東岸に堅固な堤防を築き、堤上に竹木を植えて防水林とし、本堤にそってさらに雁行状の突堤をいくつも重複して配列した。治水の方でいう、いわゆる速水刷砂の原理を応用した。「霞堤」である。
これによって暴流を制御し、もし一つの堤が決壊しても第二、第三の堤がこれを防ぐようになっており、後世まで「甲州流川除け」として治水法の模範とされたのである。
「信玄堤」は、今日なお竜王、昭和、田富町地内にその一部を残して偉業を忍ばせている。
 
『甲斐国志』巻之二十八山川部第九(釜無川)
○信玄堤
古老ノ説ニ雁行ニ差次シテ重復セル堤ハ甚タ利益アリ、其故如何トナレハ河邊ニ棄地アレハ、洪水ノ時自由ニ流レテ激怒セス、堤防壌決ノ患ナシ水漸々ニ耕地ニ入レトモ、敢テ秋稼ヲ害スルニ至ラス、砂石モ従ヒテ流レ河底ニ滞ル事ナシ、若シ一堤決崩ストモ、次堤相支ヘテ大破ニ至ラス、今ノ堤ノ一所決潰スレハ数村ノ田園ニ砂石ヲ押埋メ、数年荒廃ノ地トナルカ如キニハ非ス。
 
『甲斐国志』巻之二十八
○山川部第十二(御勅使川)
口碑ニ云古昔洪水ニ因テ、勅使ヲ下シ堤防ヲ修セラルゝ事三次、遂ニ成績アリテ西郡諸村ヲ開ク事ヲ得タリ。民其徳ヲ不朽ニセント御勅使川と称ス。其後藪百歳ヲ経テ川路彌々高ク、水勢建瓶ノ如クナリシカバ釜無河之カ為ニ東
折シテ北山筋、中郡筋ノ卑地へ向ヒ凱流極マリナカリシヲ、武田信玄ノ時ニ至リ大ニ水役ヲ興シ、下條南割ニテ巌石ヲ?(金産)鑿襲スル事廣拾八歩上流ノ駒場、有野ニテ石積出ヲ置キ、駿流ヲ激シテ斜ニ東北へ向カハシム、対岸ハ龍王ノ赤巌ナリ、麦(一名高岩)又六科村ノ西ニ圭角ノ堤ヲ築キ、流ヲ両派ニシテ以テ水勢ヲ分ツ、是ヲ将棋頭と云、其突流シテ釜無河ニ会スル所ニ大石ヲ並置テ水勢ヲ殺ギ釜無河ノ水ト共ニ順流シテ南方へ赴カシム、於是暴流頓ニ止ミ龍王ノ堤ヲ築キテ村里ヲ復スル事ヲ得タリト云、凡ソ治水ハ国家ノ専務ナリ古人ノ心ヲ用フル事如斯精シト謂フヘシ
 
『山梨県水害史』
(参考『若草町誌』一部加筆)
また、『山梨県水害史』には次のような記述がある。
信玄の堤防は水を以て水を流すの法に則りて修築し、之を保護するに人力と自然力とを併用したるものにして、彼の移民保護の如き又御幸祭の如きは、其政策施行の手段に外ならざるものとす、而も信玄は堤防萬能の人に非
ず、能く地の勢を察して術を施せり、笛吹川に一大水防林を設定したるが如きも即ち之なり、且又信玄の治水策は兵法を応用したるを見る。彼の御勅使川の水勢常に奔流激端龍王の堤防を衝くを憂ひ、有野に堅固なる石堤を築き、其水を東北に奔逸せしめ、六科の西方にて其水勢を分割せしが如きは其一なり。
孫子日「我専らなれば一となり、敵分るれば十となる、是れ十を以て其一を攻む則ち我衆にして而して敵寡し」信玄亦此意を以て将棋頭なる石堤を川の中央に築く、而して其一派をして支流たらしめ、其本流をして龍岡村の南岸を壁襲して其下を走らしめ、十六石にて水勢を混乱せしめたるが如きは其二なり。
孫子日く「夫れ兵の形は水に象る、水の形は高きを避て而して下きに赴く、兵の形は実を避て虚を撃つ、水は地に因て而して流れを制す、兵は敵に因て勝を制す故に兵は常勢無くして水に常の形なし能く敵に因て変化して勝を取るもの是を神といふ」と、信玄の治水策の淵源する虜誠に遠深なる、豊兵法に出でさるなからんや。
 
山梨県の自然災害 上古より武田信玄公の時代
(天文十年・1541)までに次のような大きな風水害の記録が残されている。
(参考『若草町誌』一部加筆)
 
景行天皇   (一二二)      霧雨
武烈天皇八年 (五〇六)      大洪水
養老二年   (七一八)      大洪水
天平八年   (七三六)      大洪水
延暦八年   (七八九)      大洪水
天長二年   (八二五)  五月  白根山崩壊
天長二年   (八二五)  十月  
天長十年   (八三三)  九月  御勅使川氾濫
承和三年   (八三六)      
長徳二年   (九九六)      大洪水
永保二年   (一〇八二)     大洪水
元永二年   (一一一九)     大洪水
天治二年   (一一二五)     大洪水
長承二年   (一二二三)     大洪水
寛喜三年   (一二三一) 九月  大洪水
仁治三年   (一二四二) 八月  富士川氾濫
建長三年   (一二五一) 九月  県下大水害
正嘉二年   (一二五八) 八月  県下大水害
弘安六年   (一二八三) 九月  県下大水害
正応三年   (一二九〇) 八月  県下大水害
嘉暦三年   (一三二八) 八月  県下大水害
文中二年   (一二七三) 九月  大洪水
康暦二年   (一二八○)     大洪水
至徳元年   (一二八四) 八月  大洪水
明徳元年   (一三九三)     大洪水
応永九年   (一四〇二)     大洪水
応永二五年  (一四一八) 九月  大洪水
文安五年   (一四四八)     大洪水
寛正三年   (一四六二) 八月
応仁二年   (一四六八) 九月  御勅使川氾濫
文明七年   (一四七五)     御勅使川氾濫
文明十四年  (一四八二)     御勅使川氾濫
文明十八年  (一四八六) 九月  御勅使川氾濫
延徳三年   (一四九一) 七月  御勅使川氾濫
明応元年   (一四九二) 七月  県内大洪水
明応四年   (一四九五) 八月  大風・作一本も実らず飢饉
明応五年   (一四九六) 九月  県内大洪水
明応七年   (一四九八) 九月  大地震・大洪水
明応九年   (一五〇〇) 六月  大風
明応十年   (一五〇一) 七月  大風
文亀元年   (一五〇一) 七月  大風
永正元年   (一五〇四)     大風
永正八年   (一五一一) 九月  大風
永正九年   (一五一二) 三月  県下大洪水
永正十五年  (一五一八) 八月  県下大洪水
永正十七年  (一五二〇) 九月  県下大洪水
大永八年   (一五二八) 六月  県下大洪水
天文二年   (一五三三) 六〜九月数回の大雨・大凶作
天文四年   (一五三五) 四月  大風
天文五年   (一五三六) 五月  餓死・疫病
天文七年   (一五三八) 二月  大雨
天文八年   (一五三九) 十一月 洪水
天文九年   (一五四〇) 九月  御勅使川洪水
天文十年   (一五四一) 八月  御勅使川洪水
 

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