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山梨県の自然災害
(参考『若草町誌』一部加筆)
四方をけわしい山なみに囲まれて、急流がきびしい谷をうがち、盆地を貫流する山梨の自然条件は、甲斐の昔から、宿命的に風水害とのたたかいの歴史を刻んできた。
《日本武尊》
神話時代の物語にも、日本武尊がご東征の折、酒折宮にしばらく逗留されたが、このころ甲斐の盆地一帯は大雨のため、湖水のようなありさまであったので、尊はどうかして水を治めて民の苦しみを救いたいと、国成の玉を埋めて神に祈られたという。後に塩見宿弥を国造としてこの国に遣わし、治水と開拓に当たらせたとも伝えられる。
《蹴裂明神・僧行基・兎(う)の瀬》
また、『甲斐国志』にも「本州上古ノトキ湖ナリシヲ、此ノ神山ヲ蹴裂キテ水ヲ行リ、平地トナセリ」と蹴裂明神(鰍沢町小柳川・察神手力雄命)の由緒が記されており、奈良時代の養老年間、僧行基が衆生済度のため「兎(う)の瀬」を開削して難民を救ったとも伝えられている。
《は角倉了、富士川を開削》
下って江戸時代の慶長十二年(1607)には角倉了以とその子玄之が幕府の命により、富士川を開削して舟運の便を開くとともに、低湿地の解消と洪水による被害を防いだ。
《御勅使川(みだいがわ)》
御勅使川は昔から度々氾濫をくり返して広大な原七郷の扇状地を作ってきたのであるが、淳和天皇の天長二年(825)五月にも、白根山が崩壊して御勅使川の出水が甚だしかったため、国司の奏聞によって勅使を三度も遣わされたことから、(三勅使)の名が起こったとも伝えられている。
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山梨の歴史講座 甲斐勅旨牧(御牧)参考資料『甲斐名勝志』〔天明三年(1783)刊。萩原元克編〕
○延喜式所載御牧三 1、 柏前牧 柏前牧 甲斐御牧考曰、柏前殊に不可考然式所載之牧都テ三處而穂坂眞衣野既在巨摩郡ニ因テ思フニ之逸見又有樫山村北與レ信界土極テ勁寒曠邃而多ク産于今州民皆取給ヲ焉其稱樫山者亦安ク知其非柏前轉訛乎外是而八代郡有柏 山而黒駒山値其南駒飼村在其東ニ皆遠盖前ト與峡同訓而皆縁山水ニ之稱ナレバ則此具一帯之地域為古之牧亦 不可知ル也云々。依之按スルニ柏尾・樫山両説難分と雖も、恐ろくは柏尾ならんか。 2、 眞衣野牧 眞衣野牧 甲斐御牧考ニ曰、武川之地有牧原村與驛路屬ス。倭名鈔有巨摩郡眞衣則此其為違名亦可知矣。東鑑曰、 建久元年三月十三日、甲斐国武河御牧駒八疋参着被レシ經御覽可被進京都。云々 3、 穂坂牧 穂坂牧 甲斐御牧考曰、逸見之地見有小笠原村而講有繁穂坂之號者且村落之通稱有坂上・坂下 意者(オモフニ)穂坂者大名而所謂小笠原是特稱者和歌所詠如互擧其名者然恐不復為兩牧也。云々 この後述には駒牽行事への参加状況が記載してあるが重複するので省く。 この時代にすでに「甲斐の御牧」の所在地は不詳であり、従って『甲斐国志』においても同様な記載となったことが理解できる。以後諸説はあっても研究や史料の読み込みも不足していて未だに進捗してない状況である。今後は遺蹟調査に頼ることになるが、当該地域墳墓や遺蹟などの調査結果からもその所在地を確定できない。実証するには盗掘や破壊された遺蹟や遺構が多すぎる。 特にその時代背景から地名「小笠原」は旧中巨摩郡櫛形町小笠原周辺地域の方が先行する条件がある。後に開発されたのが明野村小笠原であると思われる。人や動物が住む適地条件を鑑みて見れば理解できることである。増穂町・旧甲西町、櫛形町、白根町、八田村なども十分に牧地としての条件を満たしていると考えられる。 |
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山梨県歴史講座 山梨県古代御牧の誤解
美豆御牧は『甲斐国志』の言うような、「美豆ノ牧トハ穂阪、小笠原、逸見三所ヲ差シテ云ナルヘシ。」ではない。美豆は京都市伏見区淀美豆、久世郡久御山町美豆野であり、『千載集』の頼政の歌に「山城の美豆野の里に妹をおきていくたび淀に舟呼ばふらん」とあり、「山城の美豆のみくさにつながれて駒ものうげに見ゆる旅かな」・「比ぶべき駒も菖蒲の草も皆みつ( )の御牧にへけるなりけり」なの他にも「美豆の御牧」や「美豆野」を詠み入れた歌は数多くある。『甲斐国志』の混乱は『夫木集』に「みつ」を「へみ」に変えた事にもよる。また甲斐国志の編者の「美豆御牧」の認識不足にもよる。また紀貫之の「みやこまでなつけてひくは小笠原へみの御牧の駒にや有らん」も京都府の久御山町では「みやこまでなつけてひくは小笠原美豆の御牧の駒にや有らん」と紹介している。「逸見の御牧」は歌の世界のことで歴史文献には見えないのである。「美豆ノ牧トハ穂阪、小笠原、逸見三所ヲ差シ」の記載は間違いである。なお『甲斐国志』の眞衣野の項の歌も信濃御牧ケ原を詠ったもので眞衣野牧とは関係ないものである。 昨年明野村永井原で発掘された遺跡が「小笠原牧」であるとのような発表があったが、この遺跡を小笠原牧と決定する説明はなく、ただ一度古書文献( )に見えるだけの「小笠原牧」と決定するには慎重な調査が必要で、「小笠原地名」の発祥地の南アルプス市小笠原の地名もあり、またこの地域は勅旨牧三牧や中世牧と係わる可能性もあり焦って結論を出す必要は認められない。 残念ながら『甲斐国志』からは甲斐御牧の存在は解明できない。また歌に詠まれた地域名にしても諸説はあっても確定はできない。 1995年に発屈された甲府市塩部遺跡から馬の歯の一部が出土し、研究者が甲斐の馬の生産の起源が四世紀後半に遡ることを指摘された。また研究論文によると馬の体長は125程度で働き盛りの「良馬」が犠牲として殺された可能性が強い。と言及されている。また東日本における四世紀の属する馬の出土は東日本でも数例しか認められていないとして、その四件の内山梨県の塩部遺跡から二件、中道町の東山北遺跡が一件で長野更科の遺跡がそれに続いている。 甲斐と馬の関係は『日本書紀』や『続日本記』を始め多くの書に掲載されている。ある面ではこうした文献の内容の裏づけともなる。 こうした研究者の弛まざる努力がその解明に大きな力となるが、研究者の過大な推論は今後の研究の足枷にもなることもあるので注意が必要と思われる。日本でも最大級と称される『甲斐国志』をもってしても何の解明もない状況で、その後に著された諸本も歌や『甲斐国志』から脱却できずに混迷を深めている。所在地の確定は難しい状況であるが、数多くの文献から甲斐の御牧の規模や当時の牧の様子などには近づくことはできるのである。 ここで『甲斐国志』に先だって刊行された『甲斐名勝志』について見てみることにする。 |
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山梨の歴史講座 甲斐勅旨牧(御牧)古蹟部第十一 巨摩郡武河筋
1、〔眞衣郷〕 倭名鈔ニ巨摩郡ノ郷名萬木乃、国用 眞木野字 トアリ、餘戸郷ノ北貳拾餘村ミナ此郷ニ属ス。牧ノ原村即チ其遺名ナリト云 延喜式国史諸記ニ所レ載本州ノ御牧三所穂坂、眞衣野、柏前ナリ。年貢ノ御馬六十匹ノ内眞衣野、柏前ニテ三十匹以八月七 日 毎年牽進ストアリ。牧ノ原ハ駒ヶ岳、鳳凰山ノ東麓廣遼ノ地、今ハ盡ク耕田トナル。駒ヶ岳ハ奇絶幽蹤神仙ノ所レ聚古ヨ リ人躡 其地 事ヲ不レ許若攀ヂントスル者アレハ必ス風雨怪異ヲ現スト云。頂に駒形権現ヲ祭ル。厩戸王( )ノ驪駒ハ此 山ニ産畜セルト云、事俚談ニ傳ヘタリ。釜無河、尾白河、大武河等此ニ発源ス。甲陽茗話ニ「釜無ノ水源ニ神馬ノ精アリ。 因テ飲 此水 畜ノ馬子必靈ナリト云々。東鑑に載セタル武河ノ牧ハ竹河ナリ萬力筋ニ記ス。和歌ニ御眞衣野原( )ト詠 メル是ナリ。 みまきのはら(夫木集未考、御牧原カ或云甲斐) よみ人しらす 名に高き木曾のかけはし引わたしみ牧の原やこひしかるらん まきの里 (夫木集に云う山城) よみ人しらす 布さらすまきの里ともみゆるかな卯の花さけるかきねくは |
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山梨の歴史講座 甲斐勅旨牧(御牧)《筆註》美津御牧(美豆御牧)
① 『日本馬政史』(巻一P473〜474)に次の記載がある。
美津御牧の件−文治四年(1188)四月四日、被獻武衛御返事事造内裏事、早可致沙汰 、御厩司(ムマツカサ)事勅定之上非可辭申給 、美津御牧者、承及者為御厩ノ菅地歟、為後代今度尤可令申付給哉云々、(東鑑) (因云)美津御牧とは延喜式に云ふ、山城国美豆厩、(畠十一町)野地五十町餘、右二寮夏月、簡 御馬不肥者遣飼、亦諸祭寮ノ馬、同令 放飼 とある是也。 ② 『大日本地名辞書』によれば山城国久世郡の御牧は、美豆と稱し木津川両岸に渉る。「名勝志」に云、美豆御牧は淀大橋の北也。古は馬寮の御牧にて放飼の地也。今美豆は綴喜郡に属し、狭少なれども、御牧は数村となる。 ③ 「夫木集」にある順徳院の御歌に、かりてほす美豆の御牧の夏草はしげりにけりな駒もすさめる とある是也。 前記の美津御牧(美豆御牧)の歌は甲斐御牧とは何らの関係も持たない御牧である。また眞衣野牧や柏前牧の歌は見えなく、『甲斐国志』の眞 衣郷の二首も他の御牧の歌である。美豆御牧を詠んだ歌は数多くありそれは凡そ次のようである。 17、美豆御牧 小笠原みつのみまきにあるゝ駒とれはそ馴るこらが袖かも 『六帖集』
小笠原みつのみまきにあるゝ駒とれはそ馴るこらが袖かも 『夫木集』
みつのみまき
まこもかるみつの御牧の駒の足早く楽しき世をもみる哉 『兼盛集』 隔河戀
山城の美豆の里に妹を置ていくたひ淀の舟よはらむ 『頼成卿集』 美豆御牧
五月雨に里にもみつの河近みほすかりこもや庭の浮草 『和歌名所詞花合』 美豆の江のまこもゝ今は生ぬれはたなれの駒を放ちてそみる 『堀川院御時百首和歌』 かりてほす美豆の御牧の夏草はしけりにけりな駒もすさめす 『内裏名所百首』 こりこもの五月の雲に成にけり美豆の御牧の夕暮の空 まこもくさ末こそまては日数ふるみつの御牧のさみたれのころ 美豆御牧
徒に美豆の御牧まこも草からて浪こす五月雨の比 『菊葉和歌集』 名所百首
五月雨に駒もすさめすまこも草美豆の御牧に浪にくちぬる 『順徳院御集』 美豆御牧の歌はまだ多くある。『甲斐国志』以来の甲斐地書は『国志』を引用し自己解釈を続け。結局は不詳と
なってしまった。歴史学の欠点は間違った私説記述を訂正しない傾向にある。中には自信たっぷりに「である」と言い切る文献もあるが、その論を裏づける資料は何も見えない場合がある。市川団十郎の伝記などその良い例である。諸説ある出生地についても甲斐国市川(周辺)の出身と断定し、それらしい説を肉付けして信憑性を増す手法は歴史創作にはよくある事である。史実であるなら単純に有効な史料を示すだけで事足りる問題である。甲斐の古道(官道)なども『延喜式』の駅名の順序が逆として論を展開しているが、その論拠は誠に心許ないものである。視野の狭さと研究不足が目立つ。歴史の確実さを追求するには、膨大な時間と弛まざる研究姿勢が必要であり、旧説との妥協や思い込みの先行する歴史論からは真実には迫ることはない。元来「謎を解明する」等の書や論文は「さらに謎が深まる」場合の大多く「耶馬台国論争」など好例である。 柏前牧と眞衣野牧の位置関係や運営に携わる人々の関連の深さは文献書から浮かび上がる。文献からは眞衣野牧が主で柏前牧副と思われる。それは眞衣野牧の単独駒牽はあっても柏前牧単独での駒牽はなく、必ず眞衣野牧とセットで実施されているからである。眞衣野牧を現在の北巨摩郡武川村牧ノ原一帯(最近の研究ではその地域が拡大している)、柏前牧は高根町樫山附近の比定ではそうした三つの関係は想定できないのである。次にその眞衣野牧について史料をみる事にする。 |


