白州町情報最前線 サブやんのなんでもジャーナル

山梨県・北杜市・白州町のありのままの姿をジャンルを問わず綴っていきます

過去の投稿日別表示

[ リスト | 詳細 ]

全4ページ

[1] [2] [3] [4]

[ 次のページ ]

北杜歴史講座 常陸からやってきた甲斐源氏 資料名 鎌倉幕府の成立と吉田郷 『勝田市史』中世
一、 源義清と武田郷
佐竹氏の性格 常陸進出の野望
 (略)佐竹氏の始祖である源義光は後三年の役のとき左兵衛尉という官職を捨てて陸奥に下り、兄の義家を助けた。義光のそうした振舞いが、京都の当局者に嫌悪されるところとなった。また京都においては兄の義家や義綱の勢威におされ、みずからの力量を発揮することができず、そのために東国に勢力を扶植しようとしたちいわれている。(略)
 『今昔物語集』と「十訓抄」には、義光が院の近臣として権勢のあった六条顕季と、東国の荘をめぐって所領争いをしたことが書かれている。その所領は「十訓抄」によれば、常陸国多珂郡の国境に近い菊田庄であったといわれる。ここはもともと顕季の領地であった。従って顕季に理があり、義光に非があることは明らであったらしい。しかし、一向に白河法皇の裁定がないので、顕季は内心ひそかに法皇をうらめしく思っていたのである。ところがある日、顕季が御前に伺候していると、法皇は顕季に対し、「この問題の理非はよくわかっているが、義光はあの庄一か所に命をかけている。もし道理のままに裁定したら、無法者の武士がなにをするかわからない。だからあの庄は義光に譲ってはどうか」と仰せられた。顕季は涙をのんで仰せにしたがい、義光を招いて事の次第を告げ、譲状を書いて与えた。義光は大いに喜び、ただちに顕季に名簿を捧げて臣従を誓った。
 それからしばらくたったある夜、顕季が伏見の鳥羽殿から、二、三人の雑色をつれ京に向かったころ、鳥羽の作道のあたりから甲冑を帯びた武者五、六騎が車の前後についてきたので、顕季はおそろしくなって、供の雑色に尋ねさせたころが、夜に供の人もなく退出されるので、刑部丞殿(義光)の命によって警衛していると答えた。顕季はいまさらながら、法皇の深いはからいに感謝したというのである。
 この説話の信憑性については、問題のあるところだが、義光やその子孫の常陸進出については、常陸の豪族平重幹の子、常陸大掾致幹がかって義光らとともに後三年の役に際して、義家の軍に参加したことや、義光が常陸介となって常陸国に赴任したことお関係が深い。
 『永昌記』によると嘉承元年(1106)六月、源義家の子の義国と義光が常陸国で合戦をしたので、朝廷では、義光および平重幹らの党に対して東国の国司に命じて、これを召進めさせたとあるので、義光は早くも常陸大掾氏と結ぶことによって、常陸の地に進出する野望を実現しようとしていたのである。

北杜歴史講座 常陸からやってきた甲斐源氏 資料名  
 源師時(みなもとのもろとき)の日記『長秋記』大治五年十二月三十日の条
 (略)常陸国住人 清光濫行事等也 子細目録見
北杜歴史講座 常陸からやってきた甲斐源氏 資料名 湫尾神社(ぬまおじんじゃ)
 ひたちなか市武田に鎮座する旧郷社。
 創建時は不明であるが、慶安元年(1648)再建されたと記録にあり、武田郷の鎮守として武田大明神と尊称された。その後江戸時代に徳川光圀が神鏡を奉納している。

北杜歴史講座 常陸からやってきた甲斐源氏 資料名 武田氏館案内
 12世紀の初め、甲斐武田氏の先祖である源義清、清光父子がこの武田に館を構え、初めて武田氏を称したことが、志田諄一茨城キリスト教大学教授の研究、(勝田市史編纂事業)によって明らかになりました。市では私たちの郷土勝田市が甲斐武田の発祥の地であることを記念し。市民の方々が郷土の歴史に対する理解を深めるとともに、新しいふるさとづくりの拠りどころとなるよう「ふるさと創生事」の一つとして武田氏館を建設しました。(看板資料より)
 常陸の国司が申すには、清光という住人がでたらめで、乱暴をはたらき、争いごとなどを起こして困っているなどと訴えてきた。詳しいことは別紙「目録」に記されている。
 住人清光は、いうまでもなく武田冠者義清の子清光のことである。12世紀の初めごろの武田郷周辺の地は、常陸平氏の吉田清幹・盛幹父子をはじめ、鹿島神宮の中臣字などの在地勢力と、そこへ新たに武田の地へ居を構えた武田義清・清光らの勢力が張り合っていた。勢力拡張をあせった義清・清光らの行為が、在地勢力の反発を受け、清光「濫行」のゆえをもって告発された。とくに大治2年(1127)年に、義光が去ってからは、義清・清光父子に対する抵抗が 一層強まったことが考えられる。
 義光没後の大治5年(1130)12月、常陸国司藤原朝臣盛輔らによって朝廷に訴えられたのである。しかい清光濫行事件の子細を記した目録がないため、その詳細を知ることができない。(看板資料より)

北杜歴史講座 常陸からやってきた甲斐源氏 資料名 武田氏館(HP)
 平安時代末に、八幡太郎義家の弟新羅三郎義光は、常陸国へ進出を図ったが、那賀川以南の地がすでに常陸平氏の支配下にあったため、長男の義業を久慈郡佐竹郷(常陸太田市)に三男義清を那珂郡武田郷に配置し那賀川以北に勢力の扶植をはかった。
 義清は、眼下に那賀川を望む武田台地の突端に居館を構え、武田の郷名をとって初めて武田氏と称し、武田冠者の名のった、この義清が甲斐国に配流となり、甲斐源氏の祖となるのである。(看板資料より)

全4ページ

[1] [2] [3] [4]

[ 次のページ ]


.

過去の記事一覧

白州町地域なんでもジャーナル
白州町地域なんでもジャーナル
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29

Yahoo!からのお知らせ

よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事