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北杜歴史講座 常陸からやってきた甲斐源氏 資料名『勝田市史』のよる『新編常陸国誌』武田郷の解説
倭名鈔云、武田按ずるに、今の武田村これなり、この村の北に菅谷村あり、其地に不動院と云ふ密寺あり、武田山と号す。この辺凡武田郷なること押して知るべし。倭名鈔及地図を按ずるに、この郷東は岡田郷に接し、西は河内郡に隣り、南は那賀川の涯りて、志万郡に対し、北は久慈郡木前、美和両郡に堺を接して、武田、勝倉、堀口、枝川、津田、市毛、菅谷、田彦、稲田等の九村、七千石ばかりの地、皆古の武田郷なり。
古代の武田郷が、菅谷まで広がっていたとは思われない。『新編常陸国誌』が菅谷の地を武田郷に入れたのは、菅谷に武田山不動院という真言宗の寺院があるので、武田山と武田 結びつけたのである。
しかし武田山不動院は最初から菅谷の建立さたのではない。『願行流血脈』 (がんぎょうりゅうけつみやく)によると、武田不動院は初め高場に建立され のちに菅谷に移され、武田山不動院の名を嗣いだのである。
武田郷の中心は、現在家武田にあった。平安時代の仁平元年(1151)4月8日の吉田郡倉員(くらかず)に宛てた「常陸国留守所下文」(くだしぶん)に「早く御庁宣旨に任せ、武田荒野を領地せしむべき事」とある。「荒野」とすれば現在の高野にあたる。また高場不動院が武田不動院とも呼ばれたのは、高場の地が武田郷に属していたからである。
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