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江戸時代に語られた甲斐武将たち『日本随筆大系』 一条忠頼のこと 三省録(志賀 忍)
甲斐源氏一条次郎頼忠(忠頼)謀反の企てありと聞、鎌倉殿(頼朝)これを誅せらるべきと、壽永三年六月十六日殿中に於て誅したまふ。頼忠が侍新平太、同武藤與一並山村小太郎等、事の起る見しより、面々太刀押取侍所の上に乱れ入る。中にも山村小太郎なをも寝殿ちかくはしり入、天野藤内遠景かたはらなる大魚板を以これを打つと云々。(『武道兵語抄』)
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江戸時代に語られた甲斐武将たち『日本随筆大系』 高坂弾正と言者高野の書帖有 可成三註(篠崎東海等)
則按、或云、軍艦は高坂弾正忠昌信記レ之。其臣春日惣三郎附記すと云へども、軍艦より結要本来書、中巻及び下巻、三韜本彼已の巻、寒暑兩本に至るまで、小幡勘兵衛景憲著す所と。一説には、文字に疎くして、清書の時叔姪に禅僧ありて手を借ると。独り軍法巻は高坂霜臺が遺書にして、景憲晩年に下巻を撰す。井上義備曰、備本南越福井の産なり。原氏、真田氏、高坂氏、其餘甲州之士在 於福井 。以 甲軍志 傳 之於東都 。談レ兵者又多。共以 高坂昌信 為レ眞。何以 高野一書牘 欺 天下之士 耶。可レ謂レ誤矣。井上義備子政。號石渓花。惣平。
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江戸時代に語られた甲斐武将たち『日本随筆大系』 甲州祐成寺の来由 新著聞集(著者不詳)
ある旅僧、独一の境界にて、複子を肩にかけ、相州箱根山をこしけるに、日景、いまだ午の刻にならんとおぼしまに、俄に日くれ黒暗となり、目指もしらぬ程にて、一足もひかれざりしかば、あやしくおもひながら、是非なくて、とある木陰の石上に坐し、心こらして佛名を唱ながら、峠の方をみやるに、究竟の壯夫、太刀をはき手づからの馬のくつ草鞋をちり、松明ふり立て、一文字に馳くだる。跡につゞき若き女おくれまじとまかれり。あやしく守り居るに、壯夫のいはく、法師は甲斐国にゆくたまふな。われ、信玄に傳言すべし。通じたまはれ。某は曽我祐成にてありし。これなるは妻の虎、信玄は我弟の時宗なり。かれは、若年より此山にあって、佛經をよみ、佛名を唱るの功おぼろげにあらずして、今名将なり。あまたの人に崇敬せられ、又佛道にたよりて、いみじきあり様にておはせし。某は愛着の纏縛にひかされ、今に黄泉にたゞよひ、三途のちまた出やらで、ある時は修羅鬪諍の苦患いふばかりなり。願くば我為に、精舎一宇造営して、菩提の手向たまはれよと、いとけだかく聞えしかば、僧のいはく、安き御事に侍ひしかど、證據なくては、承引いかゞあらんとありければ、是尤の事也とて、目貫片しをはづし、これを持参したまへと、いひもあへぬに、晴天に白日かゝり、人馬きへうせてけり。僧思ひきはめて、甲陽に越て、それぞれの便をえて、信玄へかくと申入れしかば、件の目貫見たまふて、不審き事かなとて、秘蔵の腰物をめされ見たまへば、片方の目貫にて有しかば、是奇特の事とて、僧に褒美たまはり、頓て一宇をいとなみ、祐成寺と號したり。しかしより星霜良古て、破壊におよびしかば、元禄十一年に、共住持、しかじかの縁起いひ連ね、武江へ再興の願たてし事、松平摂津守殿きこしめされ、武田越前守殿へ、其事、いかゞやと尋たまひしかば、その目貫こそ、只今某が腰の物にものせしと、みせたまふに、金の蟠龍にてありし。
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江戸時代に語られた甲斐武将たち『日本随筆大系』 津金氏古文書 一話一言(大田南畝)
新羅三郎三代佐竹信濃守昌義が後胤対馬守某甲斐国巨摩郡津金村に住せしより家号として津金也。
武蔵国榛澤郡田中村四百三拾石壹斗勅使
河原村百三拾石九斗以上五百六拾壹石此外
〔百九十石両村開発地〕合七百五拾壹石事令扶助の畢
全可知行者也
寛永二年
七月廿七日 御朱印
津金助之進とのへ
甲州津金郷貳拾文 根羽樫山共五貫文 矢戸分八貫文
蔵出八貫文 信州機郷百貫文 同市淵郷三拾貫文 上州下高田貳拾貫文 清水宮内右衛門分壹貫百文
三蔵郷五拾貫文 同分比志郷拾三貫文
以上新知行事
右所充宛行不可相違然は預置足軽十人以此内可令扶持者也仍 如件
天正十年 安 部 善 九
九月九日 山 本 帯 刀
御朱印 奉之
定
一、両三人と申組者共之妻子被官何方へ取候共可返付事
一、津金之郷男女牛馬一切不可返付事
一、境目之者共今度□付而者恩賞之地可宛行之事
右何茂不可有相違状如件
天正十年 安 部 善 九
九月廿四日 山 本 帯 刀
奉之
小池筑前守殿
津金修理介殿
中尾監物丞殿
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江戸時代に語られた甲斐武将たち『日本随筆大系』 仁科五郎 一話一言(大田南畝)
天正十年二月穴山梅雪逆心に付勝頼も諏訪を引取織田城介信忠卿は仁科五郎信盛の籠候高遠の城へ御取詰奥沼原に御馬を取立使僧を以て仁科五郎降参仕候へ其子細は武田家人大半逆心仕候間勝頼滅亡近日に候各誰が為に城を持候はん哉早々降参尤と被仰遣仁科五郎小山田備中則御使僧の耳鼻をそぎ追返し一戦可仕旨返事也城介殿御せき候て高遠城を一時攻に攻取玉ふ小山田備中切て出城介殿を目がけ討取んと数度仕候へども不叶引て仁科五郎と備中守渡辺金太夫春日河内守原隼人金福又左衛門諏訪庄右衛門以下十八人大広間に取籠り死狂に相戦中にも年頃三十五六なる女房緋威の具足に長刀を抜て水車に廻し諏訪庄左衛門が妻と名乗て七八人なぎたほし其後自害する大広間は七間に十二間の家なり是に取籠り候故寄手も攻あぐむ城介信忠は浅黄金襴の母衣かけ玉ひ広間の前の塀に御上り候塀に沿て桐の木あるに取付ざいをふり身をもんで御下知被成遂に仁科五郎小山田備中せい盡て自害する高遠落城の四日目に見物せし人は被語候は彼大広間天井も柱も鑓跡太刀跡さては血に染り明所なし庭に残雪ありしが血かゝり紫雪になりたり地下人ども掃除に来りて居る其者ども申候は是なる塀の上に城介殿御上り左の御手にて此木とらへざいを御取被成候小山田備中も仁科五郎殿も城介殿を見しり七八度も切てかゝり候其時太刀跡鑓跡にて候いふ城介殿御取付候桐の木にひしと疵あり扨広間に二間の大床あり張付のから紙あり血腸なげ付指の跡四筋血にて一尺計も引て見ゆる地下人に尋候へば大将仁科五郎殿此床に上り自害腸を抓んてから紙へ打付手を御拭候其指の跡と申候仁科殿は年十九にていまだ前髪ある勝たる御若衆にて候と語る扨天井をみれば鉄砲の玉の跡いくらといふ事なし是を尋れば答て曰仁科五郎さすが信玄公の御子なればつよく御働小山田備中をはじめ十八人狂廻り討かね候故森勝蔵殿の衆屋根へ上り板をまくりて上より鉄砲ずくめに仕候と語りたり後勝蔵一手の衆を高遠の屋根ふき士と異名に付て笑ひしと也。
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