|
柳沢吉保 赤穂浪士事件の処分 吉保「切腹」を主張(五味康祐氏著 吉保佞臣説の拠り所 一部加筆)
ところが、これに吉保は異議をさしはさんだ。当時、吉保は御側御用人の要職にあったが、「甚だ嘆かわしくお思い召され、さしあたって先例の拠り所もこれなきゆえそのままさしおいて」城を退ったが、早速、帰邸するや儒者の志村三左衛門・荻生徂徠(惣右衛門の両名を召して右の裁決をどう思うかと尋ねている。
これに対し、老儒の志村は「前例がないことでなんとも判断をいたしかねます」と言ったが、荻生は「さてさて御評議の衆は些末のことにのみこだわりなされ、肝要のことにお気づき遊ばさぬように存じ申す」と言い、こんなふうに答えた。
「すべて物事は些末に頓着せず、大要をとらえるのが聖人の教えに候。当節、忠孝を御政道の第一にお置き 遊ばされているのに、赤穂浪士の御成敗を盗賊のお裁きとは、さりとは情無き次第と存じ候。忠孝を心がけていたしたものを盗賊あつかい遊ばすのが例になり候ては、向後、不義不忠のもののお裁きをどう遊ばす御存念か。ここは切腹を仰せつけられ 候ことこそ、まずもって肝要かと存じ候。さすれば彼らの宿意も立ち、面目も立ち、いかばかり世人への示しともなることでございましょう」
と。
吉保は聞いて、たいそう満足に思い、翌朝つねより一時間も早く登城して綱吉に目通りを乞うと右の趣を言上した。言われてみれば確かに武士らしく主君の恨みを晴らしたので、武士らしい切腹を申しつけるのが至当と綱吉も悟った。
そこで「御評議俄に相変わり」四十六士は切腹、内蔵助の倅吉千代をはじめ、十五歳に満たぬ義士の遺児ら十九人は遠島を仰せつけられたと、柳沢の家臣は書きとめている。
これには無論、大石ら浪士をあずかった細川越中守綱利をはじめ、当時の心ある大名が内蔵助らの討ち入りを忠節無比の義挙と称賛した、いわば世論へのおもんはかりもあったかもしれない。だが吉保の人となりが、綱吉におベっかをつかうだけの佞臣ではなかったかした証を、ここにもわれわれほみることができる。お気に入りの吉保の正論だったから綱吉もその意見をいれたともいえるだろう。念のため言っておくが、幕府は畢竟(ひっきょう)、武家政体である。皇室・天皇が政務を統べ給うなら王道だが、幕府のそれは覇道であり、将軍が尊王思想の持ち主では幕府は成り立たない。武士階級は幕府あってのもので、明治維新でも明らかなように、勤王思想に徹するなら幕府は政権を奉還し、すべての大名およびその家来たる武士は、禄をはなれなければならない。それでは困るのである。
|
過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
2012年03月10日
|
柳沢吉保 赤穂浪士事件の処分(五味康祐氏著 吉保佞臣説の拠り所 一部加筆)
【老中らの評定】
次に赤穂義士の処分である。
大石ら四十六士が・吉良邸に討ち入り、上野介の首級を挙げた一件は満天下の耳目をそばだたせたが、彼らの処分について、幕府では老中阿部豊後守正武・土屋相模守・小笠原佐渡守・稲葉丹後守ら評議のうえで、
「右の輩(赤穂浪士)は仇討ちの宿意これ有り候とて、或は町人または日雇い人足の姿に身をやつし殊さら深更に人家へ忍び込み侯次第、武士道にあるまじき致し方に供えは、夜盗のたぐいと変わらぬのだから全員斬罪人打ち首の処分しかるべしと決し、これを綱吉に上申した。
ひとこと言っておかねばならないが、大石ら義士の討ち入りはむろん、主君の恨みを報じたことに武士道ではなっている。しかし松の廊下で浅野内匠頭が吉良上野介に刃傷に及んだのは私憤による行為だった。
当日は勅使を江戸城に迎える儀式の日で、内匠頭は馳走役いってみれば幕府という大会社で接待役を命じられていた社員が、接待すべき勅使(宮内省の役人)を迎える宴会の会場で、後見たる(接待担当重役)上野介と内輪もめの喧嘩をし、重役に暴力をふるった、それがあの刃傷事件のありさまである。いかに上役たる吉良が意地悪をしようと、腹が立つなら後日接待役の任務を終えたあとで晴らすべきだ。しかるに宴会場でまさに勅使を迎えんとする直前、刃傷に及んだのは、大会社のサラリーマンとしてはもってのほかの振る舞いであり、内匠頭が献首になった(切腹を仰せつけられた)のは当然といわねばならない。それを、喧嘩だから両成敗で吉良上野介もクビにすべきだというのが浅野家の遺族、大石らの主張なのだが、こんな理屈が通らぬぐらいは今日のサラリーマンでも自覚していよう。
さらに、これも重要なのでいっておくが、将軍綱吉という人はいわは当時のインテリで、きわめて皇室への尊崇心のあつい将軍だった。内匠頭の刃傷沙汰は、単に自己抑制のたらぬ(接待役たる任務を忘れた)所業であるのみならず、勅使を迎える場所を血で稜すという不敬罪を働いたわけなので、日本人として、皇室への不敬を犯したかどで切腹させられたのである。短慮者内匠頭に綱吉が激怒したのも不敬を彼が犯したからで、単に喧嘩をしたからではない。
とすれば、皇室への不敬を犯したものの遺族が徒党を組んで上野介、きわめて京都の公卿たちと親密だった、の屋敷へ殴り込みをかけるのは、いわば二重に綱吉の尊皇心をないがしろにした行為ともいえる。老中阿部正武らはその辺の綱吉の心情も汲んで極刑を評定したのである。
|
|
柳沢吉保 家宣、擁立問題【事の真相】(五味康祐氏著 吉保佞臣説の拠り所 一部加筆)
では真相はどうだったの
将軍綱吉には、ふたりの異母兄があった。いずれも父は二代将軍家光で、長兄が四代将軍となった家綱、次が甲府宰相綱重、季(すえ)が館林の綱吉である。
さて四代将軍家綱の病体が重くなったときに、家綱には嫡子がなかった。次兄綱重はこれより先に三十三歳でみまかっていた。そこで五代将軍を季の綱吉が継ぐことになったわけだが、この時、甲府綱重には庶子ながら虎松という遺児あり、長幼の序からすれば、当然、家綱亡き後を継ぐのは次兄たる綱重の子の虎松なりというのが水戸光圀の意見だったという。でもこれは、綱吉の生母桂昌院がなかなかのやり手で、彼女は諸大名はじめ幕府重臣の誰彼なしに、以前から気前よく品物を贈ったりして綱吉の人気を煽り、五代将軍家は大猷院(家光)の御子たる綱吉こそしかるべしとの世論を煽動しておいたから、結局これが効を奏し、綱吉が家綱の跡を継いだ。
さて綱吉には一男一女があった。鶴姫と徳松である。鶴姫は紀州の綱教(つなのり)に嫁し、徳松は当然、次期将軍家たる継嗣として西の丸に入っていた。ところがこの徳松が幼にして亡くなってしまった。となれは、綱吉の血をわけた子は公には鶴姫だけで、綱吉は娘婿たる紀州の綱教を江戸城に迎え入れ、次期将軍に定めたかったらしい。
これに真っ向から反対したのが水戸光圀である。光圀は、綱吉の娘婿よりは甲府の遺児虎松こそ将軍家世継ぎたるべしとここでも主張したわけで、三代将軍家光の血のつながりを尊ぶなら、いっそ家光の息女千代姫(綱吉の姉)が嫁した尾張光友の子綱誠(つなのぶ)こそ、紀州の綱教より血は濃いはずではないかとまで言い張ったのである。これは正論だろう(藤井紋大夫が将軍家の意におもねってこんな光圀を排斥しようと連判状事件をおこしたわけである)。
いずれにしてもだが、光囲の正論にはいかに将軍綱吉とても抗しかねていた。ところが、宝永元年(一七〇四)四月に、ひそかな望みをかけていた娘の鶴姫は亡くなり、さらに翌年五月、婿である紀州の綱教も亡くなってしまった。あまつさえ、それ以前(元禄十一年)に尾張の千代姫は亡くなっていて、その子綱誠もまた元禄十三年に世を去っていた。
ここで、もう綱吉の血を継ぐものは柳沢吉保の子ということにした吉里以外にないわけである。にわかに柳沢父子の存在は、将軍家継承問題にからんで世人の注目を浴びることになったので、吉保が、綱吉の愛妾とひそかに謀って綱吉を亡きものにし、吉里を将軍家に立て、もって権勢をほしいままにせんとしたとか、綱吉が毒殺されたなどという浮説、つまり、柳沢騒動の虚妄がまことしやかに流布された由縁であった。
|
|
柳沢吉保 家宣、擁立問題【虚説・柳沢騒動】(五味康祐氏著 吉保佞臣説の拠り所 一部加筆)
世に柳沢騒動と称される事件がある。「御屋形様」たる吉里を、じつはわが子でないのに吉保は綱吉公の落胤と偽り称して、次期将軍に推し立て、その身は百万石の大守たらんと策謀したというのだが、これがいかに虚妄の説かは前述した吉保の言行によっても明らかだろうと思う。
でも、世間にそういう浮説の流れるのにはそれなりの理由があった。まず藤井紋大夫のお手討ちである。紋大夫というのは、もとは幕府の御能役者の子で、将軍綱吉は琴・三味線などは嫌っていっさい退けた。しかし、能楽は愛好されたので、紋大夫も最初は能役者であったのを、水戸の西山公(光圀)の御意にかなって水戸家でだんだんに取り立てられ、のちには八百石を頂戴して家老格にまで用いられる身分になった。そうして光圀の孫である吉孚(よしたか)に付けられた。ところが、しだいに紋大夫は慢心してついに非望を企て、光圀・綱篠(つなえだ)父子、綱篠は光圀の子で、吉孚の父の離反を策して水戸の政権を牛耳ろうとするいっぽう、縁者の娘を柳沢吉保の妾にさしだしてその歓心を買い、光圀公は乱心めされたなどと密告した。そうかと思うと、水戸の藩士らには、吉里殿はじつは将軍家御落胤であると言いふらし、次期将軍に吉里を擁立する運動を名目に水戸藩で与党を募った。これには連判状まであったというが、そんなことから、光圀のお手討ちにあった。
時に貞享二年(一六八五)十二月十八日。光圀は水戸西山の隠居所から突如、江戸邸に出向いて紋大夫を手討ちにしたという。
水戸側の記録では、この手討ちの前例の生類憐みの令が流布された直後、当時、西山に隠居中の光囲は悪獣狩りと称して獲った獣のなかから、犬の皮二十枚ばかりを精製し、これを江戸の柳沢吉保に贈ったというが、悪犬を殺すのはともかく、その皮を精製して贈るとはなんたることか、さては水戸老公は乱心めされたかと幕府でも大騒ぎになり、将軍家に昵近(じっきん)する吉保へいやがらせしたことになっている。かつは生類憐みの令への痛烈な批判をなしたと世人も解釈したらしいが、生類憐みの令への批判はともかく、吉保へのいやがらせというのは違う。
なぜならこの騒ぎのあった貞享二年には、吉保は出羽守と改めてはいてもまだ都合千三十石の家臣にすぎない。
大名に立身するのは元禄元年(一六八八)からで、そもそも「生類憐みの令」の流布されるのに吉保は参画したわけではなかった。天下の法令を、幕閣老中をさしおいて千三十石程度の輩に献策できるわけはなかったのである。
そのかぎりでは、天下の副将軍ともあろう光圀が、わずか千石余の小身者にいやがらせをするというのも異常で、よし将軍家への面当てにせよ、絞大夫と吉保の結びつきを壟断(ろうだん)するのが真意だったろうと考えられる。
でも、この紋大夫お手討ち事件がかえって世間に、将軍家の吉保に対する寵愛ぶりを印象づけ、あわせては根も葉もない柳沢騒動を後世に虚構させたのだから皮肉である。
|
|
柳沢吉保 慎みが肝要(五味康祐氏著 吉保佞臣説の拠り所 一部加筆)
慎みが肝要
「すべて、慎みと申すことが第一なりとかねがね家臣に諭されていた。今のわが身のつとめ柄、また将軍家の御寵愛を賜わる立場であれば、おのずと家来どもも外に出たとき、わがもの顔に振る舞いたくなるであろうが、断じてさようなことがあってはならない。大道を往く時も、なるべく道の端を通るぐらいな慎みが肝要である。お供の面々もこの点は十分わきまえおくようにと、つねに支配頭へ御意なされたので、柳沢家の家士に限って、他処でがさつな振る舞いをしたものはなかったのである。
また家中の諸士には、つねに風俗よく礼儀正しくコレ有るよう心づけよと訓されていた。家士の風俗で主人の心根は知られるものだから、と。
余談ながら、行往坐臥、殿ご自身の素行はきわめて実直で、ふだんでも膝をおくつろぎ遊ばすのを見たものはない。食事中はもちろん屹度(きっと)正座をしてお食べになった。昼休息の時もけっしていぎたない扮(なり)をなされたことはなかった。御針治の後、暫時身を横になされていたくらいである。夜は表にはかり御寝になり、奥(女中どもの暮らす局に泊まられたのを知らない。
言葉は心のあらわれなりと申されて、つねに言葉づかいには心を尽くされ、近侍のものらは申すに及ばず、御坊主どもにもいたって丁寧な物言いをされた。
武芸に精進されたことは前に述べたとおりであるが、学問にもきわめてご熱心で、日々登城の勘は御用忙多でお暇はないにもかかわらず、わずかなお手すきには儒書ならびに歌書をひもとかれた。毎月の歌会には必ず出席なされたし、元禄十五年(一七〇二)には北村季吟より『古今集』の教授をうけられた。同十六年には、百首の和歌を詠んで仙洞御所の叡覧に供し奉られている。
日常、お側には硯文庫に糊入れと四半紙を常備され、かりそめの御用を仰せつけられるにもいちいち右の紙に書いてお渡しであった。こうすればまちがいがおこらぬからと。
また、御用向きの儀につき、家臣らが御側衆を通じて意見をおうかがいすることがあると、直接、会って申しつけられた。きわめて些細なことなど人づてに御意なされてもすむことながら、なにごともおじきにうかがえば、その時のお顔の様子などから御意を呑みこみ早いものである、とかく主人の御前に出て、相互に顔をつないでおくのもつとめの第一であるとの御意からであった。だからよほどの病気でないかぎり、家士らも引っ込まずに御前に出て、おつとめを励んだのである。
柳沢吉保 領民への思いやり(五味康祐氏著 吉保佞臣説の拠り所 一部加筆)
「殿が御登城また退出遊ばす時に、百姓町人がお駕寵へ訴状をさしだすことがたびたびだった。駆け込み訴えである。お座敷まで参るものもいた。本来ならばゆるされぬ振る舞いながら、これをことごとく聞き入れに相成り、目付役に出合わせて、町人は町奉行、百姓の訴えは勘定奉行まで内意を遣わさせ、けっして訴状人に迷惑のかからぬよう配慮された。また代官にも余程の邪悪な人物でないかぎり、その役目怠慢にならず事すむよう配慮されたのである。
元禄年中、諸国飢饉で、川越領中の百姓どもも大いに難渋した節には、御救米をくだされ、領内の役人衆に下知して餓え候ものをお調べのうえお救いなされたから、その慈悲深い御政治向きに領民らが感謝したことはのちのちまでの語り草になっている。
またこうした仁心あつく、憐憫(れんびん)の情を下々へ細やかに遣われたのはすでに館林にて勘定奉行をつとめられたころからで、当時、処刑の決まったものを御容赦なされた例は何人もあった。風流で名代官といわれる某も、そのころ、罪をゆるされたものの子である。
領内百姓町人で、八十歳以上の男女に米一俵ずつ、御祝儀としてくだされたこともあった。
つねづね、百姓には、掛かり物多きか少なきか、多くば代官の仕置き悪しきゆえなり、と内証で尋ねられ、なにほどの掛かり物コレ有るか遠慮なく申し越すようにと申されていた。
また領内村々で、蔵畳敷の数を調べベ、蔵のある所はともかく、蔵のないのは荒地のためではなかろうかと、領内くまなくこれを調べさせられたことがあった。しこうして、蔵屋敷のない村は年貢の割付けを吟味するよう代官まで申しつけられた」
【律義者の吉保像】
以上が、家臣の書き残した吉保の言行である。これでみると、いかに柳沢吉保が文官として器量のととのった人物だったか、少なくとも将軍家の寵愛をかさに、威張り散らすようないわゆる茶坊主的佞臣ではないことがわかると思う。
新陰流は将軍家の兵法なれはと、稽古の際にも戸を閉め立てたこと。その兵法書を箱におさめ鍵をかけていたこと。日常、膝を崩すこともない慎み深さ、供侍にまでがさつの振る舞いなきよういさめた態度。領民への思いやり。どれひとつをとっても律義すぎるほど律義で、お上大切と心が止りた実意ある武士の像しか浮かんでこない(総じて上司におべっかを言い、ゴマすりを得意とする手合いには万事に抜け目のない小才子が多いものである。そういう小賢しい徒輩に限って、虎の威をかる狐で、陰では威張り散らし、かつ上司のいない場所では立居振る舞いも横柄で、いたって残忍なものである。すなわち吉保とほおよそ別なタイプの人間である。
要するに吉保は、自分を登用してくれた将軍綱吉に一途に忠勤をはげむ体の人物だったので、世人の羨望を買う出世をしたのも、綱吉におもねったからではなく、綱吉白身が吉保の実直さ、律義さを愛でて異数の出世をさせたとみるべきだろう。しかも、正しいことはたとえ将軍家の意にそわずとも、あくまでも正しく筋目を通す実直さをも吉保はもっていた。
それを物語るのが次期将軍たる家宣の擁立と、赤穂義士の処分に関する正論の吐露だった。
|



