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仕送り 我が生い立ちの序章 金丸信氏 自伝(昭和58年刊)
この頃、わたしは月に七十円の仕送りを、オヤクから受けていた。当時の下宿代が、朝晩食べて月に二十二円だったのを覚えている。授業料は別に送られてくるから四十七、八円が手元に残る。コーヒI一杯五銭、ライスカレー一杯十銭、焼鳥が二銭だったわけだから、相当に使い手があった。
柔道部の若い連中を連れて、渋谷あたりを飲み歩く。毎日だ。いくら使い手があるといっても、何しろ、体が大きいのが、飲んだり食ったりするんだからたまらない。大学に入ったといっても、フトコロはさまざまだったから、このオヤジからの仕送りには、みんな期待していたねえ。それでも、大盤振舞いした月なんかは、飲み代が足りなくなってしまうことも間々あった。
そこで、オヤジに頼んで、なんとか金をせびろうと考え、うまい口実を探し出した。「オヤジ、実験に使う顕微鏡を買わなければならないから金をくれ。二百円、三百円、五百円の三種類あるんだが、どれを買ったらいいか」オヤジは少し考えていたが、「ウチは酒屋だし、顕微鏡の一つもいるな。用がなくなれば、お前の下宿ではなくて、家に置いといてもいいな」と言って、「どうせ買うなら、いいのを買おう。五百円のを買うか」と言ってくれた。「これは、しめた」と心の中で思ったが、顔には出さない。「それじゃあ、五百円のを買います」立ち上がりかけたら、わたしとオヤジのやり取りを脇で黙って聞いていたオフクロが、「お父さん。その金はどうなるかわからない。どうしても顕微鏡を買ってやるというなら、二百円のでいいですよ」というんだ。オフクロというのは、すべて見抜いていたんだな。こっちは参ったが、まあ二百円でも手に入ればしめたものだ。オフクロにも逆らわずに、二百円を懐に入れて家を出た。オフクロが、この金がなにに使われるのかわからない、といったのには、実はわけがある。大学の上級生になった頃、「信は、いったいどんな生活をしているのか」と下宿先に様子をみに来たことがある。来ることはわかっていたが、とりつくろうことは出来ない。部屋の中は、空っぽ。何にもない。すべて、近くの質屋の倉庫におさまっていたからだ。オフクロが来ると騒いでみても、質請けする金がなければどうしようもない。腹を決めて、オフクロの前に座った。オフクロは、じつと部屋を見回してから、別段、驚いたような表情もしないで言った。
「お前、勉強するものがなくてどうする。さあ、これから質屋に行って、請け出してこよう」どうにも、仕方がない。
オフクロを連れてというか、連れられてというか、質屋のドアをあけた。質屋では、たまたま親爺がいないで、女房がじろじろ見る。それでも、オフタロが、質入れしてあったものを全部、請け出してくれた。布団はもちろん、教科書、オーバーコート、机、蓄音機など、わたしの〝生活〃が、全部でてきた。
その時になって、オフクロが初めて、「よく、これで過ごせたねえ」と嘆息をついた。
質屋を出ると、「質屋というものは、ずいぶん、目つきが悪くなるものだねえ」と言った。よほど、質屋の女房の視線がつらかったのかも知れなかった。もっとも、その当時は、布団も教科書もいらなかった。
授業なんかは、もうろくすっぽ、聞いていないし、家になんて帰らない。先輩だの後輩だのの家を泊り歩いていて、何一つ不自由しなかったんだから。そんな東京の生活を知っているから、オフクロが、そんなことを言ったんだろう。しかし、オヤジだって薄々は気がついていたと思うよ。しかし、何も言わなかった。オフクロの見抜いた通り、「二百円」は、飲み代に消えてしまった。顕微鏡が必要だった時には、学校の備えつけもあったし、そうだな、顕微鏡をのぞくようなことがあったっけな。後日談だが、卒業して郷里に戻ったら、オヤクが真顔で、ちょっと来いという。
「信、確か、お前に顕微鏡を買ってやったはずだが、あれはどうした」という。顕微鏡の事など、こっちが忘れていた。どきっとしたが、いまさら嘘をついても始まらない。「あれは、みんなで飲んじゃった」と答えたら、オヤジは、もう何もいわなかった。この年齢になって妙なことが思い出されるもんだわ。要するに天衣無縫だったということだ
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2012年03月01日
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農大柔道生活 我が生い立ちの序章 金丸信氏 自伝(昭和58年刊)
とくに、柔道部になると、それは、稽古は激しかった。自分でも、柔道だけは、誰よりもうまいという自信があった。国会議員の中には、柔道や剣道をやった人が結構いるが、わたしは、自分でもいうのはなんだが、強かったねえ。本当に、強かった。
もう知っている人も少なくなったかも知れないが、柔道からプロレスに転進して、そう、あの力道山と雌雄を決した拓大の木村政彦君とも、よく稽古をしたもんだ。木村君は強かった。柔道だけなら、恐らく日本一だと思う。外国に、柔道選手権をとられることなどなかったと思うね、彼ならば。
そのほかに、伝説的な人物になってしまった徳三宝さんや空気投げの三船久蔵さんも健在だった。柔道の最盛期だったかも知れない。 そんな中で、わたしも柔道界には鳴りわたっていたね。農大に、金丸信ありだ。こと柔道に関
しては、子供の頃から強かった。中学四年で二段だった。五年生が初段ばかりだったから、どうみても私の方が強い。五年生が、ある時、わたしを目の敵にして、総がかりでかかってきた。
そんなことでひるむものじゃない。十人でかかってこようが、十五人でこようが、片っ端から投げつけてしまう。とうとう諦めて五年生もおとなしくなったが、我ながら強いと思ったもの。
大学では、毛利松平さんが慶応で、わたしが農大、そして蔵前の工専(現東京工大)の柔道の先生をしていた飯塚国三郎さんという人がいて、三校の対抗試合があったこともあった。毛利さんも強かったが、わたしの方が強い。お互いに、国会議員になって、派閥は違うが、毛利さんとは、学生時代の友情がずっと続いている。お互いに、助け合ってね。この頃、講道館は後楽園に移り、黒帯になると、道場への入り口から違っていた。そこに、黒帯を下げて、意気揚々と入っていく。なかなかいい気分だったねえ。こんな調子だから、日本選抜軍には常に入っていた。
その選抜軍を組んで、満州(いまの中国東北部)にわたり、オール満州軍と、大連やハルビン(現在の黒竜江省)などを転戦して歩いた。満鉄のスマートな列車に乗って、広い満州を走るだけで、武者修行に来たような気持になっ
た。当時で、総勢二十五、六人だったね。もちろん、木村君も一緒だった。わたしの得意技は、腰投げとか内股などの離れ技だ。だいたい、講道館は、「講道館のゾーキン踊り」とからかわれたように立ち技が多いんだ。わたしも寝技はやらなかった。国対委員長なんかやっていると、「先生は、寝技が得意ですか」とか「赤じゅうたんの寝技師」なんてからかわれるが、わたしは、寝技はしない。よく、竹下君(登氏)が、「ポクの柔道は寝技専門。試合が始まったら、すぐ寝ちゃうから相手も攻められない。要するに、引き分け要員だ」などと冗談をいうものだから、わたしまで寝技かと思われる。そんなことはない。
講道館の百畳敷き勾道場を逆立ちして歩いて、筋力を養っていたんだから強いはずだ。柔道の話ばかりじゃまずいかな。
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天衣無縫の学生生活 我が生い立ちの序章 金丸信氏 自伝(昭和58年刊)
いまでも、ときどき、夢をみる。
「わたしは、ほんとに農大を卒業したのかなあ。あの時、卒業証書は、もらったかなあ」わたしはともかく身延中学を卒業して、東京農大に入った。昭和八年の春だったな。農大に入学して、勉強をまったくしなかったわけじゃない。むしろ、農業について、よく勉強したんじゃないかな。だけど、それ以上に、柔道に打ち込んだということだろうな。ま、表門から入って、裏門から出たようなものだが、ちゃんと卒業はしている。現在、農大の理事をやったり、山梨県の農大同窓会の支部長をしているくらいだからね。しかし、いかに勉強しなかったか、夢で見るくらいだから、わかるだろうな。午前中は授業を受けた。しかし、午後になると、もう道場だったね。いまの大学の運動部でも、そんなもんじゃないかな。
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おふくろ 我が生い立ちの序章 金丸信氏 自伝(昭和58年刊)
おフクロは賢い。婦人会の郡の会長をつとめたほどの賢夫人だった。そのくせ、表に出ることは好まず、わが家では、質素倹約を旨としていた。だからといってケチではなく、家をつくる時には、どうせなら小さい家ではなくて大きいのを建てようという太っ腹なお母さんだった。クリスチャンで、オヤクにはよく仕えたが、わたしは、オヤジよりも、このおフクロさんの方がこわかった。なにをしても、すべて見抜かれてしまった。ぉフクロの思い出といえばこんな話がある。逝くなる一カ月程前だったが、国立山梨病院に入院していた。ベッドに伏しながら背の後ろの痛みを訴えるんだ。背の下に手をあてると痛みがやわらぐというので、わたしの手をあてがったんだが、長くやっていると手がしびれてくるし、その頃の病院は曖房なんてないから、十一月の下旬といえばジンジンと冷えこむんだ。おフクロが寝息をたてているかに思えたし、ベッドの横を見ると、消毒用のエチルアルコールがあったから、そっと手を引いてアルコー小を水で割ってグッと一息飲んだらおフクロが「あてがった手はどうした。信、手ぬきはいかん」としかられたんだ。さっきも言ったように、クリスチャンだったから、山梨英和女学院のグリーンバーグ先生が、おフクロが息を引きとった時に病院の枕もとで讃美歌を歌って送ってくれたことが、強い印象として残っている。
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家族 我が生い立ちの序章 金丸信氏 自伝(昭和58年刊)
そんな出来の悪い息子だったが、オヤジもおふくろも、暖かく見守ってくれた。わたしが、初めての男だったこともあった。祖父も、オヤジも、婿で、わたしが生まれて、あととりが出来たからだろうね。姉が二人、その後、弟も出来て兄弟は九人だった。オヤジは九十三歳まで長生きしたが、入り婿だから、あまり肩身が広くはなかったようだ。それでも、おフクロの目を盗んでは、よく遊んだようだ。なにしろ、息子のわたしを芸者屋に連れていったこともある。この親にして、この子ありというところかな。
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