白州町情報最前線 サブやんのなんでもジャーナル

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暗記が得意 我が生い立ちの序章 金丸信氏 自伝(昭和58年刊)
あんまり学校では勉強はしなかったが、そこそこの点数はとれた。暗記が、なぜか得意だった。暗記といっても、なまじの暗記じゃないよ。地理、歴史から動物、植物、当時は、博物と呼んでいたが、そういうものに関しては、記憶力は抜群だった。修身だって暗記した。修身を暗記するというのはいかにもおかしいが、内田校長が修身の先生だ。教科書に書いてある通りに答案を書けば百点満点をくれる。わたしは、一字一句、全部暗記した。修身は、だから、いつも百点だったね。地理にしても、歴史にしても、そんな具合いで、存外、成績がいい。だが、どうにもうまくないのが数学と英語だ。数学も暗記した。なにしろ、幾何というのだろうか、三角というのかな。あのタンクエソトと
かコサインとかいう代物、あれはまったくわからない。苦手中の苦手だ。
 数学の暗記というのは、確率が低い。試験問題にヤマをかける。わたしは、なかなかカンがよくて、ヤマは当たるんだけど、数学ばかりは、教科書と同じ問題は出てこない。ある時、ヤマをかけたのが一題も出てこない。じわっと冷や汗がでた。三角の問題が四角に見えたり、野球のダイヤモンドのように回り出した。そのころは、野球部に入っていたせいだろうかな、回るばかりで、何も書けない。試験の担当が、小野軍操という先生だ。この小野先生が回ってきて、わたしが答案用紙に何も書いていないのを見つけ、「何か書け、何か書け」とせっつく。同級生は、答案を書いて、どんどん教室を出ていってしまう。あとに残ったのは五、六人しかいない。
 小野先生は、相変らず「何か書け」という。どうにもこうにも困り果てた。ついに意を決して「頭も丸い。目も丸い。まして心は、真ん丸だ。四角、三角、縁がない」と、いたずら書きをした。昔の人の本には、試験で答えがわからず、カンニングペーパーも回ってこない。切羽詰って「残念、援軍来たらず」と書いたら、先生が「吾、援軍とならん」と書いて合格点をくれた話をどこかで読んだ記憶があるが、この時は、そううまい具合いにいかなかった。
 試験後、わたしはオヤジと一緒に、枚長に呼び出しを受け、その場で一週間の停学処分を食っちまった。
 政治家になってからも、三角大福なんて書いてあるのをみると、ドキッとしたね。
スパルタ教育 我が生い立ちの序章 金丸信氏 自伝(昭和58年刊)
 オヤジもおふくろも、やかましいことは言わない。それで、小学校は卒業したが、甲府の旧制中学の入学試験には不合格になった。仕方なく、オヤジの友人で、内田与八先生という人が校長をしていた県立身延中学に、翌年になって預けられた。身延となると、わたしの生まれ育った白根町からは通えない。そこで寄宿舎に入れられ、結局、中学を卒業するまでの五年間、寄宿舎生活を送ることになった。男ばかりの寄宿舎住まいは、人間を知るには格好の場だったね。共同生活の難しさも知ったし、仲間と裸の付き合いだった。この頃の共同生活も、今日のわたしの性格や生き様に、いろいろと影響を与えているような気がするね。鉄拳制裁もあった。いまみたいに、先生が、生徒の暴力に脅えているような時代じゃあない。「子供が先生に殴られた」といって、親が裁判所や教育委員会に訴えるようなこともない。先生が、悪いことをした生徒に体罰を与えるのは当然だと思われていた。
 わたしも殴られた。いたずら盛りの頃だから、たまったもんじゃない。しかも、寄宿舎に住んでいて、先輩や同僚に、いろいろと知恵をつけられ、良いことばかりじゃなく、悪いことも覚えた頃だ。しかし、わたしは、自分が悪いことをして、先生に殴られ、制裁を受けるのは仕方がない。うらみもしなかった。わたしの親だって、そんなことを聞く山観ではない。だから、いまでいえば、非常なスパルタ教育を受けたような気がする。ときどき、「がんこな男だ」と思われるのは、この時の厳しい教育を受けたことが大きいのじゃあないかな。
 
私の先祖は土屋惣蔵 我が生い立ちの序章 金丸信氏 自伝(昭和58年刊)
 わたしの先祖は、武田勝頼の臣下で、天目山片手斬りで知られている土屋惣蔵守という人なんだ。勝頼は、織田、徳川の連合軍と長篠で合戦して壊滅した。武田軍団の誇った騎馬戦法と、鉄砲による新しい戦法との交代を告げた戦いだった。敗れた勝頼は、その後も敗戦を重ねて、ついに、数少ない臣下に守られて最後の戦いを挑もうと天目山に急いだ。しかし、織田方の大軍に襲われ、わたしの先祖の土屋惣蔵守は、勝頼を逃がすために、片側は崖、片側は谷に面した一筋道で、片手で藤蔓につかまり、片手で敵を斬っては日川に蹴落とした。そのため、日川の流れは三日の間、血で真っ赤に染まり、いまなお三日血川と呼ばれているよ。
 いまは大和村というその天目山の山道に、記念碑が建っていた。ぉととしの風水害で、その記念碑が壊れてしまったので、村や観光協会に頼まれて、わたしが「土屋惣蔵守の片手斬りの跡」と書いて、碑をつくり直したんだ。そういう勇将が先祖だというから、武田軍略の影響を受けたのかも知れないが、それをいちいち意識して政治をやっているわけじゃあない。とくに、子供の頃は、武田軍略なんか考えたこともない。喧嘩をし、年上の子供たちを引き連れて、山野を駈け回っているうちに、人に信頼されることが大事なことや、人を信頼することの大切さを身をもって覚えていったんだな。もっとも、そんなことをやって、毎日、遊び回っていたから、足腰は強くなったが、勉強の方は、とんとお留守になった。
我が生い立ちの序章 金丸信氏 自伝(昭和58年刊)
「さあ、かかってこい」尋常小学校二年生だというのに、相手は、いやに大きく見えた。雪が降り積もっている運動場の隅に、その時、わたしは追いつめられていた。なにが原因で喧嘩になったのか、いまとなっては覚えていないが、わたしに、殴りかかってきたのは、クラスでも、一番の暴れん坊だった。
 わたしは、逃げ回った。体はそれほど小さかったわけじゃない。しかし、小学校の頃、わたしは、とっても消極的な性格だった。とても、クラス一の暴れん坊を相手に戦う度胸はない。逃げ回れば逃げ回るだけ、相手は追ってくる。仲間も、相手が暴れん坊だけに、遠巻きにして見ているだけだ。ついに、教室から追われ、裸足のまま、雪の校庭に逃げ出した。それでも、暴れん坊は追ってくる。たちまち、追いつめられた。相手の腕が、わたしの胸ぐらをつかまえた。わたしの気持ちが変ったのは、その瞬間だった。
どうして変ったのか。窮鼠猫をかむ、ということだったのだろうか。不思議に、その暴れん坊が、こわくもなんともなかった。「ここまでくれば、戦ってやろうじゃないか」わたしは、覚悟を決めた。腕をぐいとつかみ返すと、今度ほ、相手の顔に、たじろぎの表情がちらっと浮かんだ。しかし、それもー瞬のこと。相手は、力を込めて殴りかかってきた。痛いというよりも、体がかっと熱くなった。
 この野郎、わたしの拳骨も、相手の顔面に当たった。あとは、もう夢中だ。雪の中で、上になったり下になったり、くんずほぐれつというのかな。物語風にいうなら、ここで勝負がつかないほど殴り合って、お互いに、相手の実力を認め合って仲良くするといったストーリーになるんだろうが、わたしの場合は、この暴れん坊をのばしちゃった。気は弱かったけれども、運動神経は抜群だったし、どちらも同じ小学生だ。そんなに力の差があるわけじゃない。勝ったことで、わたしほ、自分に自信をもった。クラスのわたしを見る目も変わったね。それ以来、消極的な性格は、一体どこに行ったのかと家人が不思議がるほど、腕白小僧、つまりは悪童になったんだ。
 スイカ畑やトウモロコシの畑は、わたしの縄張りになった。そっと忍んでいって、トウモロコシをむしって食べたし、スイカなんて、いくつ食っちまったかわからない。いまの時代ではうるさいんだろうが、当時は、おおらかだったね。子供のやることだからといって、大目に見てくれたんだね。
 わたしの遊び相手というか、喧嘩相手は、もっぱら年の上の連中だった。腕白だったが、弱い者いじめはしたことはない。釜無川に魚とりに行くのも、日課のようなものだった。ハヤ、アマゴ、アユ、スナモグリなんかがたくさんいた。仲間は、それぞれ釣りざおをつくって、釣り上げたり、綱ですくったりする。わたしは、そういう方法がまだるっこくて仕方がない。とても見ていられない。石を川に並べて積み上げ、その上にズックを張って川の流れをせき止めて、別の方向に流して水を貯める。そして、水の切れる川下に築をかけると、つぎつぎと魚が落ちてくる。一網打尽だったね。
 その頃のわたしを知っている人が、いまのわたしをみると、「あの信ちゃんがね」と信じられないといった顔をするが、腕白には違いなかったが、どこか違っていたんじゃないかねえ。
 
初当選を飾るまで 金丸信自伝より
イメージ 1
 目をつむると、子供のころの情景が浮かんでくる。
 白い花をつけた蕎麦(そば)畑。そりゃあ、きれいなもんだね。富士山をバックにしてね。足元には、富士川の上流になる釜無川が流れている。帯麦畑だけではなかったな。
 粟(あわ)、稗(ひえ)畑に、桑畑、煙草の畑もあった。それに、スイカ畑だってあった。どれもこれも、腕白坊主にとっては、格好の遊び場だった。スイカ畑にもぐり込んで、仲間とスイカを食う。うまいんだ、これが。トウモロコシ畑にも行った。腹がへっているから食べるというよりも、スリルというか、肝だめしというか、男の付き合いといったところもあった。
 しかし、考えてみれば、蕎麦だの乗、稗しかとれないということは、貧しい県だったということなんだ。実際、わたしが子供の頃は、山梨県は貧しかった。なにしろ県の総面積の八割近くが山なんだからな。山に囲まれている。海はない。甲府盆地の周りは、二千メートルから三千メートル級の山だ。
 地図をみると、東京都、神奈川県、静岡県、長野県の一都三県に隣接している。だけれども、どこへ行くにも、険しい山越えをしていかなければならない。いまは、舗装された自動車道路が通っているので、それほど不便には感じないが、雪でも降って道路が途絶すると、昔の人の苦労がわかるね。山梨県は、昔から「僻遠の地」だった。
 山梨県には、煮且(にがい)という食べ物がある。アワビを醤油で煮たもんなんだが、これだって生のアワビを運んでは腐らし、ある時、たまたま醤油と一緒に運んだところ醤油づけになって、日持ちがした。それじゃあ、煮て運んだらどうか。「僻遠の地」が生んだ生活の知恵なんだ。食べてみると、生とは一味違った、なかなかうまいものだが、まあ、ちょっと悲しい味がするね。
 昔から、山梨県、古い時代だから「甲斐の国」というんだが、こういう歌がある。
  甲斐人の嫁にはならじ事草し 甲斐の御坂を夜や越ゆらむ
 なんとなく、「甲斐の国」の置かれた位置がわかるだろう。日本一の霊峰、富士山を自慢していても、貧しさばかりはどうにもならない。歴史をみても、「甲斐の国」が脚光を浴びたのは、戦国時代、武田信玄公という稀有な武将が登場した時だけなんだ。信玄公が没すると、「甲斐の国」は歴史のひだの中に、没してしまう。落日の一途をたどるんだ。 だから、いまでも山梨県では、武田信玄と呼び捨てにはしない。「信玄公」と敬称をつけて呼ぶんだ。江戸時代になると、「甲斐の国」は、天領と御三家の三脚領になっていて、それぞれ代官所を置いていた。分割統治だな。だから、甲州人には殿様がいない。殿様がいないということは、権力の後楯がないということだ。だから、甲州商人という腕一本でのし上がっていく商人が多く出た。
 甲州商人というと、近江商人なんかと並んで、いかにも抜け目ないやり手ということになっている。その虚実はおいても、生き馬の目を抜く江戸で、後楯もなく一旗あげるんだから、努力と工夫は並のものではない。
 男一匹、のし上がっていった人材は、私の周りでもたくさんいる。朝日新聞の夕刊に連載されている「新人国記」を読むと、こうした、たくましい甲州人の血がいまも息づいていることを感じるね。
 しかし、忘れてはならないことがある。権力の後楯がないから、頼れるのは自らの力だけと、他人を踏み台にした人は、決して成功はしていない。商人にとっては、信用が何よりも大切だ。時には、命をはっても、自分の信用を守ってきたから、男一匹、名を上げることができたんだ。
 その甲州人にとって、心の支えになったのが、あの、「人は石垣、人は城」なんだよ。自分の命よりも、人と人とのつながりが大事なんだ。武田信玄公も言っていると、歯を食いしばって生きてきたんだな。
 あの「人は石垣、人は城」という、武田節に歌われている文句は、本当はちょっと違うんだ。この歌は、信玄公の五十七ケ条の法度や武田軍団、田中軍団じゃないよ。武田軍団の戦記などを記した「甲陽軍鑑」という有名な軍略書の中に残っている。
  人は城 人は石垣 人は掘 情けは味方 あだは敵なり
 信玄公の自作の歌だといわれている。信玄という人物は、生涯、甲州四郡のうちに、城郭を構えなかったというんだな。いつも、他国で戦争をしていたから城が必要ではなかったという説もあるが、躑躅ケ崎(つつじがさき)の
館さえ、掘を一重、めぐらしただけだった。人こそ、城であり、石垣であり、掘なんだという信念があったんだろうね。戦国大名というのは、強くなくちゃならん。すぐれた武将でなければ、城がなければ、あっというまに、皆殺しにされてしまう。しかし、それだけじゃつとまらない。すぐれた武将であると同時に、すぐれた政治家でなくちゃ、国を治めていくことが出来ない。そういう中で、信玄公は超一流。恐らく、その当時、織田信長よりも徳川家康よりも誰よりも強かったんじゃないかい。
 そのうち、甲州法度の制定、家臣団の統卒、農民対策、商工業政策、税制や度量衡別の統一など、政治家としても大変な手腕をみせたんだな。その信玄公が、人は城、人は石垣、人は掘というから、みんなが納得するんじゃない。
 わたしが、政治家として、人と人とのつながりを最も大切にするのは、つきつめると、信玄公の、この精神によるところが大きいじゃないか、と思うね。
 山梨県を歩いてみるとわかるが、川が多い。昔は、しよつちゅう、水害にあった。その中で、釜無川に「信玄堤」というところがある。信玄公が、釜無川の氾濫を防ぐために、大規模な築堤工事をした。堅固な堤防を築いただけでなく、領民を移して、諸役免除の特権を与えて、埋防の保全と防水の任にあたらせた。アフターケアをやらせたんだな。堤防だって、普通の一直線の擬防じゃない。雁行状に重複した、いわゆる霞堤というものだ。急に、大出水しても、堤防が決壊しない。治水技術としては、当時では最も進んでいた。いまでも参考になるよ。四百年も前のことがね。
 わたしが、初めて衆議院に立候補した時に、釜無川右岸の土地改良の実現を公約した。わたしの地元の要望も強かったし、子供の頃から、ここを開拓すれば、どんなにいいだろうと思っていたから、当然の公約だったが、やっぱり、釜無川を治めるものは、という信玄公じゃないが、気負ったものも、少しはあったと思うよ。何しろ、当時は、若いんだから。
 この「甲陽軍鑑」というのは、なかなか味のある軍略をいくつも残しているよ。たとえば、「甲陽軍鑑」には、「信玄公御一代敵合の作法三ケ条」というのがある。合戦にあたっての武将の心がけを述べたものだが、「信玄公おおせられるは、弓矢の儀、勝負の事、十分空ハ分七分のかば十分の勝なり。中にも大合戦は、ことさら右の通りが肝要なり、子細は、八分の勝は危うし、九分十分の勝は、味方大負の下地なり」とある。
 ま、いまの言葉に直せば、十のものならば六分か七分、敵を破れば、それで十分な勝利だといぅことだな。大合戦になればなるほど、そう考えなくちゃいかん。九分、十分の勝利は、味方が大敗を喫する原因となるということだな。
 とにかく殺し合いに明け暮れた、戦国の世の実戦的な知恵なんだと思う。
わたしも、政治家として、全部が全部、自民党の意見を通すのは愚の骨頂だと思っている。いくら絶対多数を担っているからといって、全部、自民党の思い通りになるなら、国民が野党に投じた票は何の意味がある。それじゃあ、独裁政治じゃないか。野党の意見をきいて、直すべきところは直すというのが政治じゃないか。わたしは建設委員長に就任した時、それまで何国会も積み残しになっていた法案を十五件全部、成立させたことがある。とにかく「理事懇を開いて、みんなの意見をきこうじゃないか」といって、片っ端から野党の意見をきいた。もっともだと思う意見もある。言うだけ言わせておいて、「さあ、この法案は自民党と社会党の中間をとってこうしよう」ってね、どんどん修正させた。
野党の意見を聞くなんて、という批判もあったが、政府が提案した法案がずるずる成立もしない、政府や党がやりたい政策が出来ない、それとどっちがいい。多少のことは呑んでも、法案を成立させることが先決だよ。
 そんな風だから、わたしは、時代も違うし、思想も違うが、合戦の要諦として、「六、七分の勝ち」というのはわかる。国対委員長なんかは、まさに与野党合戦の前線指挿官だからなあ。だから、わたしが政治家としてここまできたのは、大事にした人達の暖かい思いやりもある。が、わたしが子供の頃から慣れ親しんできた風土から学んだことが大きかった。自然を嫌ったりはしなかった。素っ裸で、自然の中に溶け込み、厳しい風土に鍛えられたこと
が、この政治の赤じゅうたんの上で、わたしの針路をちゃんと示してくれているね。

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