白州町情報最前線 サブやんのなんでもジャーナル

山梨県・北杜市・白州町のありのままの姿をジャンルを問わず綴っていきます

過去の投稿日別表示

[ リスト | 詳細 ]

全6ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6]

[ 前のページ | 次のページ ]

山梨県の歴史講座 鎌倉期の武田氏
資料『山梨郷土史研究入門』山梨郷土研究会 山梨日日新聞社 平成4年(一部加筆)
 
 治承・寿永の内乱とそれに続く初期の鎌倉幕府内の政争の過程で、鎌倉御家人としての武田氏の礎を築いた武田信光以降、南北朝内乱の過程で守護大名としての武田氏の礎を築いた武田信武に至る、鎌倉期の武田氏についての研究は、いわば武田氏研究における空白部分ともいえる。この期の武田氏研究の困難さは関係史料の絶対的な稀少性にあることは言うまでもないが、従来の諸研究が『吾妻鏡』や『甲斐国志』のみを利用してきたことは問題であり、また山梨県関係の史料に終始していたことも問題である。実際、広く鎌倉期の諸史料にあたってみると従来の諸研究では触れられていない人物の存在が確認されるのである。
また、信光から信武に至る世系を、暗黙のうちに武田氏の嫡流=甲斐武田氏の嫡流とみなしていた点も問題である。これは武田信玄に連なる世系が即武田氏の嫡流であり、同時に甲斐武田氏の嫡流であるという、いわば二重の信玄中心史観の表れといえる。
 鎌倉期の武田氏について述べているもののうち、以上の点からみて最も。通説〃的であるのは広瀬広一『武田信玄伝』(昭19、同43再)であるといえ、以後における研究はこの広瀬氏の成果をどの程度超えられるかという点てあるといえよう。
 その点において、まず挙げなければならないのは佐藤進一『鎌倉幕府守護制度の研究』(昭23、同46増訂版)である。佐藤氏はここにおいて、甲斐守護として武田石和政義を、安芸守護として武田信光・信時の二人を検出された。特に政義については、現在に至っても甲斐守護として確認しうる唯一の人物であり、また彼が信光から信武に至る世系に属さない信時の弟政綱に始まる武田石和氏の人物であることは重要であった。
次に河村昭一氏は『郷土資料安芸武田氏』(昭五九)において、安芸守護の武田氏についてさらに詳細な検討を加えられ、政義の甲斐守護在任と同時期に再び武田氏が安芸守護に在任していたことを明らかにされた。これらの守護研究によって、武田氏は甲斐・安芸両国の守護であったこと、そのうち甲斐守護としては武田石和氏の政義が、安芸守護としては信光から信武に至る世系が確認された。
 また、湯山学「『他阿上人法語』に見える武士(一)」(『時衆研究』六三号、昭50)において、鎌倉後期に武田石和総家(宗信)が伊豆守を受領し、北条得宗家の被官であったことが明らかにされ、その存在に注目された。これらを承けて黒田基樹「鎌倉期の武田氏」(『地方史研究』211号、昭63)は、甲斐・安芸守護、伊豆守の受領名の継承に着目し、鎌倉中期の信時の安芸下向以降、信時とその子孫は同国に在住して安芸守護職を相承する存在とみなし、これを、「安芸武田氏」と呼び、信時の弟政綱の家系(武田石和氏)は北条得宗家の被官として甲斐守護職に補任されこれを相承する存在とみなし、これを「甲斐武田氏」と呼び、両者の関係を惣領制規制から脱した同等のものとみなし、甲斐・安芸両武田氏の存在という設定を試み、また、伊豆守の受領者が武田氏の惣領を示すという推測をした。
 以上は、守護在任者を出した、信時から総武に至る世系と武田石和氏という二つの家系についてのものだが、この他『吾妻鏡』以外の史料によっても、甲斐甘利荘地頭信賢(武田岩崎信隆息)、安芸佐東郡地順奉継(同息)、和泉坂本郷地頭義奉(信時弟信奉孫)、等を始めとして多くの武田氏の一族が確認され、とりわけ武田一条氏と武田岩崎氏が注目され、今後はこれらをどう位置付けるかが課題となっているように思われる。
 また、室町期以降の守護大名武田氏の祖である信武の動向も重要で、これについては佐藤・河村両氏によって、信武は南北朝内乱の過程で武田石和氏と対立・抗争し、その結果甲斐守護に補任されていることが明らかにされ、黒田はさらに、信武は安芸武田氏の出身であり、そのことから信武の後安芸守護を継承した氏信を実名と伊豆守の受領名とから信武の嫡子であり、甲斐守護を継承した信或は庶子であること、すなわち信武の嫡流は氏信の系統(安芸、のち若狭武田氏)であることを指摘した。信武にはこの他に信明・公信・義武の諸子であったが、それぞれ甲斐守護代、幕府奉公衆、鎌倉府近習衆として確認され、そのこと自体、守護大名武田氏の成立を考える上で興味深いが、南北朝期には鎌倉期以上に多くの武田氏の一族が確認され、これらの位置付けによって、逆に鎌倉期の武田氏を照射することが可能といえる。鎌倉期及び南北朝期の武田氏についての研究は緒に就いたばかりといえよう。〔黒田基樹氏著〕
 

山梨県の森林史

山梨県の森林史
明治2年  官林規則が制定される。
明治14年 県内の入会山すべて官有地となる。
明治22年 県内の官林、官有林野すべてが御料地に編入される。
明治30年 森林法が制定される。
明治40年 峡東地方を中心に大水害に襲われる。
明治44年 入会御料地約164000㌶が県有財産として御下賜になる。
明治45年 滋賀児人塚本定右衛門が治水費として1万円を山梨県に寄付。
大正5年  道志村の恩賜林約2800㌶を横浜市へ水源林として売却。
大正8   農商務省が樹苗養成奨励規則を定める。
大正11年 恩賜林謝恩碑を除幕。
昭和6年  農山村救済を兼ね県債発行による林道開設計画が立てられる
昭和13年 県山林課出張所を林務署と改称、5林務署36分担区とする。
昭和14年 林業種苗法が公布される。
昭和15年 木炭需給が国家管理となる。
                上九一色村内の恩賜林約860㌶を陸軍演習地として譲渡する。
昭和16年 木材統制が施行、恩賜林主産物処分が統制される。
昭和19年 清里村の恩賜林約15㌶を八ケ岳県営開墾地として開放する。
昭和21年 甲府市の水源林確保のため、大昭和製紙社有林と県有林を交換、市
                に売却する。
昭和25年 県緑化推進委員全が発足する。
                第1回全国植樹祭が甲府市で行われ、昭和天皇と皇太后さまが植樹
                される。
昭和26年 新森林法が制定され、県内にも30の森林区を設置、林業経営指導
                員を配置する。
昭和27年 野呂川流域森林資源開発が始まる。
昭和28年 釜無川上流地区で国営治山事業が始まる。
                13号台風で早川林道が大打撃を受ける。
昭和30年 八ケ岳一帯が県立自然公園第1号に指定される。
                野呂川林道・夜叉神トンネルが完成する。
昭和32年 県内全事業区に臨時植伐計画を立てる。
昭和35年 山を守る全創立される。
                第2回国立公園大会が河口湖で開かれる。
昭和36年 恩賜林御下賜50周年式典が行われる。
昭和37年 野呂川林道が完成する。
昭和39年 林業基本法が制定される。
                木材・木製品の輸入が完全自由化となる。
昭和41年 26号台風で足和田村などが大被害を受ける。
昭和42年 南アルプス林道の開設工事に着手する。
昭和43年 櫛形町内に県民の森を指定する。
                山を守る会が緑化推進会と合併、新たに県緑化推進委員会を設立。
昭和44年 30市町村に緑化推進委員全ができる。
昭和45年 県林業試験暢が甲府市に完成する。
昭和49年 県環境緑化条例が定められる。
昭和51年 全県を一斉編成した第1次県有林野経営計画が立てられる。
昭和52年 北富士県有地管理規則を制定、国有地24㌶を林業整備事業用地
                として取得する。
昭和53年 竜王町に県が緑化見本園を開設する。
                森林組合法が制定される。
昭和54年 甲府市山宮町に健康の森が完成する。
昭和55年 南アルプス林道が開通する。
昭和56年 第2次県有林経営計画が立てられる。
昭和58年 全国野鳥保護のつどいが八ケ岳山ろくで開かれる。
平成2年  やまなし森林・林業活性化ビジョンを県が策定する。
                第14回全国育樹祭が鳴沢村で開かれる。
             
              (県恩賜林御下賜70周年記念誌から抜粋)
山梨県の安易な森林環境税の導入は山地や森林を荒廃させる。
 
私は驚きを隠せなかった。現状をまったく認識していない会議の内容は、余り表に出ない山梨県の林業行政をまったく理解していない、行政サイドの審議内容となっている。特に何も知らない、知らされていない県民の意識調査を前提に大半が賛成であるとの認識は、開かれた林政の幕開けとはいかなかった。
山梨県の林政は現在根本的な改革が必要であり、事業消化のために多くの山地や森林が大きな犠牲となっている。とくに出荷出材が芳しくない中での事業間伐や事業皆伐採植栽事業の痕跡は山梨県全域に広がっている。すべてが駄目とは言わないが、昨今のような重機作業中心事業地は自然破壊や二酸化炭素放出を進め、今後風水害の被害拡大の大きな要因となっている。とくに地域の重荷森林の恩賜林や管理する財産区では格好の行政事業地となり、現在でも大量の間伐や皆伐採事業地となって、その痕跡からは将来の山梨県山地保全上からも大きな憂い産む結果となっている。
こうした県民からの資金調達には多くの視野と資料が求められ、現在の審議会のような資料や審議では今後の運営にも大きな障害となる。
県民のための森林つくりに必要であるなら、本来ならこれまでの事業の負の部分や改修是正事業箇所の提示も求められる。富士山・甲府市・都留市・北杜市に限らず、どこでも乱雑な事業地や放置林を見ることができる。大量の雨後に山地に入れば流れ出した間伐徐伐放置材が流れだしている。また目的を逸した林道や索道の建設は新たな山地崩壊や植林地荒廃の要因ともなり、粗大ゴミの放棄が増加することも懸念される。企業の森とか○○の森とかは補助金あるときのみで放置された森林は獣害の増殖地ともなっている。昇仙峡を始め観光地に無数に積み込まれている薬害処理放置赤松や被覆ビニールなどは散乱して腐食して薬剤の地下浸透なども将来の憂いとなる。
森林環境税の導入は、使い方によってはさらに山梨県森林の荒廃を進めることになり、県民の更なる監視や管理参加が条件となるのではないか。植林した木材は適切な処置と処理をしないと唐松のように自然倒壊を始める。山梨県の奥地には唐松が多く植林され現在も続行中であるが、これは将来大きな危惧材料となる。唐松は直根がなく湿地帯には弱い、ある場所では数千本の唐松が斜面崩壊とともに滑落倒壊を繰り返している。安易な森林環境税導入は良策ではなく、安易な愚策とも考えられる。
 
山梨県森林環境税導入へ提言 懇話会意見集約 県民一人あたり500円〜1000
----2009(平成21)113目火曜日山梨日日新聞記事----
 
 山梨県が森林整備費の確保に向け導入を検討している「森林環境税」(仮称)について、現境と森づくりを考える税制懇話会(座長・日高昭夫山梨学院大大学院教授)2日、「荒廃した森林の再生、保全に県民一人当たり年間5001000円程度の・負担を求める、新税制度の創設が必要」と意見集約した。法人についても均等割額510%の税負担を課すことが妥当とし、今月中に報告書を横内正明知事に提出する。
 ただ景気低迷で県民の所得が低迷し、導入には慎重論も根強いため、横内知事が新税創設に踏み切るか判断が焦点になる。
 森林環境税導入に対する考えを聞くため、県が本年度設置した同懇話会は大学教授らの専門家で構成。新設の方針は4回目の懇話会で意見集約に至った。
 報告書には、課税方式を県民税の均等割に一定額を上乗せする超過課税方式とすることや、.課税期間を時限的に5年間とし、収税状況や森林整備事業の進ちょく状況を検証する体制づくりを盛り込むこととした。
 課税額や負担税率については報告書への記載は見送るが、既に導入している他県の事例などを基に「個人が500〜千円、法人均等割額5〜10%が妥当」とした。
 年間約28千万555千万円の収入が見込まれる。県は新税創設に伴う主な使途として
①長期に放置され荒廃した人工林の再生
②公共施設などでの県産材の利用促進
③地域住民やボランティアの森林保全活動への支援など、
 新たな森林保全事業に限定することを想定している。
 県などによると、県全体の人工林68千ヘクタールのうち、2万Ⅰ千ヘクタールは後継者不足や木材需要量の落ち込みなどで荒廃が進み、整備が必要な状態。
 現在の予算では事業に限界があるという。想定している500〜千円の個人負担と、法人負担の均.等割510%で試算すると、
これらの整備には1030年の期間が必要という。このため同日の懇話会では「森林整備には引き続き、国の補助金を合わせて活用することが必要になる」との意見も出た。
 森林環境税の導入をめぐっては、同懇話会が実施した県民意向調査で、86%の県民が創設に賛成の考えを示している。一方で「反対」と答えたのは121%で、「景気が悪く、新たな負担を求める時期ではない」と否定的な意見も根強かつた。
 また経済界からも導入に慎重な声が上がっていて、甲府商工会議所の渡辺恭史専務理事は取材に対し、「経済状況が厳しい中で“多少であっても税率が上がることに抵抗を感じる企業はある」とし、民間事業所への理念周知を徹底することを求めている。
 
「縁故節」の成立について「縁故節」手塚洋一氏著 『甲斐の民謡』 ふるさと文庫所収
島原の子守唄は「縁故節」の模作
 
        縁で添うとも 縁で添うとも
        柳沢いやだヨ
        (アリャセーコリャセー)
        女が木をきる 女が木をきる
        茅を刈る ションガイナー
        (アリャセーコリャセー)
        河鹿ほろほろ 釜無下りゃヨ
        鐘が鳴ります 七里ケ岩
        縁の切れ目に このぼこできた
        この子いなぼこ 縁つなぎ
        縁がありゃ添う なかれば添わぬ
        みんな出雲の 神まかせ
        駒の深山で 炭焼く主は
        今朝も無事だと 白煙
        来たら寄っとくれんけ あばら家だけんど
        ぬるいお茶でも 熱くする
 
 註    柳沢……武川村柳沢。もとは駒城村(現白州町ヽ釜無川の支流大武
        川の右岸で、鳳風山麓の山村。柳沢吉保の先祖の出身地。
        七里岩……八ケ岳の泥流が金無川の浸食をうけてできた断崖。長野
        県境から韮崎まで約二七キロに及ぶ景勝の地。
 
 
        ぼこ……甲州方言。赤ん坊・子供。
        いなぼこ……変な子。妙な子。
        駒の深山……甲斐駒ケ岳
 
 「縁故節」は「馬八節」「粘土節」とともに甲州の代表的な民謡の一つで、踊り唄あるいは座興唄である。
この唄は大正の末韮崎町(現韮崎市)で誕生した。大正十一二年韮崎の有志にって、町を、鳳岱山とそれに続く南アルプス連峰の登山基地として観光開発しようという目的をもって、白鳳会が結成された。
 初代会長は歯科医師の小屋忠子(後に県会議長)で、郵便局長の柳本経武、穂坂村の平賀文男(号月兎、後に県会議長)等が協力者であった。「縁故節「はこの白鳳会の宣伝のために、前記三名の方々と土地の芸妓たちによって、従来から峡北地方で歌われていた作業唄「エグエグ節」を編曲してつくられたものである。編曲の過程で、三味線等の伴奏をつける関係もあって、曲は陽旋律から陰旋律に変化した。この間の事情は、この計画に参加した山梨県三曲連盟会長の植松和一氏が、同人雑誌『中央線』第八号に「縁故節四方山話」として詳細に述べておられる。
 このようにして出来た「縁故節」は、寿座という町内の芝居小屋で盛大な発表会が行われ、昭和三年九月六日には東京中央放送局(現NHK)から、放送事業間姶三周年記念番組民謡の部に、山梨県代表民謡として「縁故節」が選ばれ、地元韮崎町の人々によって全国放送された。その時の出演者は、三味線芸妓勝利・尺八秋山計吉・唄芸妓照葉と植松輝吉・踊り水上修一の各氏であった。ラジオ放送に踊りがついていたのぱ、放送に臨場感をもたせるためであったと思われる。
 続いて、昭和十年十一月一十日には再び東京中央放送局から放送され、昭和十二年の暮れには甲府放送局開局記念に「縁故節」が全国放送された。この内昭和十年放送の出演者のうち植松逸聖(和一)・名取いく・佐野儀雄の三氏は現在も御存命で元気に活躍しておられる。
 このようにして「縁故節」は山梨を代表する民謡として全国に放送され、地元韮崎はもちろん峡北地方一帯では盆踊り唄として「エ−ヨー節」にとって替り、韮崎や甲府等の花柳界ではお座敷敷唄としてさかんに歌われた。
 
一番の歌詞「縁で添そうとも柳沢いやだよ」は、「エグエグ節」からの転用であるが、この歌の看板である。古歌
  「甲斐人の嫁にはならし事辛し 甲斐の御坂を夜や越ゆらむ」
 
 と発想が同じに見えて、その意味するところは全く違う。
  「甲斐人の嫁にはならじ云云」
 は、東海道を旅する他国の人が、篭坂や御坂の峠越しに甲斐を想像して詠んだもので、異国人の冷たさが感じられる。
 しかし、「縁で添うとも……」は野山での苦しい仕事を思いながらも、なおかつ、ふるさとを愛するほのぼのとした温かさが感じられないだろうか。
「縁故節」ができるときこの部分を削除したらという意見があって、そのことを柳沢の人々に相談したところ、是非そのまま残してほしいとの意見であったというエピソードがある。
 歌詞の「シヨンガイナ」は「ションガイネ」とうたうこともある。意味については諸説があるが、「致し方ない、あるいは、仕様がない」と解すべきである そう解することによって前述の愛郷の心が生きてくる。
いまだ謎を秘める国府のありか(資料『郷土史事典』山梨県 手塚寿男氏著 1978)
 
「大化の改新」後、地方行政区画で甲斐は東海道の一国として、現在の山梨県とほぼ同じような範囲が定められ、国司が赴任して政務をとるようになった。平安時代の初期には、甲斐国の等級は上国となっているので、国司の役人も規定に従えば、守・介・豫・目各一名と史生三人であったことになる。
国司名が記録上にあらわれるのは、「続日本紀」に養老三年(七一九)はじめて按察使を置き、遠江守大伴宿弥山守が駿河・伊豆・甲斐三国を管するとあり、同書天平三年一二月二一日の条に
「天下に大赦し、甲斐守田辺広足に恩賞あり、また甲斐国は今年の庸、馬を出」た郡は調庸とも免除す」との記事がある。甲斐に介が置かれたのは貞観七年(八六五)のことであるが、奈良時代の末には坂上田村麻呂の父刈田麻呂が甲斐守となり、平安時代には「古今集」の歌人として有名な凡河内躬恒が甲斐国の少目となった記録がみられる。また中央政府の命によって国司が甲斐国支配をすすめた記録は多いが、国司の政庁である甲斐国府の位置については諸説があって一定しない。
平安時代中期成立の「和名抄」に「国府は八代郡に在り、行程は上二五日、下一三日」とあり、京都との日程に上下の差がついているのは、上のときは調・庸をたずさえるからである。「八代郡」は現在の東八代郡御坂町の国衙跡であると推定されているが、国庁の建物跡などは何ものこされていない。また東山梨郡春日居町国府の初期国府説がある。ここには寺本廃寺跡、守常明神、山梨岡や条里制跡などがあり、古くからひらけた地域と考えられる。
寺本廃寺跡には、建物の礎石と推測される巨石があり、国分寺か国分尼寺跡との見解を示す人もいる。また、付近の条里制赫の方位が、甲斐の他地方の方位が六度から一二度東偏しているのに対して、地割りが正東正南北の方位をとっていることは、甲斐国府があった有力な根拠とされている。
また、春日思町国府が初期の国府であったが、笛吹川の氾濫のため御坂町国衙に移転したのであるという説も有力になっている。また一宮町国分には国分寺跡があり、すぐ近くの東原に国分尼寺跡があることと、付近には条坊の跡を示す字名がのこっていることからも、国庁の跡と考えられるとして、春日居町国府〜一宮町国分〜御坂町国衙の三転説を唱える人もある。
 
甲斐路の駅は山中湖底に沈んだ?
律令時代には中央と地方とを緊密にむすびつげるため、都を中心に七道諸国へ官道が整備され、約一六キロごとうまや
に駅家を設ける駅制がしかれ、公用をおびた役人と五位以上の貴族の私的な旅行に利用された。資格の証として駅鈴や駅符をうけ、この施設の利用が許されていた。駅には駅長と駅子が、駅馬を飼育して常置されること定められ、京や大宰府など大路には二〇疋、東海道や東山道など中路の駅には一〇疋、その他小路には五疋の馬が用意されていた。
甲斐の駅路については、「延喜式」に「甲斐国駅馬、水市・河口・加吉各五疋」とみえている。したがって甲斐路は小路であり、主な駅路にあたる郡には伝馬を備えることになっていたが、甲斐には伝馬の備えはなかった。
東海道本路から駿河国横走駅(御殿場市)にいたり、ここから分れて西北にすすんで甲斐国境加古坂(籠坂峠)をこえて甲斐に入った。最初の駅の「水市」の位置については、加古坂の北麓で山中湖岸にあったがのちに山中湖の湖底に沈んだとの説があり、駅跡の発見に本格的な調査がすすめられたことがある。しかしこの説に対して、駅名は甲斐国府に近い側から記載されているので、水市駅は現在の御坂町黒駒付近(一官町市之蔵説もある)にあったとみるのが妥当だとする説がある。もし湖底調査が成功して、湖底に沈んでいた遣物でも発見されたらじつに興味深いことである。
延喜式に記された「加吉」は、おそらく加古の誤りであろうといわれている。つぎの「河口」は現在の河口湖町河口の湖岸にあって(鳴沢村ひばりが丘付近説もある)、駅馬飼育のための水草にめぐまれた所に位置していた。駅路は河口よりも北へすすんで甲斐の御坂(御坂峠)をこえ、国中地方へ入った。甲斐路がどこを通って国府へ達したか正確なことはわからないが、甲斐に入るには籠坂・御坂の二つのけわしい峠をこえなければならなかった。御坂の地名は、ここに神が住み、神のたたりによって旅人を苦しめたとする古代人の宗教観から出たといわれている。
 

全6ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6]

[ 前のページ | 次のページ ]


.

過去の記事一覧

白州町地域なんでもジャーナル
白州町地域なんでもジャーナル
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

Yahoo!からのお知らせ

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

数量限定!イオンおまとめ企画
「無料お試しクーポン」か
「値引きクーポン」が必ず当たる!
CMで話題のふるさと納税サイトさとふる
毎日お礼品ランキング更新中!
2019年のふるさと納税は≪12/31まで≫

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事