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都で珍重された「甲斐の黒駒」(資料『郷土史事典』山梨県 手塚寿男氏著 1978)
日本の大半を統一した大和国家は、四世紀後半には朝鮮半島へ遼出したといわれるが、馬を輪入して飼育するようになったのはこのころからである。戦闘に騎馬の機動力は欠かせないので、朝廷では諾国の国造から馬を貢上さ造るとともに、直営の官牧を設置した。甲斐国の穂坂・柏前・真衣野の三官牧が文献にあらわれてくるのは、延長三年(九二五)成立の「延喜式」であるが、それよりもはるか以前から、甲斐は良馬の産地であることが都へ知られていた。
「日本書紀」の雄略天皇二一一年九月の条には、有名な話がのっている。木工猪名部真根が罪をおかして天皇に処刑されようとしたときに、同僚の嘆きに思い直した天皇は、赦免の勅使を「甲斐の黒駒」にのせて刑場へ駆けつけさせ、真根の命を助けたというのであり、
ぬば玉の甲斐の黒駒鞍被せば 命死なまし甲斐の黒駒
の歌がそえられている。
また「扶桑略記」には、聖徳太子が諸国の貢馬のなかから甲斐国産の、体が黒くて脚の白い馬をえらび、これにのって富士山の上を飛んだという話が書いてあり、勝沼町等序力の万福寺にある馬蹄石はこのときの神馬の足跡だという伝説のもとになっている。
伝説の時代をすぎた奈良時代にたると、「続日本紀」によれば、天平三年一二月、甲斐守田史広足は、体が黒くたて髪と尾の白い神馬を聖武天皇に献上した。天皇は、めでたいしるしとして大いに喜び、不幸に悩む者の救済を命ずるとともに、その馬を捕えた者の位を三階あげ、馬を出した郡は調・庸とも免除することにした。この恩典をうけた郡はわからないが、御坂町に黒駒の地名があるところから、八代郡とみる説がある。延喜式に定める三官牧のうち、穂坂牧は茅ケ岳ふもとの韮崎市穂坂町、柏前牧は八ケ岳ふもとの高根町念場原方面、真衣野牧は駒ケ岳ふもとの武川村方面に比定する説が有力であるが、いずれも牧場に適した高原地帯である。官牧の長を牧監といい、国司と協力して毎年九月良馬をえらんで調教し、翌年八月一定数をひきいて都へ上った。これは駒牽とよばれる朝延の重要行事だったが、律令制の衰退とともにすたれた。
平安末期ころには、もとの官牧をふくめて院や貴族の私牧が甲斐に多かったが、やがて武士勢力の手に落ちていった。
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壬申の乱に活躍した「甲斐の勇者」(資料『郷土史事典』山梨県 手塚寿男氏著 1978)
「大化の改新」によって律令国家の基礎が定められたが、まもなく古代史最犬の内乱といわれる「壬申の乱」(六七二)がおこる。この乱は、改新政治を推進した天智天皇の死後、天智天皇の子大友皇子と、天智天皇の弟大海人皇
子が皇位継承をめぐる対立をおこし、大海人皇子は吉野に兵をあげ、近江犬津宮の大友皇子を擁する勢力と対立して畿内全体をまきこむ大乱となった。
乱は、いち早く東国の軍団を味方にした大海人皇子方の勝利となり、即位して天武天皇となったが、この乱のおりに、東国の軍団のなかに「甲斐の勇者」がいたことは注目される。
「日本書紀」天武天皇元年(六七二)の条に、「秋七月(中略)是の日、三輪君高市麻呂、置始連菟、上道に当り、箸陵に戦う。大いに近江の軍を敗り、勝に乗り兼て鯨が軍の後を断つ、鯨の軍悉く解走し、多くの士卒を殺す。鯨白馬に乗りて逃ぐ、馬深田に堕ち進み行くこと能わず、即ち、将軍吹負、甲斐の勇者に謂いて曰く『其の白馬に乗れる者は、盧井の鯨也。急に追いて射よ』と、是に於いて、甲斐の勇者馳せて射ることを得たり」という記事がある。ごの記事からだけでは、その身分などはわからないが、甲斐の有力者の一人が、大海人皇子の召に応じて国司の公権力を背景に部下をひきいて、はせ参じたものと想われる。
文中の「是の日」というのは、大和での皇子方の総師大伴吹負が飛鳥古京をおとLいれ、南大和を確保し、七月一日北進を開始した翌二日、紀阿閉麻呂、置始連菟らを将とする数万の応援軍が美濃の皇子方から大和にむかった。そのなかに甲斐の勇者もいた。四日大和で激戦が展開され、吹負の軍は破れて東に逃げたが、ここへ置始連菟らのひきいる援軍が到着し、吹負らは飛鳥へひき返すことができた。この七月四日が、吹負が近江方のために一時危うかったのを、挽回できた是の日である。
また甲斐の勇者が、深田に落ちて動きのとれなくなった敵将盧井鯨を吹負の命により討ち取ろうとしたが、鯨は危く逃げることができたという記事である。
大和朝廷の勢力の発展や、はるばる参戦した甲斐の豪族の実力と意気の高さを物語るものとして注目される記事である。壬申の乱後の急速次俸令国家建設にともなって、甲斐の地方豪族層による農民支配はよわまり、中央の支配が直接加えられるように変っていくのである。
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英雄伝説に深いゆかりの酒折宮(資料『郷土史事典』山梨県 手塚寿男氏著 1978)
三世紀から四世紀前半にかけての甲斐国については、酒折宮にまつわる「古事記」「日本書紀」の目本武尊(やまとたけるのみこと)の伝承がある。この物語は、大和朝廷の勢力が中央から地方へと拡大されていった過程のなかで、古代甲斐の姿をさぐる資料として貴重な示唆をあたえてくれる。故津田左右吉氏は、日本武尊(古事記には倭建命)の伝承は、地方勢力が大和朝廷の征服によってその配下に属するにいたった事実を、一人の英雄(実在の人物として
ではなく)の行為に仮託してつくられたものであろうといっている。
現存酒折宮は、甲府市酒折町にあるが、旧地はそれより数百メートル北の古天神の場所だと言い伝えられている。県下には日本武尊の遣跡とよばれるものは多く、二〇カ所におよぶという。酒折官については、記紀(古事記と目本書紀)には、景行天皇の皇子日木武尊が東征の帰路に立寄り、火たきの老人と歌の問答をかわしたという伝説があり、ここに宿泊された旧跡と伝えられて日本武尊を祀っている。尊は熊襲征伐から帰ると、休むいとまもたく東征の途につき、古事記には、蝦夷を平定して、足柄の坂にのぼり、なき妃弟橘比売命をしのんで「吾妻はや」といったのが、東の国の名のおこりであるという。
日本書紀には、
甲斐国に致りて酒折の宮に居します時に挙燭して進食す。是の夜歌を以て侍者に問いて日く、
新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる
諸々の侍者え答え言さず時に乗燭者有り(記には御火焼の老人とあり)、尊の歌の末に続けて日さく、
日日並べて夜には九夜日には十日を
とうたいき、即ち乗燭人の聡(さとり)を誉めたまいて敦く賞す(記には「是を以ちて其の老人を誉めて、即ち東の国造を給いき」とある)。このように歌の間答をされたことから、後世、連歌の発祥地として有名な地となった。昭和の初期、甲府の酒折を否定して若彦路をめぐる花鳥山の一本杉、長井の天神杜などが正しいとする論議もあった。
古事記や日本書紀の記述の真偽や両書の相違は別として、記紀に記録されている尊の東征や「宋書倭国伝」のなかの倭王武の上表文中にある「東は毛人を征すること五十五国」等の記事の考察から、甲斐国もこの時期に、上表文のなかの五十五国の一国として、大和朝廷に服属するにいたったものと考えられる。酒折宮境内には山県大弐の「酒折詞碑」と本居宣長選文・平田篤胤書の「酒折宮寿詞」の石碑がある。
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甲府盆地を見おろす巨大な前方後円墳の主人公は誰?
(資料『郷土史事典』山梨県 手塚寿男氏著 1978)
古墳時代
日本が統一国家形成にむかった三世紀末ころから、権力者たちは自分の力を誇示するため、大規模な高塚式の墳墓を築造するようにたり、それは七世紀ころまでつづいた。この時代を古墳時代という。古墳時代は一般に前期・中期・後期の三期に分けられている。
山梨県下の古墳は、ほとんどが甲府盆地とその周辺地域に分布していて、その数は失われたものもふくめると、およそ一〇〇〇以上あっただろうといわれる。現存しているものは前方後円墳が約一七基、方墳二基、円墳が約四〇〇基で、その分布は盆地の東南地域の笛吹川や、御坂の扇状地や、曾根丘陵に多く、ついで盆地の北西地域の竜王・登美台地、櫛形山麓台地や八ケ岳山麓の辺見台地などに多く分布している。
県下最大の規模をもつ中道町の銚子塚古墳は、すぐ近くにある丸山古墳とともに古い形態である。銚子塚古墳は前方後円墳で、周囲に堀の跡も確認され、古墳のまわりからは円筒埴輪の破片が発見されている。古墳の規模は長径一六七メートル、前方部の高さ六三メートル、後方部の高さ八五メートルという大規模なものである。後方部の頂上に堅穴式石室がある。
主な出土品には漢式鏡五面、石剣六本、鉄剣三本、車輪石五個、鉄鎌、管玉、勾玉、貝輪、鉄斧類など一五〇余を数える。漢式鏡については、漢鏡三面、?製鏡二面で、漢鏡は内行花紋鏡で「長宜子孫・寿如金石」などの字が読めるという。他の一つは神人四意虎鏡で、「陳氏作鏡□青圃上有仙人不知君宜高官保予宜孫長口」とある。さらにもう一つは、亀竜鏡で、全体が紫黒色の優秀品であるといわれている。また?製鏡の二面は、中国の魏晋鏡の模倣
とみられる国内製品であり、三神三獣鏡と四神四獣鏡である。
以上のような銚子塚古墳の規模の大きさや副葬品の質量のすばらしさから推定して、この古墳のつくられた時代は、権威のしるしとしての漢鏡や剣を所有することによって、地方支配が宗教的諸行事中心の支配から政治的支配へとすすんだことを象徴していると考えられる。
銚子塚は、当時の甲斐の支配者であった国造級の権力者の墳墓であろうと考えられている。大和朝廷の日本統一課程における地方への勢力の進展と、当時の杜会・文化の模様を推察することのできる貴重な遺跡である。
円墳では東日本最大といわれる姥塚(資料『郷土史事典』山梨県 手塚寿男氏著 1978)
天皇や豪族たちの墳墓である古墳は、はじめ瀬戸内海沿岸から畿内へかけて発達L、大和朝廷の支配範囲がひろまるにつれて地方へ伝播した。
山梨県における古墳分布はほぼ甲府盆地に集中しているが、とくに前期のものは、三珠町・豊當村・中道町をむすぶ曾根丘陵から、八代町・御坂町方面へかけて多くみられる。これはもっとも古い官道が、富士山麓から北西へ尾根伝いに通じていたことによるもので、中央権力は東海道からこのルートを通って浸透したと考えられる。したがって古代甲斐国の政治的中心は、笛吹川沿いにあったとみてよかろう。
後期古墳時代に入ると、古墳の分布は全県下にひろがり、群集墳の傾向をもっている。なかには、巨大な横穴式石室をもった円墳がつくられている。その代表的な古墳が、東日本最大の円墳といわれている御坂町の姥塚である。姥塚は御坂町井之上の南照院境内にあり、別名円通窟あるいは御馬塚といわれている古墳で、横穴式石室をもつ円墳である。塚の高さは一〇メートル、基底周井は一五七メートル。石室の内部は全長一五メートル、羨道(石棺にいたる道)入口の幅二・一メートル・高さ二、五メートル。玄室(棺をおさめる室)は幅三メートル・高さ二、八メートル、八個の巨石によって天井の部分がふさがれている。これは、羨道や玄室に砂をいっぱい入れて蓋石を設置し、その後に砂を全部とり出す方法がとられたものであるという。姥塚の広大な項丘とその内部構造の巨大さは、東日本随一のものである。玄室奥には現在、寄木造りの藤原時代の作と伝えられる観音像が祀られ、三月の初午の日には馬体安全・養蚕加護の観音祭りが行われている。
姥塚につぐ雄大な構造をもつ円墳加牟那塚は、甲府市千塚の金塚前にあり、甲府盆地北部の平坦地にある。千塚の地名は、この付近に無数の塚があったことからおこったといわれているが、加牟那塚の構造彩式は有段円墳で、葺石をめぐらせた跡や円筒埴輪の破片がまわりから発見され、また周囲にめぐらした堀の跡もあったという。円墳の高さは七・三メートル、基底部周囲一二ニメートルで、内部構造は商面に開口する横穴弐石室で全長は一六・七メートル、入口の幅一・五メートル、羨道部の長さ六・四メートル、玄室の奥行一〇・三メートル、幅三・三メートル、高さは二・六メートル、蓋石は七枚の巨石を用いている。奥壁は巨犬な一枚石でできており、みごとな構造をもつ古墳である。
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狐塚から女王卑弥呼時代の銅鏡出土(資料『郷土史事典』山梨県 手塚寿男氏著 1978)
甲府盆地東南部御坂山脈北麓の曾根丘陵には、古代の遺跡が多く、縄文・弥生・古墳各時代の遣跡が分布している。各時代の土器・石器をはじめ、金属器も数多く出土し、主なものは大塚小学校内の三珠考古館(前項)に保存されている。縄文・弥生時代および古墳時代各期の土器類がまとめられていることが特色である。
この近くには大塚をはじめ、伊勢塚、エモン塚その他の古塚が現存しているが、破壊されてしまった三珠町鳥居原古墳(狐塚)から赤烏元年鏡が山土していることに注目したい。この鏡は明治二七年(一八九四)発見され、市川大門町一宮浅間神社所蔵の山梨県指定の文化財となった。大正一三年(一九二四)に故後藤守一氏によって学界に紹介され、昭和四四年(一八六九)にいたって鳥居原古墳の発掘調査が行われ、墳丘上から石室の一部と考えられる朱をつけた石を検出し、他に彩色土師器など若干の出土をみた。昭和四六年、九州大学岡崎敬助氏によって、不明とされていた銘文の解読に成功した。
「甲斐考古」八の一号「山梨県三珠町鳥居原発見の呉赤鳥元年四神四獣鏡とその銘文」によれば、呉代紀年銘鏡の用例から判読すると、
「赤烏元年五月二五日丙午造作明寛百凍清正銅服者君侯宜子孫寿万年」と読まれ、
「赤烏元年(二二八)五月二五日丙午の日に清明な鏡をつくり、銅を百度鍛えられた、この鏡をもつ者は君候となり、子孫はよろしく、その齢は万年におよぶ」
と判読されている。
赤烏元年は中国の三国時代(呉魏蜀)のうちの呉の年号で、西暦二三八年にあたる。邪馬台国の女王卑弥呼についての「魏志倭人伝」の記事によると、卑弥呼が日本から使として魏の国へ難升米らを送り、朝鮮の帯方郡を経て魏にいたり、魏の明帝より金印紫綬をさずけられた年が、西暦二三九年である。
鳥居原出土の古鏡は山梨県における最古の銘文のある鏡であり、邪馬台国の女王卑弥呼の時代であって、山梨の古代研究に大きな手がかりをあたえる貴重な遣物である。他県には兵庫県宝塚市安倉紺桜古墳出土の赤烏七年(二四四)銘の鏡があり、同時代につくられたものとしてともに有名である。
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