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そとからみた(山梨)県民性(資料『郷土史事典』山梨県 手塚寿男氏著 1978)
きびしい甲斐の風土と歴史環境が、どのような人柄をはぐくんできたかについて、大正初年に刊行された「東山梨郡誌」は、当時の評論家山路愛山の観察を、つぎのように紹介している。
国民(県民)の性格は一言にしていえば、人生の修羅場なる意義を極めて露骨に体得したるものなり。彼等の租先は痩せ地に育ちたるが故に、生存競争の原理を極めて痛切に感ぜざる能はざりき。彼等は人生を詩歌の如く眺めること能はず。彼等にありては、人情も詩歌も夢幻も、要するに薄き蜘蛛の巣の如きのみ。
彼等は人生をまだ戦場なりと自覚す。故に奮闘す。(略)往々にして極端なる自已中心主義なり。去れど彼等はこれと共に堅忍不抜なり。直情径行なり。其向ふ所に突進して後を顧みざるなり。故に彼等は財界の雄者として成功す。彼等の理想は勝利なり。他人を圧倒することなり。人生の思想を露骨に語りて、何の掩(おお)ふ所なきなり。
半世紀以上前の評であるが、はたして現在はどうであろうか。謙虚に省察の資としたい一文である。
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武田節」のふる里(山梨)(資料『郷土史事典』山梨県 手塚寿男氏著 1978)
甲州の古い民謡で全国的に有名なものは殆んどないが、昭和ニニ年につくられた新民謡「武田節」なら、日本中の誰もが知っている。戦国時代に中部地方の大半を領国におさめ、西上作戦にうって出た武田信玄は、何といっても山梨県人の誇りであり、勇壮なメロディーをもつこの歌には、愛郷の念がみちあふれている。
江戸後期の農学者佐藤信淵は「農政本論」のなかで、治水事業をはじめ信玄のすぐれた民政を指摘しているが、当時の甲州民の信玄讃仰も、戦略ではなく民政の面においてであった。ながらく天領下におかれた甲州では、人数も少なく任期もみじかい代官所役人になじみがうすく、対立がおこるような場合にしのんだのが、信玄公の古いよき時代だった。農民にとって都合のよい大小切租法・甲州枡・甲州金の三法を、信玄の遺徳とする伝承もここから生れた。しかし、三法が許されたのは国中の三郡だけだったし、郡内の人びとは国中を指して甲州とよび、武田氏の候統とは異る世界を自認していた、郡内の独自性は、律令制の崩壌に乗じて小山田氏が侵入して以来、国中の甲斐源氏に対抗する政権を築いたところからおこり、信玄の盛時にもその相対的独立を承認せざるを得なかった。したがってそこに三法の伝承が生れる余地は、はじめから存在しなかったのである。
県都甲府は、武田氏の信虎・信玄・勝頼三代の城下町だったのにはじまる。武田黄の滅亡後、今の甲府駅前に甲府城ができ、城南を中心に新しい城下町が建設されるにあたっては、旧城下町から移転した人びとが草分けとなった。そのなかには武田御家人の子孫で商人にあった者が多く、町年寄や長人には主にこれらの人が任命された。
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山あいの国(甲斐)(資料『郷土史事典』 風土と歴史と人 山梨県 手塚寿男氏著 1978 一部加筆)
山梨県は、背の甲斐一国をそのまま境域としてなりたっていて、甲斐の国名が峡に由来しているように、どちらをむいても山また山である。北部から東部へかけては関東山地で、金峰山・国師岳・甲武信番・雲取山などは、いずれも二〇〇〇メートルをこえており、八ケ岳から南へつらなる赤石山脈(南アルプス)には、駒ケ岳・仙丈ケ岳.北岳(白根山)・間ノ岳・農鳥岳など三〇〇〇メートル級の峻険がひしめいている。また南側は、富士山をはさんで丹沢山地と天守山地がふさいでいるので、さながら天然の国境をめぐらしたかの観がある。
全体に起伏が複雑な地形から、気候は地域差が大きいが一般に内陸性である。甲府盆地の夏はとくに暑く、ほとんど連日三〇度をこえる半面、山地の冬には積雪期間が三カ月以上のところもある。雨量は比較的少ないが、局地的豪雨や台風におそわれると、たちまち洪水の難にあうことがめずらし<ない。
県土の総面積四四六三平方キ日余のうち、ほぼ中央を商北に走る大菩薩連嶺と御坂山地が、大きく地域を東西に分断していて、古来東を郡内とよび、西を国中とよんでいる。国中には肥沃な甲府盆地が中心にあり、北東からの笛吹川と北西からの釜無川が、市川大門付近で合流して富士川になっており、笛吹川以東は東郡(ひがしごおり)、釜無川中流の石岸は西郡、両者の中間地帯は中郡(なかごうり)、富士川両岸は河内と慣称されている。国申には「和名抄」所載の山梨.八代.巨摩の三郡があり、米麦生産のほかに蚕糸業が発達したが、現在は甲府・韮崎・山梨・塩山の四市と、六郡中三十三町十二村があって、全国有数の大果樹地帯を形成している。
郡内の大部分は、相模川上流の桂川水系の地で、古くは都留一郡だったが、明治の三新法で南北二郡に分れ、戦後は大月.都留・富士吉田の三市が誕生した。平地がとぼしく地味もやせているため、近世以来農業よりも機織など余業への依存度が大きく、江戸市場を中心とする関東地方との結びつきがつよかった。この傾向は基本的には現在も変らないし、風習や方言は国中よりも関東に近い。
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古道 原道 近世以前白州町の古道(『白州町誌』)
【筆註】国道20号線、白州町への入口(諏訪に向かって)に設置されている新設道標は間違いで、これはむかし釜無川河畔に設置してあったものを反対側に設置し、内容をそのままにしたことで起きた間違い。正しくは「川路」である。こうした間違いは境川の橋梁名にもあり、地域が間違いを指摘しても未だに訂正されていないと聞いている。
韮崎から新府を過ぎ、穴山・日野春から前記の花水・台ケ原に進むか、渋沢・小渕沢、信州蔦木に達する道筋が利用された。西河路に対して台地上(七里岩)を信州に至るので原路と呼んだのである。
徳川家康は慶長五年関ケ原の戦のあと、東海、東山、奥州、日光、甲州の五街道を設けて、各街道に伝馬制をしいた。しかしこの甲州街道は降雨のために釜無川、尾白川、濁川などの出水によって、たびたび通行が不能となって、その橙能を十分果すことができなかった。そのため出水時に協往還の役割をもつ原路が重要視された。甲斐国志には次のように記されている。
原路卜云ハ韮崎宿ヨリ新府墟ノ下ヲ過キ穴山村:係り日野ノ原ニ会ス、韮崎、渋沢、小渕沢、信州蔦木宿卜鳴行スル事ニナリ、宝暦中駅宿ヨリ支リ訟論ニ依り西河路ニ水アリテ往還ナシ難キ時ハ台原宿ハ渋沢ニ出テ、教来石宿ハ小渕沢ニ出テ駅伝可致趣ニ公裁定ルト云、
このように、西河路、すなわち甲州街道が出水のため一部通行ができない場合は、台ケ原宿は渋沢へ、教来石宿は小渕沢へ継立てることが公に認められた。しかし小渕沢などが伝馬役の負担が重いためその免除を願いでて、宝暦以後は小渕沢の宿駅業務は教釆石宿が出向いて行なうことになった。このように甲州街道が開かれてからも原路に相当の貨客の通行があったものと思われる。
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古道 逸見路 近世以前白州町の古道(『白州町誌』)
穂坂路三之蔵で分岐して、駒井、中条、小田川に至り、小倉を過ぎて江草根古屋に行く。また穴平から津金、浅川、樫山から佐久平に達する。この道を平沢口という。小田川から分かれ穴山の車坂を登って日野原を通り、花水坂から台ケ原に出て信州に通ずる道を信州西河路ともいう。花水坂については『甲斐国志』は次のように記している。
日野ヨリ台ガ原へ出ズル数十町ノ険坂ナリ(或は云う、日野坂)白砂山ノ麓ニテ釜無川・尾白川・大深沢三水会同ノ処ヲ花水卜云フ。古時ノ信州路ナリ、若神子ヨリ渋沢・台ガ原へ逓送セリト云フ。白砂山ハ七里岩上ニ秀出シテ頂ニ古松欝然タリ
山水石岩最モ風致アリ昔時ハ岩上ニ亭子ヲ構へ山桜数珠ヲ植ユ、花時ニハ豊潤トシテ映ズ困テ花水ノ名アリトナン。
武河筋白洲ノ松原へモ遠カラズ河ヲ隔テテ相対ス。古人云ク本州東南ノ方ニ富士山ノ陰岳ヲ望ム所在美ナリト雖モ所望処ニヨリ山容勝劣ナキヲ得ズ、所謂花水・御坂・万沢等最モ世ニ称スル処ナリ。
織田軍記二天正壬午四月二日信長大河原(台ケ原)ニ御宿陣、三日大河原ヲ立テ五町許リ出レバ富士山能ク顕ハル、御見物ナリ各驚目、夫ヨリ新府へ入ラセラルト有リ。
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