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白州町歴史講座 南北朝時代の甲斐国騒乱・武田氏正統の守護職(白州町誌)

 信長の乱が収まると甲斐に再び騒乱が起きた。守護代跡部父子が実権をにぎり、幼主伊豆千代丸派と抗争をくりかえした。跡部は峡北逸見筋の反武田武士団「輪宝一揆」を味方として、伊豆千代丸に加担する「日一揆」と各地で戦った。この情勢を知った信長は鎌倉を逐電して甲斐に帰り、日一揆と力を合わせて跡部および輪宝一揆と戦ったが利あらず、手勢を率いて房総に去った(房総武田氏の祖となる)。
 永享十年(一四三八)京都の幕府(将軍義教)と鎌倉府(持氏)の関係が悪化して永享の乱が起きた。武田信重はこの争乱を縫って甲斐入国を実現した。実に二十一年ぶりのことである。信重は帰国すると甲斐武田氏の大同団結をはかり、跡部氏もこれに従った。そして鎌倉の足利持氏を攻め、永享十一年二月、持氏は自殺し、逸見有直をはじめ逸見一族の多くは持氏と運命をともにした、信重のあと、信守、信縄、信虎と武田氏正統の守護職がつづくのである。

白州町歴史講座 南北朝時代の甲斐守の動向(白州町誌)

 南北朝時代甲斐国内も南朝方、北朝方に分れてその権益を争つたが、その多くは足利氏に従属する北朝方の勢力下にあった。後醍醐天皇の第三皇子宗良親王は、南朝の勢力挽回のため密閉していた。興国六年(一三四五)(北朝貞和元年)秋、駿河より甲斐に入り武川路を経て信濃に向う途中白須の松原で旅のつかれをいやされた。その時の歌に、
  かりそめの行きかひ路とは聞きしかど いざや白須のまつ人もなし (李花集)
 南朝方に呼応する者もなく、待つ人もなき親王の心境が偲われる。
 信春のあと甲斐の守護となった武田信満は応永二十三年(一四一六)十月、娘婿の上杉禅秀の乱に加担したが、足利持氏の軍に追われ、翌年二月六日甲斐の木賊山で自刃した。信満の敗死で武田一族の逸見有直が実権を握り、信満の子武田信重と叔父の信元は甲斐をのがれて高野山に入山した。幕府はそのことを知って信元を甲斐守護に任ずるが、信元間もなく死亡し、養子の伊豆千代丸が跡目を継ぐが逸見一族の勢力が強く、まったく守護は無にひとしかった。そこで幕府は武田信重を守護に任ずるが信垂は甲斐の国情を知って固辞して身を隠し再起の時期を待った。信重の弟で伊豆千代丸の実父である武田信長は甲斐有直・足利持氏の軍と戦い、猿橋にて防戦したが敗れ鎌倉足利の軍門に降った。

白州町歴史講座 甲斐源氏の動向 武田中興の祖、武田信武 (白州町誌)
 鎌倉幕府が滅んで後醍醐天皇の建武の中興となったが、それもつかの間で建武二年(一二三五年)八月、足利尊氏が鎌倉に入り朝廷に反旗をひるがえした。安芸の武田信武は尊氏に応じ、大いにその功績をあげたので尊氏の信望が厚く甲斐・安芸・若狭の守護も兼帯して武田中興の祖といわれている。信武のあと信成・信春の三代は武田惣領職と甲斐守護を全うし、足利氏と行動をともにして動乱期を克服した。

白州町歴史講座 武田氏の盛衰(鎌倉から室町へ)(白州町誌)
(【註】この項には著者の歴史観が挿入されていて、不確かな個所がある)

 平家を滅ぼし、鎌倉幕府の創建に甲斐源氏が果した業績は大きかった。だが甲斐源氏が強大な兵力を擁し、駿遠一帯にも勢力を拡大したことについて頼朝は恐怖を感じ、これを警戒し圧迫してくるのである。頼朝は武田一門に謀叛の動きありとして信義に圧迫を加えてきた。その疑惑に対し信義は誓書を提出して誤解を解いてもらったが、その子一条忠頼は頼朝に招かれ鎌倉で謀殺された。やがて信義も駿河守護を解かれ、文治二年(一一八六)三月九日、悲運のうちに五九歳で世を去った。
信義
−忠板 (一条二郎)
−兼信 (板垣三郎)
−有義 (武田太郎)
―信光(石禾五郎、伊豆守、安芸国守護)

 安田義足も遠江守護を解かれ、建久五年八月嫡男義資の些細な問題で、安田氏に反逆の事ありとして梶原景時を将とする幕府軍が甲斐へ攻め込み安田軍と戦ったが、義定は藤木の菩提寺放光寺で自刃して果てた。時に年六一歳であった。さらに一条忠頼の弟板垣兼信も梶原の手の者に謀殺された。その弟有義は頼朝の死後梶原と組み、後任の将軍をめぐって画策したが発覚して梶原一族が滅亡した正治二年(一二〇〇)正月行方知れずとなった。

白州町歴史講座 甲斐源氏の生き残り 石和五郎信光 小笠原長清(白州町誌)
 信義の同族で生き残ったのは、信義の末子石和五郎信光であった。武田の惣領職についた信光は鎌倉幕府に忠誠を尽し信頼が厚かった。源実朝暗殺を機に将軍政子と執権北条義時が幕府の実権を握った。朝廷は源氏幕府が断絶を機に朝権の回復をはかろうとして承久の乱が起った。
承久三年(一二二一)六月、この乱は北灸軍の圧勝で終り、幕府は仲恭天皇を廃し、後鳥羽上皇ら三上皇を遠流に処し、討幕に加わった公卿・武士団を処断した。このとき東山道大将軍として五万余騎を率えて出兵したのが石和信光と小笠原長清であった。信光はその軍功によって安芸の守護に任ぜられ、長清は阿波の守護に任ぜられた。その後信光の子孫が代々石和(川田)の館に住み甲斐の守護となっている。

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