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2012年03月

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柳沢吉保 家宣、擁立問題【虚説・柳沢騒動】(五味康祐氏著 吉保佞臣説の拠り所 一部加筆)
世に柳沢騒動と称される事件がある。「御屋形様」たる吉里を、じつはわが子でないのに吉保は綱吉公の落胤と偽り称して、次期将軍に推し立て、その身は百万石の大守たらんと策謀したというのだが、これがいかに虚妄の説かは前述した吉保の言行によっても明らかだろうと思う。
 でも、世間にそういう浮説の流れるのにはそれなりの理由があった。まず藤井紋大夫のお手討ちである。紋大夫というのは、もとは幕府の御能役者の子で、将軍綱吉は琴・三味線などは嫌っていっさい退けた。しかし、能楽は愛好されたので、紋大夫も最初は能役者であったのを、水戸の西山公(光圀)の御意にかなって水戸家でだんだんに取り立てられ、のちには八百石を頂戴して家老格にまで用いられる身分になった。そうして光圀の孫である吉孚(よしたか)に付けられた。ところが、しだいに紋大夫は慢心してついに非望を企て、光圀・綱篠(つなえだ)父子、綱篠は光圀の子で、吉孚の父の離反を策して水戸の政権を牛耳ろうとするいっぽう、縁者の娘を柳沢吉保の妾にさしだしてその歓心を買い、光圀公は乱心めされたなどと密告した。そうかと思うと、水戸の藩士らには、吉里殿はじつは将軍家御落胤であると言いふらし、次期将軍に吉里を擁立する運動を名目に水戸藩で与党を募った。これには連判状まであったというが、そんなことから、光圀のお手討ちにあった。
 時に貞享二年(一六八五)十二月十八日。光圀は水戸西山の隠居所から突如、江戸邸に出向いて紋大夫を手討ちにしたという。
 水戸側の記録では、この手討ちの前例の生類憐みの令が流布された直後、当時、西山に隠居中の光囲は悪獣狩りと称して獲った獣のなかから、犬の皮二十枚ばかりを精製し、これを江戸の柳沢吉保に贈ったというが、悪犬を殺すのはともかく、その皮を精製して贈るとはなんたることか、さては水戸老公は乱心めされたかと幕府でも大騒ぎになり、将軍家に昵近(じっきん)する吉保へいやがらせしたことになっている。かつは生類憐みの令への痛烈な批判をなしたと世人も解釈したらしいが、生類憐みの令への批判はともかく、吉保へのいやがらせというのは違う。
 なぜならこの騒ぎのあった貞享二年には、吉保は出羽守と改めてはいてもまだ都合千三十石の家臣にすぎない。
 大名に立身するのは元禄元年(一六八八)からで、そもそも「生類憐みの令」の流布されるのに吉保は参画したわけではなかった。天下の法令を、幕閣老中をさしおいて千三十石程度の輩に献策できるわけはなかったのである。
 そのかぎりでは、天下の副将軍ともあろう光圀が、わずか千石余の小身者にいやがらせをするというのも異常で、よし将軍家への面当てにせよ、絞大夫と吉保の結びつきを壟断(ろうだん)するのが真意だったろうと考えられる。
 でも、この紋大夫お手討ち事件がかえって世間に、将軍家の吉保に対する寵愛ぶりを印象づけ、あわせては根も葉もない柳沢騒動を後世に虚構させたのだから皮肉である。
 柳沢吉保 慎みが肝要(五味康祐氏著 吉保佞臣説の拠り所 一部加筆)
慎みが肝要
「すべて、慎みと申すことが第一なりとかねがね家臣に諭されていた。今のわが身のつとめ柄、また将軍家の御寵愛を賜わる立場であれば、おのずと家来どもも外に出たとき、わがもの顔に振る舞いたくなるであろうが、断じてさようなことがあってはならない。大道を往く時も、なるべく道の端を通るぐらいな慎みが肝要である。お供の面々もこの点は十分わきまえおくようにと、つねに支配頭へ御意なされたので、柳沢家の家士に限って、他処でがさつな振る舞いをしたものはなかったのである。
 また家中の諸士には、つねに風俗よく礼儀正しくコレ有るよう心づけよと訓されていた。家士の風俗で主人の心根は知られるものだから、と。
 余談ながら、行往坐臥、殿ご自身の素行はきわめて実直で、ふだんでも膝をおくつろぎ遊ばすのを見たものはない。食事中はもちろん屹度(きっと)正座をしてお食べになった。昼休息の時もけっしていぎたない扮(なり)をなされたことはなかった。御針治の後、暫時身を横になされていたくらいである。夜は表にはかり御寝になり、奥(女中どもの暮らす局に泊まられたのを知らない。
 言葉は心のあらわれなりと申されて、つねに言葉づかいには心を尽くされ、近侍のものらは申すに及ばず、御坊主どもにもいたって丁寧な物言いをされた。
 武芸に精進されたことは前に述べたとおりであるが、学問にもきわめてご熱心で、日々登城の勘は御用忙多でお暇はないにもかかわらず、わずかなお手すきには儒書ならびに歌書をひもとかれた。毎月の歌会には必ず出席なされたし、元禄十五年(一七〇二)には北村季吟より『古今集』の教授をうけられた。同十六年には、百首の和歌を詠んで仙洞御所の叡覧に供し奉られている。
 日常、お側には硯文庫に糊入れと四半紙を常備され、かりそめの御用を仰せつけられるにもいちいち右の紙に書いてお渡しであった。こうすればまちがいがおこらぬからと。
 また、御用向きの儀につき、家臣らが御側衆を通じて意見をおうかがいすることがあると、直接、会って申しつけられた。きわめて些細なことなど人づてに御意なされてもすむことながら、なにごともおじきにうかがえば、その時のお顔の様子などから御意を呑みこみ早いものである、とかく主人の御前に出て、相互に顔をつないでおくのもつとめの第一であるとの御意からであった。だからよほどの病気でないかぎり、家士らも引っ込まずに御前に出て、おつとめを励んだのである。
 
柳沢吉保 領民への思いやり(五味康祐氏著 吉保佞臣説の拠り所 一部加筆)
「殿が御登城また退出遊ばす時に、百姓町人がお駕寵へ訴状をさしだすことがたびたびだった。駆け込み訴えである。お座敷まで参るものもいた。本来ならばゆるされぬ振る舞いながら、これをことごとく聞き入れに相成り、目付役に出合わせて、町人は町奉行、百姓の訴えは勘定奉行まで内意を遣わさせ、けっして訴状人に迷惑のかからぬよう配慮された。また代官にも余程の邪悪な人物でないかぎり、その役目怠慢にならず事すむよう配慮されたのである。
 元禄年中、諸国飢饉で、川越領中の百姓どもも大いに難渋した節には、御救米をくだされ、領内の役人衆に下知して餓え候ものをお調べのうえお救いなされたから、その慈悲深い御政治向きに領民らが感謝したことはのちのちまでの語り草になっている。
 またこうした仁心あつく、憐憫(れんびん)の情を下々へ細やかに遣われたのはすでに館林にて勘定奉行をつとめられたころからで、当時、処刑の決まったものを御容赦なされた例は何人もあった。風流で名代官といわれる某も、そのころ、罪をゆるされたものの子である。
 領内百姓町人で、八十歳以上の男女に米一俵ずつ、御祝儀としてくだされたこともあった。
 つねづね、百姓には、掛かり物多きか少なきか、多くば代官の仕置き悪しきゆえなり、と内証で尋ねられ、なにほどの掛かり物コレ有るか遠慮なく申し越すようにと申されていた。
 また領内村々で、蔵畳敷の数を調べベ、蔵のある所はともかく、蔵のないのは荒地のためではなかろうかと、領内くまなくこれを調べさせられたことがあった。しこうして、蔵屋敷のない村は年貢の割付けを吟味するよう代官まで申しつけられた」
【律義者の吉保像】
以上が、家臣の書き残した吉保の言行である。これでみると、いかに柳沢吉保が文官として器量のととのった人物だったか、少なくとも将軍家の寵愛をかさに、威張り散らすようないわゆる茶坊主的臣ではないことがわかると思う。
 新陰流は将軍家の兵法なれはと、稽古の際にも戸を閉め立てたこと。その兵法書を箱におさめ鍵をかけていたこと。日常、膝を崩すこともない慎み深さ、供侍にまでがさつの振る舞いなきよういさめた態度。領民への思いやり。どれひとつをとっても律義すぎるほど律義で、お上大切と心が止りた実意ある武士の像しか浮かんでこない(総じて上司におべっかを言い、ゴマすりを得意とする手合いには万事に抜け目のない小才子が多いものである。そういう小賢しい徒輩に限って、虎の威をかる狐で、陰では威張り散らし、かつ上司のいない場所では立居振る舞いも横柄で、いたって残忍なものである。すなわち吉保とほおよそ別なタイプの人間である。
 要するに吉保は、自分を登用してくれた将軍綱吉に一途に忠勤をはげむ体の人物だったので、世人の羨望を買う出世をしたのも、綱吉におもねったからではなく、綱吉白身が吉保の実直さ、律義さを愛でて異数の出世をさせたとみるべきだろう。しかも、正しいことはたとえ将軍家の意にそわずとも、あくまでも正しく筋目を通す実直さをも吉保はもっていた。
 それを物語るのが次期将軍たる家宣の擁立と、赤穂義士の処分に関する正論の吐露だった。
柳沢吉保 慎みが肝要(五味康祐氏著 吉保佞臣説の拠り所 一部加筆)慎みが肝要
「すべて、慎みと申すことが第一なりとかねがね家臣に諭されていた。今のわが身のつとめ柄、また将軍家の御寵愛を賜わる立場であれば、おのずと家来どもも外に出たとき、わがもの顔に振る舞いたくなるであろうが、断じてさようなことがあってはならない。大道を往く時も、なるべく道の端を通るぐらいな慎みが肝要である。お供の面々もこの点は十分わきまえおくようにと、つねに支配頭へ御意なされたので、柳沢家の家士に限って、他処でがさつな振る舞いをしたものはなかったのである。
 また家中の諸士には、つねに風俗よく礼儀正しくコレ有るよう心づけよと訓されていた。家士の風俗で主人の心根は知られるものだから、と。
 余談ながら、行往坐臥、殿ご自身の素行はきわめて実直で、ふだんでも膝をおくつろぎ遊ばすのを見たものはない。食事中はもちろん屹度(きっと)正座をしてお食べになった。昼休息の時もけっしていぎたない扮(なり)をなされたことはなかった。御針治の後、暫時身を横になされていたくらいである。夜は表にはかり御寝になり、奥(女中どもの暮らす局に泊まられたのを知らない。
 言葉は心のあらわれなりと申されて、つねに言葉づかいには心を尽くされ、近侍のものらは申すに及ばず、御坊主どもにもいたって丁寧な物言いをされた。
 武芸に精進されたことは前に述べたとおりであるが、学問にもきわめてご熱心で、日々登城の勘は御用忙多でお暇はないにもかかわらず、わずかなお手すきには儒書ならびに歌書をひもとかれた。毎月の歌会には必ず出席なされたし、元禄十五年(一七〇二)には北村季吟より『古今集』の教授をうけられた。同十六年には、百首の和歌を詠んで仙洞御所の叡覧に供し奉られている。
 日常、お側には硯文庫に糊入れと四半紙を常備され、かりそめの御用を仰せつけられるにもいちいち右の紙に書いてお渡しであった。こうすればまちがいがおこらぬからと。
 また、御用向きの儀につき、家臣らが御側衆を通じて意見をおうかがいすることがあると、直接、会って申しつけられた。きわめて些細なことなど人づてに御意なされてもすむことながら、なにごともおじきにうかがえば、その時のお顔の様子などから御意を呑みこみ早いものである、とかく主人の御前に出て、相互に顔をつないでおくのもつとめの第一であるとの御意からであった。だからよほどの病気でないかぎり、家士らも引っ込まずに御前に出て、おつとめを励んだのである。
 
柳沢吉保 武芸に精進(五味康祐氏著 吉保佞臣説の拠り所 一部加筆)
「馬術にもいたくご熱心であった。これは、馬を達者に乗りこなせぬようでは往来で恥をかき申すのみならず、そもそも出火の際に御用をつとめかねるからだと申されて、月に二、三度は必ず馬場へ出て乗馬を遊ばされ、廐に出向いて馬どもを残らず御覧のうえ、飼い葉なども念入りに吟味なされた。冬は綿入りの蒲団を着せ、引馬にも着せ申すよ
う馬役人に仰せつけられたこともある。それほどだから、馬持ちの面々の馬術はしばしば御覧あり、万一、お城近辺に出火あればとの想定で、本郷台町・駒込・小菅などの下屋敷へ早乗り、または駆け足を命ぜられたこともしばしばであった。これは足だめしなので、若いものは常時に足を鍛えておかねば火事などの砌には用に立つまいとの御意であった。
 また、雪の日には、早朝より雪の遠乗りをなされることがしばしばで、この儀はあらかじめ御側衆にも伝えられていたから、御側役五郎右衛門などは夜中に雪が降ると、未明に起き出て御馬脇お供の支度にかかった。そんな時、同役宇右衛門は痔疾あり、乗馬ははなはだ苦痛ゆえ当初は馬嫌いの由を言上、たまにしかお供しよぅとしなかったので、いたく不興をこぅむったが、やがてわけを御存じになり『なぜありのままを申さぬ』失笑なされて、以後はいっさい宇右衛門はおかまいなし。このことがあってからは、ほかに痛みどころや病気でお供のなりかねる面々は、『誰々乗馬不相済』と姓名を書き付けてお次の間の柱に張り付けられた。そして平癒次第、名札を取られたので、持病のものはいつまでも書き付けが残り、おりおり、『そちはまだ快癒いたさぬとみえる。身をいたわれよ』お言葉を賜わるので、某ごときものをさ(者長)までにお心におかけくださるかと当人は感泣、これを見た朋輩も御洪恩に感激した」
 
柳沢吉保 吉保の言行 御酒はお嫌い(五味康祐氏著 吉保佞臣説の拠り所 一部加筆)
柳沢家の家臣は書いている。
「殿様は毎日、朝十時には登城なされ、午後二時にお城(江戸城)を退出なさるのが日課であったが、朝ほ必ず御精進で、登城の前には袴で持仏(居間に安置してある守り本尊の)昆沙門を拝まれる。そして御守り袋を懐中にして登城され、退出後はただちに御守り棚へおおさめなさるのがつねであった」
「平生の御料理に好き嫌いはなく、衣類も目立たぬ質素な物をお召しになり、朝食は一汁三菜、夕膳は一汁五菜、夜食は一汁三菜と決まっていて、朝夕とも随分かるい品を召し上がられた」(五味注。十五万石の大名なら夕食は、七菜、二の膳付きがふつうである)
「御酒はことのほかお嫌いで、御姫様方が雛の節句に樽を進ぜられても、この樟は台所の小使いどもに遣わせ、とのみ申されご自身召されることがなかった。それでお側に仕える面々もおのずと酒をひかえ申すようになったが、これは領地甲州は陰国ゆえ、朝寝大酒などしては病身になりやすいからとの深慮によったことと、側近には洩らされたという」
「松平の称号をゆるされ、御諱字を拝領して美濃守吉保とお改めになったのは、元禄十四年(一七〇一)秋に、上様(将軍家)が柳沢邸へお立ち寄りなされた時であったが、それまでの(柳沢出羽守)をそのまま(松平出羽守)と称してよかろうと上意のあった時に、殿は、松平出羽守は幕府のお家筋にあたり、自分ごときにははばかり多しと固く辞退なされ、美濃守に改められたのである。これは、松平氏で国名のあいているのは美濃しかなかったからという」
「殿は武芸をおさめることを第一に心がけられ、剣術は御流儀(新陰流)、軍学は甲州流、弓術は吉田流と大和流、槍は無辺流(直槍)と宝蔵院流(十文字槍)、馬術は八丈流および大坪流を寧日なくお稽古、精進なされた。
 剣術は柳生内蔵助がたびたびお城に召されて御指南したが、これは将軍家の御流儀なればとことのほか心づかいされ、お稽古の節は周辺の戸を閉め切って外部にお見せにならず、お稽古中は家臣が立ち入ることもおゆるしなく、稽古に際しては柳生とても御流儀の師範なればと、必ず上段より下座に下がって指南をうけられたのである。そして、その兵法書はことのほか大事になされ、箱におさめてこれに鍵をかけ、鍵はつねにご自身で所持された。土用には虫干しで箱から兵法書をお取り出しになるが、この時もご自身でなされお例の衆には手をつけさせられなかった」

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