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【大井俣紳社 窪八幡社 八幡村】
郷社大井俣紳社は八幡村に在る。式内社にして天津彦命、天徳日命天命、穂耳思姫命、足仲彦命、活津彦命、譽田別命、熊椽樟命、気長足姫命、瑞津姫命、大鷦鷯命、市杵島姫命の十一神を祀り、境内に新羅三郎義光手植え八本杉あり、武田氏代々の祈願所にして徳川氏に至り、社領、二百七十石餘を附せらる。本殿は特別保護建造物なり。
(『山梨県市町村自治名鑑』大正九年刊 小久江今朝平氏著 一部加筆) 
【加茂春日神社 加茂春日神社 春日居村】
郷社加茂春日神社は春日居村に在り、天津彦穂邇々命、天兒屋根命、紳日本磐彦命を祀る。往古は両社並び立ちしが、武田氏の時洪水に依り、社地流潰して相殿とする。十一月二ノ中の日に「投松明」の神事あり。
(『山梨県市町村自治名鑑』大正九年刊 小久江今朝平氏著 一部加筆) 
【山梨岡神社 岡部村】
郷社山梨岡神社は岡部村に在る。式内社にして大山砥命、別雷神高麗神を祀る扉前に一尺八寸程なる獨足獣の木像を置き、拝殿庭前に輪橋を架し、又長五尺三寸、横四尺二寸の郡石なるものあり。
正殿は飛騨工の手に成ると傳へられ特別保護建造物なり。
(『山梨県市町村自治名鑑』大正九年刊 小久江今朝平氏著 一部加筆) 
柳沢吉保 赤穂浪士事件の処分 吉保「切腹」を主張(五味康祐氏著 吉保佞臣説の拠り所 一部加筆)
ところが、これに吉保は異議をさしはさんだ。当時、吉保は御側御用人の要職にあったが、「甚だ嘆かわしくお思い召され、さしあたって先例の拠り所もこれなきゆえそのままさしおいて」城を退ったが、早速、帰邸するや儒者の志村三左衛門・荻生徂徠(惣右衛門の両名を召して右の裁決をどう思うかと尋ねている。
 これに対し、老儒の志村は「前例がないことでなんとも判断をいたしかねます」と言ったが、荻生は「さてさて御評議の衆は些末のことにのみこだわりなされ、肝要のことにお気づき遊ばさぬように存じ申す」と言い、こんなふうに答えた。
 「すべて物事は些末に頓着せず、大要をとらえるのが聖人の教えに候。当節、忠孝を御政道の第一にお置き 遊ばされているのに、赤穂浪士の御成敗を盗賊のお裁きとは、さりとは情無き次第と存じ候。忠孝を心がけていたしたものを盗賊あつかい遊ばすのが例になり候ては、向後、不義不忠のもののお裁きをどう遊ばす御存念か。ここは切腹を仰せつけられ 候ことこそ、まずもって肝要かと存じ候。さすれば彼らの宿意も立ち、面目も立ち、いかばかり世人への示しともなることでございましょう」
と。
 吉保は聞いて、たいそう満足に思い、翌朝つねより一時間も早く登城して綱吉に目通りを乞うと右の趣を言上した。言われてみれば確かに武士らしく主君の恨みを晴らしたので、武士らしい切腹を申しつけるのが至当と綱吉も悟った。
 そこで「御評議俄に相変わり」四十六士は切腹、内蔵助の倅吉千代をはじめ、十五歳に満たぬ義士の遺児ら十九人は遠島を仰せつけられたと、柳沢の家臣は書きとめている。
 これには無論、大石ら浪士をあずかった細川越中守綱利をはじめ、当時の心ある大名が内蔵助らの討ち入りを忠節無比の義挙と称賛した、いわば世論へのおもんはかりもあったかもしれない。だが吉保の人となりが、綱吉におベっかをつかうだけの佞臣ではなかったかした証を、ここにもわれわれほみることができる。お気に入りの吉保の正論だったから綱吉もその意見をいれたともいえるだろう。念のため言っておくが、幕府は畢竟(ひっきょう)、武家政体である。皇室・天皇が政務を統べ給うなら王道だが、幕府のそれは覇道であり、将軍が尊王思想の持ち主では幕府は成り立たない。武士階級は幕府あってのもので、明治維新でも明らかなように、勤王思想に徹するなら幕府は政権を奉還し、すべての大名およびその家来たる武士は、禄をはなれなければならない。それでは困るのである。
 
柳沢吉保 赤穂浪士事件の処分(五味康祐氏著 吉保佞臣説の拠り所 一部加筆)
【老中らの評定】
次に赤穂義士の処分である。
 大石ら四十六士が・吉良邸に討ち入り、上野介の首級を挙げた一件は満天下の耳目をそばだたせたが、彼らの処分について、幕府では老中阿部豊後守正武・土屋相模守・小笠原佐渡守・稲葉丹後守ら評議のうえで、
 「右の輩(赤穂浪士)は仇討ちの宿意これ有り候とて、或は町人または日雇い人足の姿に身をやつし殊さら深更に人家へ忍び込み侯次第、武士道にあるまじき致し方に供えは、夜盗のたぐいと変わらぬのだから全員斬罪人打ち首の処分しかるべしと決し、これを綱吉に上申した。
 ひとこと言っておかねばならないが、大石ら義士の討ち入りはむろん、主君の恨みを報じたことに武士道ではなっている。しかし松の廊下で浅野内匠頭が吉良上野介に刃傷に及んだのは私憤による行為だった。
 当日は勅使を江戸城に迎える儀式の日で、内匠頭は馳走役いってみれば幕府という大会社で接待役を命じられていた社員が、接待すべき勅使(宮内省の役人)を迎える宴会の会場で、後見たる(接待担当重役)上野介と内輪もめの喧嘩をし、重役に暴力をふるった、それがあの刃傷事件のありさまである。いかに上役たる吉良が意地悪をしようと、腹が立つなら後日接待役の任務を終えたあとで晴らすべきだ。しかるに宴会場でまさに勅使を迎えんとする直前、刃傷に及んだのは、大会社のサラリーマンとしてはもってのほかの振る舞いであり、内匠頭が献首になった(切腹を仰せつけられた)のは当然といわねばならない。それを、喧嘩だから両成敗で吉良上野介もクビにすべきだというのが浅野家の遺族、大石らの主張なのだが、こんな理屈が通らぬぐらいは今日のサラリーマンでも自覚していよう。
 さらに、これも重要なのでいっておくが、将軍綱吉という人はいわは当時のインテリで、きわめて皇室への尊崇心のあつい将軍だった。内匠頭の刃傷沙汰は、単に自己抑制のたらぬ(接待役たる任務を忘れた)所業であるのみならず、勅使を迎える場所を血で稜すという不敬罪を働いたわけなので、日本人として、皇室への不敬を犯したかどで切腹させられたのである。短慮者内匠頭に綱吉が激怒したのも不敬を彼が犯したからで、単に喧嘩をしたからではない。
 とすれば、皇室への不敬を犯したものの遺族が徒党を組んで上野介、きわめて京都の公卿たちと親密だった、の屋敷へ殴り込みをかけるのは、いわば二重に綱吉の尊皇心をないがしろにした行為ともいえる。老中阿部正武らはその辺の綱吉の心情も汲んで極刑を評定したのである。
 

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