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柳沢吉保 吉保の言行 御酒はお嫌い(五味康祐氏著 吉保佞臣説の拠り所 一部加筆)
柳沢家の家臣は書いている。
「殿様は毎日、朝十時には登城なされ、午後二時にお城(江戸城)を退出なさるのが日課であったが、朝ほ必ず御精進で、登城の前には袴で持仏(居間に安置してある守り本尊の)昆沙門を拝まれる。そして御守り袋を懐中にして登城され、退出後はただちに御守り棚へおおさめなさるのがつねであった」
「平生の御料理に好き嫌いはなく、衣類も目立たぬ質素な物をお召しになり、朝食は一汁三菜、夕膳は一汁五菜、夜食は一汁三菜と決まっていて、朝夕とも随分かるい品を召し上がられた」(五味注。十五万石の大名なら夕食は、七菜、二の膳付きがふつうである)
「御酒はことのほかお嫌いで、御姫様方が雛の節句に樽を進ぜられても、この樟は台所の小使いどもに遣わせ、とのみ申されご自身召されることがなかった。それでお側に仕える面々もおのずと酒をひかえ申すようになったが、これは領地甲州は陰国ゆえ、朝寝大酒などしては病身になりやすいからとの深慮によったことと、側近には洩らされたという」
「松平の称号をゆるされ、御諱字を拝領して美濃守吉保とお改めになったのは、元禄十四年(一七〇一)秋に、上様(将軍家)が柳沢邸へお立ち寄りなされた時であったが、それまでの(柳沢出羽守)をそのまま(松平出羽守)と称してよかろうと上意のあった時に、殿は、松平出羽守は幕府のお家筋にあたり、自分ごときにははばかり多しと固く辞退なされ、美濃守に改められたのである。これは、松平氏で国名のあいているのは美濃しかなかったからという」
「殿は武芸をおさめることを第一に心がけられ、剣術は御流儀(新陰流)、軍学は甲州流、弓術は吉田流と大和流、槍は無辺流(直槍)と宝蔵院流(十文字槍)、馬術は八丈流および大坪流を寧日なくお稽古、精進なされた。
 剣術は柳生内蔵助がたびたびお城に召されて御指南したが、これは将軍家の御流儀なればとことのほか心づかいされ、お稽古の節は周辺の戸を閉め切って外部にお見せにならず、お稽古中は家臣が立ち入ることもおゆるしなく、稽古に際しては柳生とても御流儀の師範なればと、必ず上段より下座に下がって指南をうけられたのである。そして、その兵法書はことのほか大事になされ、箱におさめてこれに鍵をかけ、鍵はつねにご自身で所持された。土用には虫干しで箱から兵法書をお取り出しになるが、この時もご自身でなされお例の衆には手をつけさせられなかった」
柳沢吉保 異例の栄達 将軍落胤の養育(五味康祐氏著 吉保佞臣説の拠り所 一部加筆)
前の年譜で明らかなように、それまで二千三十石だった家来に一挙に一万石の加増があったのが元禄元年(一六八八)つまり吉里誕生の翌年である。以来、公に、綱吉は他界の直前まで都合五十八度、柳沢邸を訪ねているが、こういうことは古今に例がない。あまつさえ、宝永二年(一七〇五)の夏、染子が大病を患うと、綱吉は松平右京大夫輝貞を使者としてその病を尋ねさせている。輝貞といえば老中格である。いかに寵臣の吉保とはいえ、その妾の病に将軍家が老中を見舞いに遭わすなどありうべきことではない。さらに染子の病気が重くなって、とうとう五月十日、三十九歳で亡くなると、この時も綱吉は松平陸奥守直広を使者として弔わせるのみならず、小石川竜興寺の葬儀の時にもわざわざ香典を遣わした。これまた例のない話だ。
 さらに、百箇日が経って、このとき吉保は詩をつくっているが、その端書きに、
 「霊樹院百日ノ忌去、特ニ台命ヲ蒙リ恭々シク遺物愚堂墨跡一帳、和歌二十一代集、源氏物語各一部ヲ献ズ云々」
と。
 おのが妾に、将軍の命をうけて遺品を献じることなど、あるべきわけがない。さらに驚くべきことにハ、染子の
碑に「施主 甲斐少将吉保」と書いている。この書き方はまさに君臣の礼をとったもので、将軍の廟所一碑を献ずるにも「甲斐少将吉保」としか書かない。わが親や子息の碑にこういう筆法はつかわないのがならいだ。
 もうひとつ、柳沢吉保の言行を家臣が記述した『柳沢家秘蔵実記』をみると、吉里を柳沢家では「御屋形様」と
よんでいる。大名の家臣が若殿を、「御屋形様」とは異例のことで、当時は将軍家の姫君が大名家に入興されたのを御守殿様とよんでいる例に照らしても、吉里が誰の子かは明白だろう(江戸時代の慣例で「屋形様」とよばれるのは、薩摩・仙台・越前・出雲・細川・上杉ら国主大名に限られる。他の並大名なら、「殿様」である。もちろん当主だけが「屋形様」なので、『柳沢家秘蔵実記』を書いた家臣の代には、すでに吉里が当主としても、「屋形様」で御はつけないだろう)。むろん、実際は自分の子であるのに、わざと、さも綱吉の落胤であるかのように、「御屋形様」と家臣によばせたとも考えられぬではない。吉保をあくまで邪悪の佞臣とみなすなら、目から鼻へ抜ける絞滑な才子なら、それくらいの欺瞞は平気でやってのけたろう。だが、そんな絞滑の人物だったら以下に記すごとき言行を、なしたろうか?
 
柳沢吉保 異例の栄達(年譜) 綱吉の妾を妻に(五味康祐氏著吉保佞臣説の拠り所(五味康祐氏著 一部加筆)
 
【加増年譜】
吉保の栄達は、異例のことといったが、その加増を年譜によって列記すると次のようになる。
一、延宝三年 (一六七五)七月、十八歳、家督を継ぐ。五百三十石。
一、天和元年 (一六八一)四月、三百石加増。都合八百三十石。
一、天和三年 (一六八三)正月、二百石加増。都合千三十石。
一、貞享二年 (一六八五)十二月、従五位下誇大夫に叙せられ、出羽守と改める。
一、貞享三年 (一六八六)正月、千石加増。都合二千三十石。
一、元禄元年 (一六八八)十一月、一万石加増。都合一万二千三十石。
一、元禄三年 (一六八九)三月、二万石加増。都合三万二千三十石。
一、元禄三年 (一六八九)十二月、四品に叙せられ、これより二本道具をゆるされる。
一、元禄五年 (一六九一)十一月、三万石加増。都合六万二千三十石。
一、元禄七年 (一六九三)正月、一万石加増。川越城主となる。都合七万二千三十石。
一、元禄十年 (一六九七)七月、二万石加増。都合九万二千三十石。
一、元禄十五年(一七〇二)二月、二万石加増。 都合十一万二千三十石。
一、宝永元年 (一七〇四)十二月、甲府、所替え。都合十五万一千二百八十八石七斗三升七合なり。
 
 以上、元禄年間(一六八八〜一七〇四)だけで六回、合わせて十一万石の加増で、あの松の廊下の刃傷で藩を取り潰され、大石良雄以下の吉良邸討ち入りにまで進展した赤穂城の浅野内匠頭でさえ五万石だったのを思えば、つまり五万石の取り潰しであれだけの事件に進展している事実に照らしてみても、一佞臣に都合十五万石の加増(今の貨幣価値でほぼ年額四十億円程度の増収になる)は、いかに異数な、ありうべからざることか想像はつくだろう。
 では、どうして加増が黙認されたのか?理由は、綱吉の落胤をわが子のごとくよそおって吉保が育てたからである。
 柳沢吉保には、『寛政重修諸家譜』によると、正室(曾雌氏)のほかに何人かの側室があった。そのなかで、染子という婦人が甲斐守吉里を産んでいるが、この吉里が将軍綱吉の落胤だった。染子は六代将軍の御台所となった
近衛氏(天英院といった)が、延宝七年十二月、入輿のため江戸に下られたときお供した女性で、当時十三歳だったという。それが、綱吉の気に入られてお手がつき、妊娠したのを、吉保に賜わった。
 主君の側妾をくだされるのは当時はざらにあったことで、延宝七年といえばまだ吉保は小姓組で、五百三十石である。綱吉も江戸城に入る前である。想像でいうことだが、翌延宝八年、にわかに館林侯たる綱吉が五代将軍家になることに決まって本城に入ることとなり、お手のついた染子を神田の館に残さねばならぬので、吉保に賜わったのだろう。染子はこのとき、十四歳である。
 さて吉保が染子に接したところ、彼女は妊娠しているとわかった。そこでこの旨を言上すると、「いたわってつかわせ」というお言葉である。それで同じ屋根の下に暮らすのはいかがと思いはばかり、別棟の座敷をこしらえてこれに住まわせ、以後、登城するたびに式服で吉保は御機嫌うかがいをしたという。
 もっとも、この時の胎児は流産したらしい。十四歳の妊婦では無理もないが、一説には、女の子が生まれ、早世したともいう。吉里の誕生は貞享四年で、すでに染子をくだされてから七年後であり、だから吉里は御落胤ではなく、正しく吉保の実子なりとの説を唱える人もあるが、そしてこれが吉保を奸臣とみなす大きな拠り所となっているのだが、式服で朝夕の御機嫌うかがいをする律義者が、流産すればとてたやすく彼女を孕ませるだろうか?
 
【柳沢吉保生誕】吉保佞臣説の拠り所(五味康祐氏著 一部加筆)
 吉保は、そんな安息の子として万治元年(一六五八)十二月に生まれた。妾腹の子という。十六歳で元服し、延宝三年(一六七五)、十八歳のとき、隠居した父の家督を継いだが、むろん知行は五百三十石。綱吉の側小姓の一員に加えられていた。それが、延宝八年、兄家継(四代将軍)の逝去によって、綱吉は五代将軍となり、江戸城に入るにしたがって吉保もそれまでの神田の館(綱吉の居邸)から江戸城詰めになるのだが、この時はまだもとの五百三十石だった。それが綱吉の将軍就任後、しだいに栄達して、ついに一代で甲府城十五万一千余石の大名になるのだから、確かに綱吉の恩寵なくてはかなわぬことである。でも、単に将軍家の寵愛に取り入っただけの出世だったろうか?
 たかが五百石のそれも直参の家筋でもない武士が、いかにおべっかをつかい上様の御機嫌をとれはとて、十五万石の大名に立身できるほど幕閣は愚物ぞろいだったろうか? 諸大名は指をくわえて見ていられるのか?
 副将軍水戸光囲も当時は存命である。尾張(愛知県)には英主とうたわれた徳川光友もいる。戦国乱世なら知らず、泰平の世に一軽輩がおべんちゃらだけで大名になれるほど、世間は甘くはない。もちろん、綱吉のころから将軍権力の独裁化の傾向はみられた。
従前は譜代大名の筋目に限られた将軍側近への登用が、綱吉の代になって外様衆にまで及んだのは事実である。だ
が、幕府がいかに将軍専制政体とはいえ、おのずからな限度というものが当時はまだあった。柳沢吉保の異例の出世には、つまり侯臣であるだけではかたづかぬ理由があったのである。
 理由はふたつ。
 まず吉保が、じつはまれにみる凡帳面な、律義者であったこと。他は綱吉がきわめて倫理観念の強いインテリだったことである。
【柳沢吉保の父 安忠】吉保佞臣説の拠り所(五味康祐氏著 一部加筆)
 信俊の四男を十右衛門安忠という。柳沢吉保の父である。安忠は十三歳で秀忠に謁し、父の遺領百六十石を拝領した。大坂の陣には秀忠の手に属して働いた。のち駿河大納言忠長(三代将軍家光の弟)に付けられた。この忠長が、いわゆる乱心・自殺の事件をおこしたため、家臣らは責を負って公儀を遠慮し、安忠もー時浪人していたのを、寛永十六年(一六三九)十二月、家光にゆるされて再び百六十石の采地を賜わり、御広敷番をつとめた。慶安元年(一六四八)には七十俵を加増されて三の丸の御広敷番頭となり、のち当時は館林殿と称された綱吉(家光の第三子)の勘定頭をつとめてしばしば加恩あり、五百三十石を得るにいたった。この安忠は長命で八十六歳まで生きている。でも五百三十石取りでは幕臣としては下級にちかい。

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