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はくしゅうジャーナル
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〔白州の民話・伝説〕 熊公あらわる(実話)
昭和二十二年五月のこと、花水の釜無川原の田へ、台ヶ原から水見に行った人がありました。朝も薄暗かったので、自分の田の水口で子供らしいのが、いたずらをしているようなので「お前はそんな所で、なにをしているだ」と、声をかけたところ、それは仔熊だった。
やにわにその人に飛びかかり、顔面を引き掻いた。驚いて血を流しながらも逃げ帰り、救いを求めました。 その人の悲鳴を聞いた菅原(旧村名)では、すわ大変と、猟師総動員で釜無川原を探したところ、釜無橋附近のアカシヤの茂みの中から、仔熊を追い出し、見事討ち取ってほっと安心しました。 その後、昭和三十年ごろ、今度は五頭の親子づれの熊が白須に現われ、一頭はある家の座敷を俳回したり、他の熊は付近の畑を荒すなどして、集落の人々を震えあがらせました。 猟師たちが警戒する中で、林務事務所のオリに、仔熊を生け取りにしてから、熊族はいずれかへ姿を消してしまいました。(町誌 内藤末仁) |
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〔白州の民話・伝説〕送り犬 横手
昔、横手のある婆さんが、日暮れて中山峠の道を、家に帰ってきました。すると火のような目を光らせた山犬が、あとになり先になりついてきました。ときには足に絡みつきそうなまでに側にきました。 婆さんは、こわくて、こわくてたまらないが、誰も助けてくれる人はいないので、うしろを見たり、ころんだりすると、たちまち犬にかみ殺されますから、気をつけて、やっと、自分の家までたどりつきました。山犬もはなれずに来て、戸間口にすわっています。 婆さんは急いで、飯一杯盛って出し「どうもご苦労様でごいした」と、礼をいうと山犬はそれを食べて、帰って行ったといいます。 世間では「送り犬」とか「送り狼」などといって、よく山犬に出あったようです。目が暗やみに強く光るので、タバコの火と間違えて「火を一つお借しなって」といって、きせるを出し、かみつかれた人もあったそうです。(古老談) |
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〔白州の民話・伝説〕お茶つぼの通行 台ケ原
ずいずい、ずっころばし、ごまみそずい、茶つぼに追われて、トソピンシャン
江戸も中頃、五・六人の女の子が輸になって、台ヶ原の本陣前の広場で無心に声を張りあげて、遊びに興じていました。 そこへあわただしく駈けこんで来た子供の親が「これ、これ、おめえだち、そんな唄がお代官様にでも聞えたら、ひどく叱られるぞ。さあ早くやめて、お宮の庭へでも行って遊ばっしゃれ」子供らは不承不承どこかへ散って行きました。 お茶つばの通行は、三代将軍徳川家光の時から始まり、街道の住民の迷惑をよそに、長く専横な振舞いが多かったといいます。 そもそもお茶つぼは、建久二年僧栄西が、中国へ留学のみぎり、茶の種を持ち帰って、肥前(佐賀県)背振山に植え、同時にお茶の製法を伝えました。 その後栄西は弟子の高弁に、山域の宇治に分植させたところ、良質の品を得たので、世に宇治茶として名をなすようになりました。 それから足利義政(東山時代)を経て、豊臣秀吉の治世にかけて、茶道が盛んになり、家光も心を寄せて、宇治を茶処に指定しました。 宇治茶は製品の半分を京都御所へ献じ、あと半分を将軍家として、江戸から立派な茶つぼ三個を送って、これに詰めるならわしになりました。 宇治の茶摘みは、八十八夜の三日前に行なわれ、茶師は上林家と同姓の五軒が、幕府から任命されました。この頭取格は毎年正月には、幕府へ出向いて「今年も将軍家へ上納のお茶には、毒はありません」という、誓約書を出さねばなりませんでした。 さて、茶ごしらえが済むと、江戸殿中の茶坊主三人が、お茶つぼを携え、それに徒歩士と、若干の手下をつれて宇治に赴き、最良のお茶を選びます。それが済むと斎戒沐浴した十三人の茶師が、つぼへ詰めて封印をするのですが、この作業がなんと三日間もかかるといいます。 これに対して幕府は、茶料として、大判三百三十五匁、銀三百九十一匁九分という大金を支払っています。このお茶は、一旦京都の愛宕山へ百日間納めると、東海道を経て江戸へ送りました。ところが東海道は潮風のため、茶が湿気を帯びるといって、将軍家継のときに、愛宕山へ貯蔵することはやめて、中仙道から、甲州街道に入り、郡内谷村の勝山城に納めることに変更しました。 それが済むと護送人は、ひとまず江戸に帰って、その秋再び谷村に来て、江戸に持ち運びました。 お茶つぼの通行は、最初は簡素なものでしたが、時がたつにつれて、本末転倒して幕府の威信を、示すための道中となりました。 それでお茶つぼ道中の前触れがあると、街道筋はにわかに忙しくなります。道路や橋の修理から、宿舎の整備など、それをお域番や目付役が、下検分をするという、諸大名の参勤交代と匹敵するようになってきました。 延宝九年六月十一日、お茶つぼ甲府通過の際は、馬百六十頭、人足千百六十一人が出動したといいますから、台ケ原宿でもかなりの人馬が、かり出されたことでしょう。 当日のお達しは △沿道田畑の耕作をしてはならぬ。 △車馬の通行は一切差し止めのこと。 △釜どの煙りは立ち上らせるな。 など、家の内外を釘づけ状態にして、お茶つぼだけの、桁違いな行列には、住民の強い反発がありました。 文書によると、台ケ原の田中神杜が、二回お茶つぼの宿舎になって、拝殿修造料として、そのたびに金十両宛渡されたとあり、韮崎町岩下でも宿舎をしたとあるが、どこの家だか定かではありません。 お茶つぼの通行は、評判が悪く、住民に大迷惑をおよぼしたので、享保八年四月、将軍吉宗はこの悪風を改め、お茶つぼは自粛して、最小限度の人数となり、谷村貯蔵所は廃せられ、直ちに江戸城富士見やぐらに納めるようになりました。 これにより住民は、長い間の苦役がなくなり、ほっとしたと伝えられます。(町誌内藤末仁) |
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〔白州の民話・伝説〕休馬が平 花水
《筆註—このお話は要注意、浅草、浅草寺の観音様は白州町の花水から》 浅草の観音様は、片田舎の片嵐から、花の都の江戸に遷され、静かな所から目まぐるしい都会にうつされました。 そして日毎に後の絶えない参詣者に、願いごとを聞いてやらねばなりませんでした。息づくひまもなく、数年経ってしまいました。 観音様も、故郷が恋しくなって来ました。豊かな自然の景色・素朴な住民・これらが観音様のお心をゆさぶりまして、ついに観音様は馬に乗って、浅草をお出掛けになりました。夜を日についで観音様は故郷に帰ってこられました。 旅の疲れもさることながら、先ず気にかかることは、自分の前の住居の跡でした。さぞかし荒れ果てたろうと、眺めたときに驚きました。 新しいお堂が建立され、新しい観音様が迎えられ、自分の後目はちゃんと、相続されていました。観音様は新しい観音様と心ゆくまで、お話を交わしまして、心置きなく浅草へお帰りになりました。 その観音様が、滞在中御乗馬をつないで置いた所が「休馬が平」といい、大堂の東方に二十坪くらいの芝地があります。(清春村誌) |




