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白州町の誕生
日本列島の中央部、本州の屋根ともいわれる南アルプスのなかに雄姿を見せている駒ケ岳連峰と、そこを源流として流れ出て、北方に答える八ケ岳の火砕流を削りながら七里岩の断崖を形成して流れる釜無川と、南は大武川に包まれた地域が自州町である。
白州町は昭和三十年七月一日に、旧鳳来村、菅原村の全部と駒城村の横手、大坊および一旦長坂町となった旧清春村の花水が分町合併して誕生した町である。
花崗岩で形成された駒ケ岳山地より、大武川、尾白川、神宮川(旧濁川)等が流れでて堆積した真白い砂が一扇状地を造り、大きな洲をなしていることから白州町の名が生まれた。
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白州町の観光
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白州町台ケ原 荒尾神社百観昔供養塔
安山岩製で高さ一、六四メートルの四角柱で、四方の上部に金剛界の四仏を梵字で示し、その下部に雛健な刻りがみられる。
ウーン (阿閤) 坂東三十三所
タラーク(宝生) 当国三十三所(甲州)
キリク (弥陀) 西国三十三所
アク (不空成就) 一懸一秩父三十四所
いわゆる百観音に加えて、甲斐国札所三十三観音の供養のための造顕である。無銘たがら簡単で要を得た遺品である。
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白州町大武川 福泉寺仁王般若供養塔
この塔は七難減除のための造顕とされる。『仁王経』には二本あるが、これは旧訳の『仁王般若波羅密多経』(二巻)であろう。挑泰の鳩摩羅什(三四四―四一三)の訳で、仏が十六大国王のために、それぞれの国を護り、安穏にさせるため、この経典を受持することをすすめたものである。それを受持講説すれば、七難(日月・星宿の里(変・災火悪風・早天・悪賦など)をなくして万民が豊楽を得ると伝えられ、『法華経』『金光明経』とともに護国二部経として、わが国では古くから読誦されてきたものである。
この塔は基礎の上に四角柱の塔身を立て、上部に宝珠をいただく屋根をのせたものであるが、降り棟の曲線といい、垂直に近い内斜に切られた軒や、わずかにみせる軒反りなど、江戸中期の代表的な供養塔の名にはじない。正面に刻銘がある。
「奉読謂仁王般若経二千部 享保五庚子年三月吉日」子孫繁昌善男善女のため、名取仁左ヱ門が建てたものである。
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白州町鳥原 福昌寺大乗妙典供養碑
町内どこの集落にも神仏に祈りを捧げて、無病息災、招福延寿、子孫繁栄、後世菩提と和平安穏の暮しを求めたことは、昔も今も変りはないが、とくに古人の切なる願いが、多くの石造遺品からうかがわれ、何の記録もない時期の文化相を明らかにすることができる。
鳥原・福昌寺の大乗妙典供養碑(正徳五年・一七一五)、
大武川・福泉寺仁王般若供養塔(享保五年・一七二〇)、
台ヶ原・荒尾神社百観音供養塔(無銘)、
上教来石巡礼供養塔(宝永四年・一七〇七)、
花水・清泰寺六字名号碑(明和五年・一七六八)、
自須・自元寺念仏講碑(元禄一一年・一六九八)などの遺例がある。
福昌寺のいう「大乗妙典」とは『妙法蓮華経』のことで、多くの大乗経の中で最上微妙のこの経を信じ、その功徳を得ようとするものである。碑の下部に蓮座を陰刻、碑面を一様に窪め、最上部に梵字で弥陀三尊(キリク・サ・サク)を現わし、中央に「奉読誦大乗妙典三千部」を挟んで、左右に「正徳五乙未歳霜月吉日願主恕林」、 なお、蓮座を中心にして「鳥原村 □人」と彫り出された優作である。
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白州町花水 清泰寺青面金剛像
室町時代から江戸中期にかけて、とくに庶民の問に盛行をみた土俗信仰の一つが「庚申待」で、古くは藤原時代、王朝文学にも散見される思想である。その歴史は神道・仏教・修験道あるいは富士講その他、多くの雑信仰を包摂、大衆生活に浸透したが、要は招福延命への願いであった。
祀る本尊は不定で、時代的に変化し、弥陀であり、釈迦であり、地蔵であり、また、帝釈天でもあったわけである。遺物によれば江戸初期寛永以降、主として「青面金剛像」が表面にあらわれ、三猿形神も目に触れるようになった。
白州町では、上教来石・諏訪神杜境内の石祠の正面に左右一対「申」の陽刻があり、「延宝六年午十月吉日」(一八七八)の銘がある。午歳ではあるが、初期の庚申祠として注目される。
白須・法全寺碑は〇、八五メートル。無銘であるが四臀、二猿、二鶏、二童児を示す。
松原・諏訪神杜近傍には、正徳四年(一七一四)の地蔵と並んで、無銘ながら一面六臀、上部に日月、下部の座に三猿を刻出、二鶏は欠くがほぼ完好に近い青面金剛碑が拝され、第一手は胸前で合掌、左右の第二、三手はそれぞれ輪宝、弓箭など持物も完備している。
このような流れのなかに造顕された清泰寺青面金剛塔は、宝暦十二年(一七六二)の供養で、総高一、三メートル、安山岩製である。構造は反花付の基礎に蓮華の座を重ね、四角柱の塔身を立て、正面に飛鶴を兎毛通とする軒唐破風付宝形造の屋根を設け、塔所刻の主尊を雨露から保護している。なお屋上には露盤・宝珠が載せてある。碑面をわずかに窪めて彫出した六特の像容もすぐれたもので、この期における庚申塔を代表する優作といえよう。敷茄子の欠失が惜しまれる。
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