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白州町【尾白川(日本名水百選)】釜無川・大武川・神宮川・田沢川
駒ケ岳頂上より北、鳥帽子岳付近を源として流れる尾白川は、噴水滝、 ハシゴ滝、ヒョウタン渕、不動滝、神蛇滝などの名瀑をつくりながら、深い峡谷を流下し竹宇区に出て、平地を削りながら台ケ原の下で釜無川と合流する。
大武川もまた駒ケ岳の南、仙水峠付近を源として武川町との境界を流下し、ヒョングリ滝・赤薙の滝などの名瀑をかけながら、大坊区を経て釜無川に合流する。最近その美しさで注目された篠沢大滝もその支流篠沢川にかかっている。またやはり支流である滝道川もきれいな渓谷美をつくり、平地に出てから大きな扇状地をつくって横手、大坊区はその上にある集落である。田沢川は平素水量の少ない川であるが、尾白川、神宮川と大きな複全扇状地を形成し、前沢、白須、竹宇の集落はその上に存在している。
神宮川は以前濁川と称されていたが、平素ほとんど水のない川も一度豪雨となると、その流域がけわしいために忽ち濁流となって流れることから濁川と称されたものであろう(これは細かい花崗岩が転がりそれが遠くで見ていると濁って見えるから)。サントリー白州工場の出現により改名され神官川となった。毎年明治神官に神官川の真白い玉砂利を奉納することからその名称が生まれたのである。
流川、加久保川等もそれぞれ山麓に扇状地をつくり、かんがい用水に利用されながら釜無川にそそいでいる。
 
白州町【昭和五十七年の台風「ミニ・グランドキヤニオン」】
昭和五十七年八月一〜二日の台風一〇号とそのあとの低気圧による大雨、同年九月十二日の台風一八号によって増水した釜無川の、きわめて急激な浸食作用によって、 一夜のうちに釜無川にすばらしい峡谷が出現した。アメリカのコロラド河が刻んだグランドキャニオンにまねて「ミニ・グランドキヤニオン」と呼ばれ一観光ブームにわいた。
およその規模は、峡谷になった部分で幅一〇数メートル〜六〇数メートル、産の高さ数メートル〜一二メートル、延長一七〇〇メートルである。この峡谷の中に滝あり、駈穴あり、また糸魚川・静岡構造線の見事な断層面の露出、水平に幾重にも積み重ねられた地層と泥炭層の断面、一万年以上前と思われる樹根の化石群と、それらの樹々からと予想されるトウヒ・モミなどの球果や種子の化石など学術的にも貴重なものが露出した。
白州町の地質【釜無川】
釜無川は釜無山の東部から源を発し、大武川集落附近で逆の方向をとり、神宮川、尾白川、大武川など、駒ケ岳山地より流れ出す水を集め水量が多く、上流の信州落合部落標高七五五メートル辺から韮崎市の塩川合流点標高三二五メートルまで水平距離七キロメートル余、高低差四三〇メートル、千分の一五のゆるい勾配で東南に向って流下し、発電や灌漑には重要な役割を果している。
山地の川として比較的緩やかなこの川も、 一度豪雨があると急激に増水し、支流である尾白川、大武川、神官川等の上流の風化して崩壊しやすい岩石を流して多量の土石流となって押し出し、七里岩の根を洗うようになり、七里岩の断崖を造型し、また時に不慮の大水害を起すこともしばしばである。
白州町の地質【八ケ岳火山裾野との間に北西―東南の断層線】
大武川と尾白川にはさまれた中山山地の東北方は、八ケ岳火山裾野との間に北西―東南の断層線に沿って釜無川が流下する。南方および西南方は大武川の浸食により急崖を造り、北西方は尾白川が東流して、その平面形は菱形をなしている。
この山地の東および北西山麓には丘陵地があって、東側では丘陵地との間に断層崖が認められている。この丘陵地は八ケ岳火山噴出物よりなるが、更に同火山噴出物は釜無川に沿って下流上円井附近まで連なっている。地形学的にも地質学的にも八ケ岳火山の延長であることがわかる。
この丘陵地の東方、釜無川河床との間には三段の河岸段丘が発達し、信州住還はその第二段を走っている。尾白川は更にこの段丘を浸食して更に新しい河岸段丘をその両岸に残している。
このように中山附近の多くの段丘地形を見ることは、巨摩山地全般の隆起と釜無川河床の低下、およびそれに続く尾白川、大武川等の河床の低下を考えなければならない。
 
柳沢吉保一代記 文昭日記(一部加筆)
 
宝永六年六月三日の項
甲府の城主松平美濃守吉保隠居す、子古里継ぐ(十五万千二百八十八石、二男経隆、三男時睦に、各一万石の地を分つ)
【吉保は柳沢兵部丞信俊の孫】
柳沢吉保は、甲斐の武田の支流にて、柳沢兵部丞信俊が孫なり。
【吉保の父。信俊が二男を、刑部左衛門安忠】
信俊が二男を、刑部左衛門安忠と云ふ。元和元年より駿河大納言殿につかへ、
寛永十六年にめし返されて、上総国市葉村にて朱地を賜ひ広敷番となり、
又館林殿につけられて、延宝三年に致仕し、貞享四年に死す。
【柳沢吉保】
吉保初名は弥太郎房忠といふ、後保明に改む。
寛文四年に初めて常憲公に見え奉り、父の後を継て百五十石を領し、三百七十俵を加ふ。
寛文八年に本丸の小納戸となり、
貞享二年の冬叙爵して出羽守に任ず。
是より先に、頻りに加恩ありて、
元禄元年十一月地加へられ、始めて万石の列となる(和泉上総にて万石加へられ、合せて一万二千三十石)
この比、公盛んに文学を好みて、吉保を以て弟子とし、学問怠らざるを賞して、曾子の像を画きて之を賜ふ。
天和二年の正月元旦、読書始の式を行はれしに、吉保をして、大学三綱領の章を講ぜしめ、永例として年々之を仕ること怠らず。此の時松平忠周、喜多見重政の列に同じく、内外の事承るべしと命ぜらる、御用御取次と云。
天和三年三月二十六日、二万石を増し、
天和三年十二月十五日、年比の勤労を賞して、四品にのぼり、二本道具もたすべき旨を命じ、
四年三月はじめて其の邸に臨む。これよりさき、邸内新たに殿舎を経営す、結構宏一麗、臨駕の日、母妻子及び一族等に至るまで、皆拝謁して物賜ふこと、あげて数へがたし。
吉保も亦数々の宝貨をささげ、山河の珍味をつくして之を饗す。
これより後、しばしば臨邸ありて、凡そ五十余度に及ぶ。
先親から経を講じ又は武芸を試み、家臣等をして経を講じ、義を論ぜしめ、又猿楽を催し、宴楽を開くこと、いつもかはらず。
元禄五年十一月、三万石まして六万三千余石になり、
元禄七年正月には、又一万石を加へて、川越の城主になさる。
元禄七年十一月二十五日、老中に同じく評定所に着座し、侍従に昇る。
元禄十年七月、東叡山に根本中堂営まれしに、惣奉行となり、二万石をくはへ、
元禄十一年七月、其の落成の功によりて、左近衛少将に昇り、中堂長時不断の燈をかかぐ。
これ延暦中比叡山の常燈を、忠仁公勅使として掲げられし例に倣はれし所也。
元禄十一年九月八日、紅葉山拝礼の先立を勤む。これより三山の拝礼に、父子代る代る先立を勤む。
元禄十四年十一月二十六日、臨邸の時、父安忠より以来、忠貞をつくすこと、
凡そ臣たる者の模範たるべしとの旨を以て、松平の称号をゆるされ、諱の字賜はりて、松平美濃守吉保と改む。
子三人も同じく称号をゆるし、長子安暉は諱の字賜はりて、吉里と改む。
元禄十四年十二月二十一日、吉保を少将の輩に列し、官位年順たるべしと命ぜられ、
元禄十五年三月九日、桂昌院尼を一位にすすめられしこと、吉保が申し行ふ所なればとて、又二万石をまし、合せて十一万三千三十石になる。
元禄十六年正月三日謡初の式に、吉保父子に大広間にて盃賜はるべしとぁりしが、吉保切に辞して、子吉里にのみ賜はれり。
元禄十六年十二月二十一日、将軍の儲嗣に定まりしこと、偏に吉保が執り行ふ所にして、何事も整備一事の欠漏なきを賞し、殊に甲斐の国府の城を賜ふ。其の税額は二十万石に余りぬれど、猶十五万千二百八十八石余と称す。
これより後は、甲斐国主と称すべしと命ぜられ、
宝永三年七月二十九日、甲府に於て私に金貨を造ることをゆるされ、九月四日に打物もたすることをゆるし、此の日隠居して保山入道と号し、此の後も時々の恩遇、在職の時に異ならず。歳毎の正月七日には、羽織着して登営し、大奥までもまかりて、御台所を拝すること年々かはらず。
正徳四年十一月二日卒、年五十七。
 
此の人の一代、殊に恩寵を蒙りて、身の栄燿を極めしことは、徳川氏勲旧、前後諸臣のなき所にして、威福を弄し奢多に耽りしこと、亦世の類ひなき所なり。但し性質伝才ありて、能く迎令に巧みに、陽に忠実を以て君の信を得、希代の寵遇を蒙りしは、偏に便嬖の致す所なり。されど性亦謹慎にして、敢て愚悪を肆ままにするの心あるに非ず、是其の始終君寵を
失はざりし所以なるべし(保山行実に、日々御登城被遊候へ共、暁六半時比、御城詰御小姓衆迄、御手紙にて毎夜の御機嫌御伺被遊候、又常に常憲公の為に、男子誕生あらんことを祈られし由見へ、又蔵人は、権現様の御名故、後々迄も、遠慮可仕旨被遊御意候とあり、是等の事、以て其の小心なることを推知すべし、又鳩巣の手簡に、瑞春院御前へ、保山事被罷在、御仕置之改り候事共、色々被申上候て、近年御徒之内何某、深川にて魚を釣、生類御憐みの御法を侵候に付、流刑に仰付置候、然る所、其2者を被召返、御赦免被成候迄にても無之、此の間上野へ御供も無構相勤候様被仰出候、是は余りなる事に御座候旨、被申上候所、瑞春院様屹度御詞を被改、扱は常憲院様近年の御政道、御尤なる事と被存候や、すきと箇様の事共、其の方など被致候事に候、此の度段々御改め被成候を、却て左様に被存候儀は、相聞不申儀と被仰候所、保山一言も不申、退出に候、云々とあるが如きも亦保山が心のほどを推測るべきものなり)
其の身文学に志し、又倭歌を好み、己が味草に、かしこくも東山院の勅点を乞ひ奉り、芳ら禅学を嗜みて、みづから著す所の書を、護法常応録抄と題して、院の御製序を賜はり、名山におさめ、又其の比堂上の中に識者と聞えし、正親町一位公通公の妹を迎へて妾となし、「松蔭日記」とて、わが身の栄華を筆記せしめ、駒込の別邸に十二景を設け、これをも院より名を賜はらんことを請ひ奉り、公卿の味歌を集めて清観となす。其の邸中の異樹珍石は、皆諸大名の贈る所にして、仮山泉水、悉く風致を極め、奢一麗を尽したりと云。
 
世には此の人の栄華を憎む心の甚しきより、くさぐさの訛謗を伝へて、涯褻僣乱のことありなど伝れども、其は皆信ずるに足らざる也。
 

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