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郷里が近くなった アサヒビール(株)韮崎高校卒業 副社長 米山武政氏
(『ザ山梨 武田信玄と甲斐路』読売新聞社編 昭和62年 一部加筆)
いよいよNHKの大河ドラマに武田信玄公が登場する。全国が信玄ブームに湧き、山梨のさまざまな風景や風俗が全国に紹介されることだろう。山梨を郷里にもつ私たちにとって、わくわくするほど嬉しいことで、今から待ち遠しいことだ。
中央官庁、政府機関に長く勤め、その後東京に本社のある民間会社に籍を置く私にとって、遠くにあって思うもの程度の存在であった山梨が、急に近くなるような出来事が今年は二つあった。
今年のはじめ、都内のホテルで旧制韮中・韮高の同窓会が開かれ、出無精の私も重い腰を上げて出席した。山梨から校長先生がおみえになってご挨拶されたが、思いがけずもそれが同級生の進藤慈成君であった。そのとき、進藤君から一度母校に来て後輩に何か話をしてくれないかと頼まれてしまった。
約束の七月九日、学校の間が近づくと私は躍る心を押えることができなかった。なにしろ、昭和十九年に学校を出てから四十数年間もご無沙汰していた母校だ。建物は大きく立派になったし、案内された校長室に掲げてある校歌も私たちが歌った「八ヶ岳おろし」とは違っていたが、私たちが青春をすごした母校がそこにあった。体育館をいっぱいに埋めた生徒たちは、私たちの時代と違って半数近くが女子生徒であり、下級生のあまりに幼い感じに始めはとまどったが、 一時間半、話を進めているうちに、壇上の私を見上げる少年たちの顔に私の少年時代が重なった。
軍国時代の私たちの学園生活は、今の豊かさとか自由な雰囲気という点では比ぶべくもなかったが、楽しい思い出に満ちた日々であった。むしろ、周囲の環境が厳しかっただけに一層この狭い学園の生活が充実していたのかもしれない。
復活した母校との縁はこれからだんだん深くなっていくような気がする。昭和五十七年に完成した中央道路は、山梨
県民にはかりしれないよい影響をもたらしている。この道路の建設の最後の段階から開通の時期に日本道路公団の理事として多少でも郷里の発展のお役に立つことができたことを誇りに思っている。
山梨県を貫く長さわずか百キロ属、投資額二千億円程度のこの道路が、山梨を首都圏や中部経済圏と結びつけて、経済後進県を経済先進県に変えている。この道路の完成後の山梨県民所得の成長ぶりは、毎年、全国平均のほぼ二倍になっており、四十七都道府県のトップクラスの成長率だ。経済企画庁の発表では、県民一人当たりの所得では昭和五十九年で山梨県はすでに全国の十七番目になっているので、新しい統計はまだ発表されていないが、現在では大幅に上位に躍進しているだろう。十年前の昭和五十年には全国三十七位で最下位グループに属していたことを思えば、目を見はる躍進ぶりだ。今年から国産ワインの分野に進出する方針を決めた私の会社では、その拠点を山梨県に定め、手はじめにブドウ生産の中心一宮町の高速道路沿いの高台で、交通も至便な場所にあるワインエ場を譲っていただいた。そして思いがけないことに、この九月から私はこの会社の責任者を兼ねることになった。地元一宮の町を挙げてのご協力をいただき、生産は順調にスタートしている。これからは、時々工場をたずねることになり、また工場からの報告で故郷の便りが聞けることになるだろう。この工場の規模は今のところは小さくて、山梨にある他社の大工場とは比較にならないが、時をかけて立派なワイナリーにしたいし、外国にあるようなシャトーもつくれたらいいと思っている。
九月に海外出張に出掛ける予定としていたが、急拠この予定の中にフランスやドイツのワインの名醸地の視察を追加するといったいれ込みようである。
東京生まれの東京育ちで父親の郷里、山梨をあまり知らない子供たちと一緒に、いつの日かこのワイン会社のシャトーから、春は桃の花のピンク色に一面染まり、秋は棚もたわわに実るブドウにおおわれた甲府盆地を眺望したいと思っている。
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白州町の観光
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父・根津嘉一郎 東武鉄道社長 根津嘉一郎氏著
(『ザ山梨 武田信玄と甲斐路』読売新聞社編 昭和62年 一部加筆)
山梨県人会の副会長をしている私が、生粋の甲州産ではなく、東京の生まれといえば他県の人の目には奇異に映るかもしれない。父に連れられてよく山梨に行った。トンネルの多い中央線では、蒸気機関車の煙に悩まされた。単線で、待ち合せとスイッチバックを繰り返し、五時間以上もかかって行った頃を思えば、中央高速道を自動車で一時間とちょっとで行けるのは、全く夢のような話である。
しかし、その頃の記憶も今となっては、春遠くの山すそに桜が棚引いているのが見えて、子供心に山梨とは美しいところだと思ったことぐらいになってしまった。その私が、今日まで山梨と強い縁で結ばれているのは血というより外はない。山梨県人は国にいる時は左程ではないが、 一旦外に出るとその結束は固く、互いに助け合うと言われるが全くそのとおりだと思う。
私の父、先代の根津嘉一郎は、現在の山梨市の正徳寺というところで生まれた。郷里の村長などを務めた後上京して、東武鉄道や富国生命はじめ二百数十の会社を興し、財界にあってはひとかどの働きをした人であったが、いわゆる財閥とも、政治ともかかわりを持たぬ独立独歩にその真骨頂があった。
その父を、私の目から見ても立派だと思うのは、私財を公共のために、あるいは文化のために惜し気もなく投じたことである。それらは今日でも、根津美術館や武蔵大学などとして社会に役立っている。また、郷里に対する報恩・感謝の念は、殊の外強かった。大水の毎に流されていた生家近くの笛吹川に、当時としては珍しかったコンクリートの永久橋をかけたり、さまざまな寄付を行なった。
昭和十年頃には、やはり当時珍しかったピアノを山梨県下の全小学校に贈った。この寄付は非常に喜ばれたとみえて、終戦後になって、このピアノで音楽を勉強されたという方々が音楽会を催され、私も招待され感激したことがあった。
先代はまた、「贔屓強い」人であった。他人の面倒は徹底的にみて、また頼りにもされた。戦後のいわゆる「保守本流」の中で桜田武、水野成夫、永野重雄さんと並んで「四天王」と呼ばれ、長い間財界の中枢にあった小林中さんもまた、山梨県の出身である。この小林さんも先代とは非常に近い関係にあった人である。
当時は、富国徴兵保険といった富国生命の支配人をしていた小林さんは、郷誠之助さんが主宰する財界グループ「番町会」の若手メンバーになって、永野護、河合良成、正力松太郎さんらの間に交遊を広げていった。この番町会が昭和九年、 いわゆる「番町会事件」とも「帝人疑獄」とも言われる疑獄事件に巻き込まれたのである。この事件は裁判の結果、全員無罪になるのだが、この時の先代と小林さんのとった態度は、いずれも甲州気質の典型を示しているように思う。
小林中さんは、この時「他人に迷惑をかけるわけにはいかぬ」と、取り調べに対し一切しゃべらなかったという。こういう「侠気」を重んずる気風が確かに甲州人には強い。このことが財界の長老、先輩、朋友間に「若いが骨のある男」と評価され、後々まで深い信用を得ることになった。この時、小林さんは二十代半ばの若さであった。
一方、先代は「贔屓強い」と言われた本領をいかんなく発揮した。物心両面の援助はもちろん、裁判に証人として立って、徹頭徹尾、小林さんをかばった。それはまるで、父親がわが子をかばうようであったと評された。事件に連座した河合良成さんは、その時の様子を著書の中で「さながら慈父の如し」と記している。私にとっての「故郷・山梨」は、そのようなものとして、父や諸先輩の姿を通して私の心の中にあるのである。
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私のバックボーン 日本貿易会会長 水上達三氏(韮崎市清哲)
(『ザ山梨 武田信玄と甲斐路』読売新聞社編 昭和62年 一部加筆)
私が三井物産に、東京商大を卒業して入社したのは、昭和三年のことであったから、昭和の時代のほとんどを商社マンとして過ごしてきたことになる。この激動の時代を生き抜いてきた私のバックボーンの一つは、まぎれもなく生まれ故郷、甲州の歴史と風土によって形づくられたものである。
私が生まれたのは、富士川の上流、釜無川が塩川と合流する韮崎に近い清哲村という小さな山村である。この村は、現在は韮崎市に編入されているが、甲斐駒ヶ岳の麓にあって南に富士、北に八ッ岳を望み、そしてまた東に新府の城跡が見える。
言うまでもなく、新府城は武田勝頼が信虎以来住み慣れた躑躅ヶ崎の館を棄て、信長・家康連合軍を迎撃せんと築いた城である。しかし、勝頼はこの城をも放棄して落ち延びていかねばならなかった。
さらに、村の宮地というところには武田家代々の氏神である武田八幡神社があった。小学校の先生や村の老人もまた折にふれ信玄を語ったから、自ずと子供心にも戦国の昔に思いを馳せることが多かった。
生家は古い農家で、私はその五男坊であった。高等小学校の一年を終えると甲府中学に進んだ。武田八幡の脇を通って新府城を仰ぎながら、その下にある韮崎の駅まで約一時間、それから甲府まで汽車で二十分。だから、毎日住復ではおよそ三時間半かかって通うのである。昔のことで、この汽車の駅に出るまでが一苦労であった。広い釜無川の河原を歩いて渡らなければならない。冬ともなれば、名にしおう八ツ岳颪がまともに吹きつける。
当時、靴は高価で確か二円もしたが朴歯の下駄は八銭であった。この石ころ道を靴で歩いてはたまらないので、みな下駄で通った。真冬でも素足である。油断すればすぐ足をとられて捻挫する。否応なしに足腰が強くなり、大学に進んでからも陸上競技の選手に引っ張り出された。
また、夏は酷暑、冬は八ヶ岳下しの吹きすさぶ盆地の激しい気象は、文字どおり私の気性にも影響を与えているようだ。
旧制の甲府中学は、意外に思う人があるかもしれないが、札幌農大のクラーク先生の伝統を引く学校であった。第一期生でクラーク先生の高弟、大島正健先生が、名校長の名をほしいままにされ、その遺風が脈々と伝わっていたのである。その影響もあって、私は外交官か商社マンとして広く世界を相手に活躍することを夢見た。かつて、郷里の先輩の多くは横浜、東京を舞台として個人で財を成し、「甲州財閥」と称された。
甲州財閥というものが実際にあるわけではなく、甲州出身の財界人をそう称するのである。彼らは、独立の気慨をもって「足と明かり」言い換えれば、鉄道と電力(交通とエネルギー)を一時支配し、東京を「制した」感さえあった。しかし、私の中学生時代には、第一次世界大戦が起こり、遠くヨーロッパの戦乱が日本にも無縁でないことを体で感じていたので、
なんとなく外国に関係の深い仕事を夢みたようだった。それはまた時代の要請でもあった。戦後になると事実、郷里の先輩小林中さんは日本開発銀行総裁として、世界の中の日本経済はいかに発展しなければならないかという立場で大きな仕事をされたし、浅尾新甫、小佐野賢治、小林宏治さんらもみな同じである。
こうして、三題噺めくが、甲州の風土と武田の歴史と甲州中学とは今日の私を形づくっているといって過言ではない。そして、 いささか他人とは異なった経験を積んだ目で見れば、武田信玄という人物は実に今日的で、その為政の理にかなっていることに驚かされる。一つだけ例をあげれば、あの「甲州金」である。甲州金については、いろいろと論じられているが、これは、私は信玄の為替政策であったと思う。信玄は金山開発に意を用い、甲州小判は、金の含有率が意図的に高くしてあった。このことによって、他国の通貨との交換レートが高くなるようにしたのである。つまり、今日で言えば円高政策である。これが輸入に有利であることは言をまたない。
山国で必要な物資を他国に頼らざるを得ないことは、今川の塩止めのエピソードに象徴的であるが、この政策によって輸入する側の甲州では大きな差益を得たわけである。
信玄といえば、ただ戦上手な戦国の武将と思っている人が多いが、その本質は優れた為政家であったと思う。戦争はしない方がよい。する場合には必ず勝つという考え方であったという。このことがまた信玄の強さの秘密であり、今なお人を魅了して止まないゆえんではなかろうか。
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いま、故郷のために尽くす 関西経済連合会名誉会長 住友金属(株)名誉会長日向方齊氏(西八代郡久那土村車田出身)
(『ザ山梨 武田信玄と甲斐路』読売新聞社編 昭和62年 一部加筆)
地元の尋常高等小学校を卒業後、すぐ横須賀の海軍工廠で働くために山梨を離れたのは十四歳の時である。もう、三分の二世紀も前のことになる。
郷里は西八代郡久那土村車田で、現在は武田信玄の隠し湯で有名な下部温泉のある下部町に編入されている。車田は峡南と呼ばれる地域で、山梨県を南に流れる富士川の峡谷地帯で四方を山に囲まれている。平地が少ないうえに寒暖の差が激しい、 いわゆる寒村である。
当時は、私の村から甲府に出るには三里程歩して富士川を渡り、鰍沢からは鉄道馬車で二時間ぐらいかけて行かなければならなかった。身延――甲府間に鉄道が開通したのは私が東京大学に入学したころである。
遠出といってもせいぜい日帰りの修学旅行で下部温泉や鰍沢に出かけたくらいである。思い出に残る景色といえば、四尾連湖。遠足で一度行ったきりだが、御坂山地が富士川に落ちる西端、蛾ヶ岳の山懐に抱かれたその神秘的な姿に深い感銘を覚えた。
子供のころの食べ物はふだんの主食が麦飯、米のご飯は祝日だけ、たまに町から買ってきてもらう塩鮭が何よりのごちそうだった。また、冬、炉端でつつく″ほうとう″は母の味であり、飽の″煮貝〃も好物であった。
こんな不便な車田の集落には、七、八十戸が身を寄せ合うように立ち並んでいた。今からみると、いかにも貧しい生活と思われるが、当時の車田ではみな似たようなもので、これといって苦労したという記憶はない。家計の足しにと、休日にはよく裏山の木を切り出してまきをつくり、隣村まで売りに出かけたものだが、これも校庭の二宮金次郎の銅像を気取ったりしてむしろ楽しい思い出であった。
村は豊かとは言えなかったが、教育、文化には熱心だったと思う。大人同士で短歌の会をつくったり、子供の間でも車田文芸会などと称し、月一回作文、習字、絵などを書き、それを先生に添削指導をしてもらっていた。
小学校は久那土尋常高等小学校。同級生は男二十五人、女二十人で一学年一学級の小さな学校であった。私はここで生涯の教えを得ることになる。
校長先生は古明地文吉先生で、まだ二十歳そこそこであったと思うが、非常に卓見に富んだ人格者であった。毎週一回の朝礼で、「日本は日露戦争に勝ったけれども、たくさんのお金を外国から借りている。これを百円札にして積み上げてみる
と、富士山の何倍にもなり、横につなぐと地球を何回もまわれる。だから、みなさんは大きくなったら、このお金を返せるよう、お国のために一生懸命働いてください」と、 いつも同じお話を繰り返された。″お国のために尽くす″という教えは、のちに私が大学卒業後に就職した住友の″事業を通じて国家社会に貢献する″という理念と同じであった。
最近、私が関西経済連合会会長として、全力を尽くして実現にこぎつけた関西新空港の建設や、関西文化学術研究都市など二十一世紀に向けて日本の繁栄の基盤となる国家的大事業の推進にあたっても、この教えは大きな励ましとなった。
「三つ子の魂百までも」というが、″お国のために尽くす″という小学校の校長先生から受けた教えは、長年にわたる事業や財界活動を通じて、いつまでも心の支えとして私の中で生き続けている。
私は郷里に帰るたびに校長先生のお墓に参り、「先生、少しはお国のためにがんばっています」と心の中で報告している。
このような精神的支えとともに、山梨県から受けた奨学金も終生忘れられない。私は横須賀に出た後、働きながら高等学校の入学資格試験に合格し、東京高校、東大へと進んだ。その間、経済的に最も苦しかった高校から大学にかけての四年間、山梨県からいただいた年間三百円の奨学金は私にとって天の助けであった。
今日、私がまがりなりにも国家、社会のためにお役に立つことができるのも、このような郷里、山梨県から受けた物心両面にわたる支えがあったからである。私は知事の望月さんとも懇意にさせていただいている。時々、県の経済政策などについて相談にあずかったりしており、昭和五十四年には県から県政特別功労者に推挙していただいた。これから少しでも山梨県にご恩をお返しするために、県の発展に微力ながら尽くしていきたいと思う。
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山梨と私 甲斐に寄せる想いと育まれる精神 金田一晴彦氏著 先生の祖は武田家
(『ザ山梨 武田信玄と甲斐路』読売新聞社編 昭和62年 一部加筆)
八ヶ岳山麓の閉居 国語学者 金田一春彦
私は山梨県北、八ヶ岳南麓に建てた山荘で、この二十年間夏休みを過ごしている。小海線の甲斐小泉という駅から北へ歩いても十分ばかり登ったところで、第一にここは涼しくていい。暑い時でも、 へやの中は二五度以上にはならず、さわやかな風が吹き込んでくる。
また、このあたりの水は、日本百名水の一つだというだけあって、冷たく甘い。
それから、ここは眺めがいい。右前方に甲斐駒・鳳凰の峨々たる峻嶺が並び、日本第二の高山と言われる。北岳も後ろからちょこっと覗く。左前方にはすぐ、茅ヶ岳という裾野の長い山が、うちの山のようにすぐ近くにあり、その彼方には、天気がいいと麗峰富士の端正な姿が望まれる。
私がこのへんの土地を買ったのは二十年前なので、簡単に千五百坪が手に入った。その大部分は雑木林で、 コナラ・クリ・クルミの中に、 マツ・カラマツ・サクラがちらほら混じっている。ここは小鳥やリスの住み家で、また当時は、家は私のところ一軒しかないので、ホトトギスやジュウイチが降るように鳴いていた。このごろでも、ウグイスやカッコウはまだたくさんいる。
私の山荘はこの一画にあり、四間の三階屋であるが、前方が草原の庭になっていて、五月ごろからアヤメやレンゲツツジが咲き乱れ、夏のころはキスゲやヤナギソウが咲いて目を楽しませてくれる。
私は今年は七月末に、長男に車で夏休み中の仕事の資料を運ばせ、九月中旬まで滞在して原稿を書いていた。これは、来年一月に岩波書店から『新版。日本語』という名で刊行される予定であるが、とにかく新聞も来ず、郵便の配達もないところであるから、原稿の執筆には絶好のところだ。
ところで、私はどうしてこの八ヶ岳山麓に居を占めるにいたったか。直接のきっかけになったのは、鳥博士、中西悟堂先生のお言葉である。
「私は日本中歩いたが、 一番野鳥の声の豊富なところは八ヶ岳南麓だと知ったので、最近土地を買った。将来、家を建てるつもりだ」と言われたことにヒントを得て、昭和四十年、今の土地を買ったものだった「中西先生のおところからは、歩けば二十分ぐらいのところである。が、もう一つ私は八ヶ岳山麓に住みたいと念願した原因がある。
◇山梨県が私の父祖の発祥の地
それは山梨県が私の父祖の発祥の地だという伝えがあるからである。
私の父、金田一京助は岩手県の盛岡市の産で、″金田一〃という苗字は岩手県北に、今、金田一温泉という名の東北線の駅がある。そこから出たものと聞いている。京助が亡くなった時に、親しい人が集まって、『金田一京助先生の思い出の記』というものを編集してくれ、三省堂から刊行されたが、その中に金田一温泉きっての名門旅館緑風館の社長の五日市栄一氏が、金田一家の家系に触れている。
それは金田一温泉の地に伝わっている伝説によったらしいが、人もあろうに、甲州の武将武田勝頼公が田野で亡くなった時にその息子のなんとかというのが逃げて南部家に仕え、金田一の地をもらい、金田一を姓として後世に至ったというのである。
勝頼には、信勝という息子一人しかおらず、それは勝頼と共に田野で自害しているから、全然信を置けない言い伝えであるが、金田一家が武田家の別れだということは事実らしい。
岩手県庁が編集した『岩手県史』という大部の本があるが、その″中世篇〃を見ると、武田の一族彦二郎というのが川中島で戦死をした。その息子の駿河というのが、岩手県まで逃れて、南部家の家来となった。駿河が南部家をたよったのは、南部家が甲州南部町から出た家で、いわば武田家の別れだったからである。南部家には、主家の別れならというわけで、今の金田一温泉のあたりに住まわせた。金田一という苗字は、その時についたらしい。武田彦二郎というのは、『続群書類従』
の″系図篇″で調べてみると、ちゃんと武田信玄の従弟として載っている。これが金田一家の祖先だ。
金田一家の系図は、岩手県史に途中まで出ており、あとは私の家に写しの写しがあるが、一番の本家は、二戸群の山奥赤沢というところに帰農して、いかにも古風な家に住んでいる。そこの家の家紋が武田菱であることを知った時は、私は感激した。私の家は分家の分家なので、妙な抱茗荷(だきみょうが)のような紋を使っていた。そういうわけで、私は山梨県というところは、遠い先祖の生まれたところと思い、以前から慕わしい気持ちをもっていた。そこへ中西先生のお話があったので、すぐに行動を開始し、甲斐小泉に小宮山福二さんという林業をやっている親切な人を見つけ、土地を世話してもらったのである。
小泉に住んで二十年ともなれば、近所の人たちとも親しくなった。さらに、甲府をはじめ山梨県の各地にも親しい人ができた。人は、一般に真面日で、働きもので、私にはそれが好ましい。おまけに親切であるのがありがたい。私は、東京の勤めがなくなったらいっそ小泉へ本居を移し、先祖のことに思いを寄せながら原稿を書き、ここで生を終えようかなどと思ったりする。
随分たくさんの親しい人ができたが、二人名前をあげると、一人は今の小宮山福二さん、もうひとりは勝沼の町でブドウの栽培や馬種改良に努めている土屋長男さんで、私はよく東京から小泉への往復にお寄りするが、そのたびに今度はこんなブドウができましたとか、こんな飲み物ができましたと言って、まったく損得の観念なしにサービスしてくださる。昔、武田勝頼が田野で最後を遂げる時に彼のために奮戦してくれたのは、崖の上の細道で左手に藤蔓を握り、右手で寄せ来る敵を
なぎ払ったという土屋惣蔵と、勘気を蒙って蟄居の身でありながら主の身を案じて馳せつけた小宮山内膳だった。
私は今、小宮山さんと土屋さんのお世話になっていると、自分が武田勝頼になったような気分になるが、うっかり口に出したら、お二人からいい気なもんだと失笑を買うことであろう。
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