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◇白州町の歴史 甲斐源氏の総領石和五郎信光・小笠原長清(『白州町誌』)
信義の同族で生き残ったのは、信義の末子石和五郎信光であった。武田の惣領職についた信光は鎌倉幕府に忠誠を尽し信頼が厚かつた。源実朝暗殺を機に 将軍政子と執権北条義時が幕府の実権を握った。朝延は源氏幕府が断絶を機に朝権の回復をはかろうとして承久の乱が起った。
承久三年(一二二一)六月、この乱は北条軍の圧勝で終り、幕府は仲恭天皇を廃しい後鳥羽上皇ら三上皇を遠流に処し、討幕に加わった公卿・武士団を処断した。このとき東山道大将軍として五万余騎を率えて出兵したのが石和信光と小笠原長清であった。信光はその軍功によって安芸の守護に任ぜられ、長清は阿波の守護に任ぜられた。その後信光の子孫が代々石和(川田)の館に住み甲斐の守護となっている。
◇白州町の歴史 武田氏の盛衰(鎌倉から室町へ) (『白州町誌』)
 
平家を滅ぼし、鎌倉幕府の創建に甲斐源氏が果した業績は大きかった。だが甲斐源氏が強大な兵力を擁し、駿遠一帯にも勢力を拡大したことについて頼朝は恐怖を感じ、これを警戒し圧迫してくるのである。頼朝は武田一門に謀叛の動きありとして信義に圧迫を加えてきた。その疑惑に対し信義は誓書を提出して誤解を解いてもらつたが、その子一条忠頼は頼朝に招かれ鎌倉で謀殺された。やがて信義も駿河守護を解かれ、文治二年(一一八六)二月九日、悲運のうちに五九歳で世を去った。
安田義定も遠江守護を解かれ、建久五年八月嫡男義資の些細な問題で、安田氏に反逆の事ありとして梶原景時を将とする幕府軍が甲斐へ攻め込み安田軍と戦ったが、義定は藤木の菩提寺放光寺で自刃して果てた。時に年六一歳であった。さらに一条忠頼の弟板垣兼信も梶原の手の者に謀殺された。その弟有義は頼朝の死後梶原と組み、後任の将軍をめぐって画策したが発覚して梶原一族が滅亡した正治二年(一二〇〇)正月行方知れずとなった。
◇白州町の歴史 武田氏の興隆 甲斐源氏の中央進出(『白州町誌』)
九月十四日信義らは甲斐に帰り逸見山(谷戸城)に宿営した。このとき翌十五日北条時政が訪れ、頼朝への協力を要請した。信義は即答を避け、逸見山を出て信義の五男信光の拠る石禾()御厨に到り宿営した。その夜頼朝の使者土屋宗遠が来着、情勢が好転して安房、上総、下総三国の武士がことごとく頼朝に属し、いま上野、下野、武蔵の精兵を従えて駿河に向け出馬
の準備中である。甲斐源氏も急ぎ駿河の黄瀬川まで来会されたいと申し入れ、甲斐源氏の決断を促した。
熟議のうえ甲斐源氏も頼朝に協力し駿河に参陣することに決した。武田信義は四人の子息(忠頼、兼信、有義、信光) 安田義定、逸見光長、河内長義らを率い、十月十三日に甲斐を出発して駿河に向った。路を若彦路にとり南進した甲斐源氏一党は、鉢田の辺(朝霧高原)で駿河国目代橘遠茂の率いる大軍と遭遇したが力戦の末これを破り、遠茂を捕虜とした。
十月十八日、頼朝の黄瀬川の陣に着く、越えて二十日頼朝は陣を富士川の東岸に近い賀島に進めた。その南は富士沼である。平家の総帥平維盛は副将平忠度、同平忠清らと富士川の西岸に陣していたのである。
武田信義は夜が更けると兵をひそかに平氏の陣の後方に回らせて襲おうとした。このとき富士沼に眠れる水鳥が驚いていっせいに群り立ったので、敵の夜襲と信じた平氏の陣営は騒動して収拾がつかなくなった。
平軍の将平忠清は機を誤ると退路を絶たれる恐れがあるとして退却すべしと主張し、維盛以下これに従い、夜中に陣を撤して京都に向って引き上げた。
二十一日、頼朝は甲斐源氏の功を賞し、武田信義を駿河の守護、安田義定を遠江の守護に任命した。駿遠両国は源氏勢力の最前線で、平氏に対抗するには強力な勢力を必要としていたのである。
二十三日、頼朝は緒戦以来の功労者二五人を行賞したが、勲功第一は北条時政で、第二が武田信義、第三が安田義定であった。その後信義、義定ら甲斐源氏の将兵は京に上り源平合戦に参戦する。
一の谷の戦においては武田有義、板垣兼信らは大手大将軍範頼に属し、安田義定は揚手大将軍源九郎義経に属して大功を挙げ、甲斐源氏の軍団は天下無双と思われた。
白州町の歴史 武田氏の興隆(『白州町誌』)
◇白州町の歴史 武田氏の興隆 武田信義
清光が世を去ったあと甲斐源氏総領職は、嫡男逸見光長がつぐべきであったが、光長は温厚な長者ではあったが英雄の素質にはやや欠けるものがあった。弟の信義は天性気宇宏大、智謀に富み、民政にくわしく、統率の才にたけていたので、清光が没すると甲斐源氏総領職を光長から信義に譲り渡した。
武田庄に拠った信義はここに居館と要害城(自山城)を築いて活動を開始した。この地域の北、武川庄は官牧真衣野牧の故地である。優秀な軍馬を確保した信義は武田。甘利の両庄を固め、国中地方に進出して行くのである。
 
清光
―光長(逸見太郎 上総介)
―信義(武田太郎 駿河守護、光長と同日生)
―遠光(加賀美二郎 信濃守)
―義定(安田三郎 ヽ土込江守)
―清隆(平井四郎)
 ―長義(河内五郎 対島守護)
―厳尊(曾弥禅師)
―義行(奈古十郎 八条院蔵人)
―義成(浅利与一)
―信清(八代冠者)
―義氏(利見与一)
―道光(修理亮)
―光賢(修理亮)
 
清光の子は系譜の通りで、鏡次郎円光、安田次郎義貞(二人はなお子という)をはじめ十二、三人に及び峡西、峡東地方に進出し勢力をはっていた。
信義の嫡男忠頼は武略と統帥に長じ、穂坂、志麻、 一条、稲積の諸庄を経略して一条庄の一条小山(今の舞鶴城)に居館を構え一条次郎と称した。三男板垣兼信(板垣三郎)、四男逸見有義、五男石禾信光とも傑出した武将であったから信義の勢威は強大なものであった。
治承四年(一一八〇)四月九日、高倉宮以仁王の発した平家追討の令旨は東海。東山・北陸三道諸国の源氏諸将に伝達された。伊豆蛭が小島の源頼朝のもとへは源行家によって伝えられ、そのあと家行は甲斐に入り武田。安田の諸将に令旨を伝えた。この時信義は五三歳、義定は四七歳であった。
◇石橋山の戦い
頼朝は令旨を受け、八月十七日伊豆国の日代関兼隆を血祭りに挙げたが、二十三日相模石橋山の戦で大庭景親らの軍に敗れ、幸い敵将梶原景時に助けられて安一房に逃れた。令旨を受けて着々準備を調えていた信義は、九月十日、嫡男忠頼とともに信州伊那郡大田切城を攻めて平家方の菅冠者を滅した。
◇白州町の歴史 甲斐源氏の勃興 (『白州町誌』)谷戸城
谷戸城は清光の居城で、遠くから見ると茶日に似ているところから茶臼山とも呼ばれ、孤立した丘陵で眺望がよく逸見一
帯を望むことができる。東鑑には逸見山とあって清光以下数代逸見氏がここを居城としたとある。清光は仁安三年(一一六八)この谷戸城において五九歳の生涯を閉じた。その墓はいま大八田の清光寺にある。

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