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◇白州町の歴史 甲斐源氏の勃興 (『白州町誌』)義清
義清は晩年巨摩郡稲積庄西条(昭和町)の地に隠居して、久安五年(一一四九)七月二十三日、七五歳で没した。西条には義清の墓といわれる古墳があり、義清神社がまつられている。
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白州町の観光
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◇白州町の歴史 甲斐源氏の勃興 (『白州町誌』)清光・信義
清光は逸見神社(大八幡の八幡官)で、信義は武田八幡官で源為義を烏帽子親と迎いで、光長は逸見太郎、信義は武田太郎と名のり、ともに為義の祝福を受けた。
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◇白州町の歴史 甲斐源氏の勃興 (『白州町誌』)義清(武田冠者)・黒源太清光
義清は武田郷に拠って武田冠者と称した。その後義光は近江に帰り、大治二年(一一二七)十月二十日、八二歳の生涯を終えた。時に義清五三歳、孫清光も一八歳であった。義光の死を知った吉田清幹らは一斉に反武田の旗をひるがえした。もともと武田郷周辺は常陸国三の官吉田神社の神領で、常陸大像の一族である吉田清幹・盛幹父子の支配地であった。そこへ義清が割り込み、その子清光までが若さにまかせて横車を押すというわけで、吉田清幹父子と対立していた。しかし義光存命中は隠忍していたが、義光の死とともに反逆にでたのである。
大治五年、常陸の国司が清光を濫行のかどで告発した。この告発は朝廷で受理され、審理の結果、翌天承元年に甲斐国市河庄に配流ときまった。時義清五七歳、清光二一歳で、清光には大治三年生れの光長、信義の二子があった。義清・清光父子は市河庄に土着し、平塩岡に居館を構えたが、やがて祖先甲斐守頼信以来庄園が経営されてきた峡北地方に拠点を移し、義清は逸見冠者刑部三郎、清光は逸見黒源太と名のった。義清は清光のよき助言者として活躍し、父子は在地の豪族たちと友好を結び或は懐柔し、時には威圧して着々と所領を拡げ、入国して十年を経たころには峡北一帯を従えた。保延六年(一一四〇)清光は光長・信義二子の元服式を挙げた。
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◇白州町の歴史 甲斐源氏の勃興 (『白州町誌』)新羅三郎義光
頼義の三男が義光である。義光は天喜五年(一〇五七)生れで、近江国園城寺の新羅明神の社前で元服したので新羅三郎と名のった。やがて左兵衛尉に任ぜられたが、後三年の役が起るや官を辞して奥州に下り、兄八幡太郎義家を援けて乱を平定した。その功により刑部丞に任ぜられ、ついで常陸介となり、やがて甲斐守に任ぜられた。
義光は、広大な火山裾野をもち古代から三御牧があり未開拓地の多い峡北に注目していた。そのころすでに逸見郷は庄園化して逸見。熱那・多摩の諸庄となっていた。義光はこれらの庄に私牧を獲得し、広大な原野を庄園とするとともに、逸見郷に大八幡庄を起した。
この地域は八ケ岳南西山麓で、現在の長坂・小淵沢。高根。大泉にわたる地域で山麓に豊富な湧水があるため、早くから田畑も発達し馬と食糧の豊富な地域であった。
甲斐国志古跡部に「相伝フ新羅三郎義光ノ城蹟ナリト云フ、村西ノ山上ニ旧塁三所アリ云々」とあり、多摩庄の若神子に居館を構え、要害城として若神子城(大城)を築いたものと思われる。この付近にある八幡官は、この甲斐源氏によって勧請されたものと思われ、大入田の八幡山にある八幡官、上黒沢の八幡官、村山西割の八幡官などは義光とその子義清によって遷宮された由緒を伝えている。
義光は甲斐守の任期を終えて近江に帰ったが、再び常陸に移っていった。常陸は甲斐よりも逢かに豊かな土地であったから義光はその子たちル常陸に上着させようと考え、長男義業の妻に常陸の豪族吉田清幹の女を迎えて懇親を結び、義業の子昌義を久慈郡佐竹郷に、ややおくれて三男義清を那賀郡武田郷に拠らしめた。前者が清和源氏佐竹氏の起りである。
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◇白州町の歴史 甲斐源氏の勃興 (『白州町誌』)源頼義
長元四年四月、頼信は子頼義とともに征討に向ったが、かねてから頼信の武名を恐れていた忠常は戦わずして頼信の軍門に降った。頼信はその功により美濃守に任ぜられて甲斐を去るが、その子頼義も甲斐守に任ぜられた。頼義もまた名将でよく民をなつけたから二代にして清和源時の甲斐における勢力の基礎が固まっていったのである。
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