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【江戸時代の白州町と甲州街道】
甲州街道は江戸日本橋を起点とする五街道の一つで、行程四二里余重畳する山々を縫い、多くの河川を渡って、甲州を東西に横断しやがて信州下諏訪で中山道と合する。この間、宿駅は四五を数える。甲州街道が幕府直轄の官道に編入された時期は明らかでない。寛永十五年には各宿駅に人足二五人、馬二五匹を備えることが継立ての義務として負わされた。また臨時の繁忙に備えて助郷制が定められた。
台ケ原宿、教来石宿は甲州街道の宿場町として栄えたが、明治三十六年中央線開通とともにその様相を変えてきた。
享保九年、藩主柳沢吉里が甲府から大和へ転封後、甲斐は一円天領化されて甲府勤番と一部代官の支配下になった。この直轄化は、いわゆる享保の改革の幕府強化策でおこなわれたものである。この勤番支配は勤番士として甲州街道をくだる旗本たちにとっては、体のよい配流であったともいわれる。したがって施政には少しの哀憐の情もなく、民を視ること動物の如く、膏血を絞るに吸々としていたようである。
しかしその反面、江戸との交流が多くなったことから、ともすれば孤立しがちな甲州に江戸文化の移入したことも事実であった。
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白州伝承未来塾
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【白州町の徳川時代】
繁栄を誇った武田家の滅亡によって世は徳川時代へと町の近世 移行していった。そして徳川幕府の二百数十年にわたる江戸時代となったのである。
江戸時代に入り慶長年間、京都の角倉了以の改修工事によって富士川水運が開けたことと、平地の水害のおそれが少なくなったことなどによって、塩や乾魚など太平洋側の生活物資を船で鰍沢に運び、そこから馬の背によって剤沢、小笠原などのいわゆる駿信往還を北上し、韮崎を通り、台ケ原、教来石を通り信州に入り、茅野を経て杖突峠を越えて高遠に出て塩尻に至っている。塩尻で日本海方面からの交通路と結ばれて、物資の交流がなされたのである。
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【白州町の南北朝時代・宗良親王】
南北朝時代の甲斐の政情は、南北に別れての行動があったので不安定であったが、主力は足利尊氏と行動をともにしたことにより、この動乱期を切り抜けることができた。
延元二年、宗良親王は東国に下り、南朝方の中心となって活動する。
興国六年(一三四五)ころには駿河国にあったが、ここを去り、富士の東麓をめぐり信濃に向う途中、自須の松原で、
かりそめのゆきかひ路とは聞きしかどいさや白須のまつ人もなし
と詠み、南朝のため待つ人もない甲斐路の旅に、親王の心も沈みがちであったことが記録に残されている。
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【白州町の中世】
中世には甲州一円に峰火台、物見台、砦などを含めて通信網が敷設された。鳥原の峰火台、中山の砦など、今でもその塁跡が残されている。
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【白州町と武田時代】
武田時代に本町の歴史と関係深いことは、この地に繁栄した武川衆である。武田五郎信光の末男六郎信長は忠頼の家を継いで一条氏となり、其の孫時信に男子十数人あって、その各々を武川筋の村里にその地名を氏号として居住させた。その子孫が繁栄して武川衆といわれるようになった。そして武川筋の土豪として勢力をもっていた。
【馬場美濃守信房】
教来石から後に自須に移った馬場氏は智勇抜群の将であり、白須に居宅を構えた豪族の白須氏、横手に住居をもった勇武の横手氏、花水に宅址があって武田の忠臣であった曲渕氏等、戦乱の時代に勇名をとどろかした武川衆の本拠地が自州町である。
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