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【白州町の古代遺跡・交通路】
自州町の遺跡は縄文時代のものが最も多く、それに続いて平安時代および中世のものがかなり多く存在している。平安時代のものとして、鳥原の南沢、白須の大除・中村・陣ケ原・横手の本村、花水の押野などからこの時代の上器が非常に多く採集されている。また各遺跡からは、岐阜方面で製作された灰釉陶器が多く出土していることから、当時の交通路が、伊那地方を経て岐阜方面に通ずる道が重要なものであったと考えられる。同時に自州の地が西と東を結ぶ交通の要所であり、牧や農耕の発達と共に集落も増加していったことであろう。
また横手、自須から上教来石地区にかけて、現在の国道二〇号線が走る地域より一段高い台地上に多くの遺跡が並ぶ傾向が認められることは、この時代の交通路が、それ等の集落を結ぶもので、もっと西部の山麓地帯を通っていたことは事実である。
往古は西郡路に続く武川路、信州路が長い間重要な交通路となっていた。釜無川などのはんらんのため、盆地の西の山麓を鰍沢から北上したもので、韮崎の旭町、神山、清哲、円野を経て、武川村の黒沢、山高、柳沢を通り、自州町に入って横手、白須、教来石、等を過ぎ信州へ続いたのである。
中世に入り甲斐の国は甲斐源氏の活動が中心となって進展する。甲斐源氏はいうまでもなく清和源氏の流れで、新羅三郎義光から出て、平安末期から発展し、鎌倉、室町両時代を通じて栄え、さらに戦国時代に至って武田三代の繁栄となったのである。
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白州伝承未来塾
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【平安時代・真衣郷と真衣野牧・甲斐源氏発祥】
平安時代になると稲作や畑作の発達とともに、牧の整備等がかかわり合って集落の増加発展がなされてきた。真衣野牧については正確な位置は不明であるが、現在の武川村牧の原付近にする説が有力である。すなわち釜無川右岸の武川村から白州町を含む一帯が、真衣野牧に比定される。真衣郷は真衣野牧とほぼ同じと考えられる。
毎年真衣野、柏前を合わせて三〇頭の貢馬をひいて上京した駒牽の行事も十二世紀のはじめ頃からすたれてきた。すたれたその理由はいろいろ考えられるが、在地勢力の御牧の私牧化もその一因であった。三牧地方が新興甲斐源氏の根拠地であったばかりでなく、あたかも甲斐源氏が勃興する時に当っていた。
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【甲斐の古代・巨摩郡】
古代甲斐国には、山梨、八代、巨摩、都留の四郡が置かれて、このうち巨摩郡の中で現在の北巨摩に関係する郷として、速見、真衣、余戸の三郷の名がみえている。これらの正確な位置はわからないが、速見は今の須玉・高根・大泉・長坂など八ケ岳南麓の一帯、真衣は武川から白州を含む一帯、余戸は韮崎市の一部というように、それぞれ比定されている。
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平安時代の甲斐の国・北巨摩郡】
平安時代の甲斐の国には、穂坂、柏前、真衣の三御牧が置かれていた。元来甲斐国は良馬の産地として有名であった。この甲斐国に牧監が置かれる八二七年以後、馬および牧に関する記録が急増し、特に駒牽の名が頻繁に登場する。牧監とは牧の役人の長であり、駒牽とは朝廷で、諸国の牧から貢進するために引かれてきた馬を叡覧する儀式のことである。
天平三年(七三一)には国守田辺史広足が、身体が黒く、たてがみと尾が白い甲斐の黒駒を神馬として献上し、それが大瑞にかなったので朝廷は大赦までしたと記録されている。
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【白州町の古代・古墳時代】
白州町内では鳥原の柏木古墳が遺跡として伝えられているが、すでに消滅しているため詳しいことはわかっていない。しかしこの時代に集落が形成されていたことは、その時代に属する土器などから、その可能性が十分考えられる。
なお昭和五十九年度から実施された台ケ原根古屋地区の圃場整備事業のため行った発掘調査によって、縄文期の住居址や土器・石器などが多数発見された。
【奈良時代】
六四五年、中央集権、公地公民の名のもとに決行された大化の改新を経て、律令国家への道は進み、大宝律令の完成および元明天皇の平城遷都を以って奈良時代が始まる。
律令国家の基礎は農民であり、班田収授制にもとづいて一定の口分田が与えられた。しかし同時に租。庸・調や兵役、仕丁などの重い負担が課せられた。
日本に仏教が伝来した六世紀中頃以降、飛鳥・白鳳・天平の時代はまた仏教により鎮護国家を願った時代でもあった。
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