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【白州町の古代】
駒ケ岳を主峰とする西部山地の山麓に広がる白州町。
遺跡はその山麓台地に流れる豊かな渓流の水と日照に恵まれて、集落が発達し、先史時代の縄文前期(およそ七千年前)頃より古代人の居住地となっていた。下教来石の加久保遺跡、鳥原の浦門遺跡、自須の大除遺跡・南田遺跡・陣ケ原遺跡、台ケ原の根古屋遺跡、横手の本村遺跡等につづいて町内各地に縄文中期・後期、さらには平安時代の土器、石器の出土することから、当時多くの古代人が生活していたことは事実である。
昭和五十九年に根古屋を発掘していくつかの住居跡を認めることが出来たのである。
縄文文化は数千年も続いて、その間に徐々に進歩はあったであろうが、狩猟、漁場の採集経済の生活をつづけており、まだ農耕生活は行なわれていなかったといわれる。
【日本全体】
紀元前二、三世紀のころ、大陸文化の影響を受けて新しい文化が北九州の一角に出現し、やがて西日本、近畿地方に進み、東日本に波及して縄文式文化にとってかわって弥生式文化となった。この弥生式文化は弥生式土器を使い、狩猟、漁場のほかに、新しく農業がはじまり、石器のほかに青鋼器、鉄器などの金属器が使用されるようになった。
農耕を行ない金属器を使うことは社会生活に大きな変化をもたらしたのである。土地への定着性をまし、生産にゆとりができるとおのずから貧富の差を生じたのであろう。また整地や灌漑に集落民が共同してあたるようになり、それを計画し指導する人も必要となってきた。こうして集落内部に支配者が生じてきたのであろう。
やがて原始的な小部落国家が生まれ、それがさらに集合体をつくって大きな力となっていった。
弥生時代には皇室を首長とする畿内の大和の勢力がしだいに周囲を征服し、四世紀の中頃までに、北九州から東は関東に至る国上の統一をほぼ完了したのである。そして従来の小国家の首長たちは、国 江理、県主などの地位を与えられ、半ば独立を許されてその地域を支配し、またすぐれた鉄器文化も移入され、壮大な古墳などを築造して、支配者としての威容を誇示するようになった。大和時代を古墳時代と称するのもそのためである。
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白州伝承未来塾
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白州町は地震に耐えるのか 地溝帯で大量の取水の影響は |
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白州町の地質【中山山地・巨摩山地】
この中山(八八七メートル)を起点として南にのびる荒倉山(一一三二メートル)、 櫛形山(二〇五二メートル)などの山地は、 櫛形山層および桃の木層からなる巨摩山地と呼ばれる山地である。巨摩山地は長期間にわたって河川の浸蝕を受け、山は削剥されて低い平坦地となるいわゆる準平原化し、再び隆起して浸蝕され、今の急峻な山容を呈しているのである。中山の周縁にこれが見られる。山もまだ生きていて一定の順序で変化しているのである。幼年期、壮年期、老年期と進み、準平原となって一生を終るのである。これが隆起すると新しい輪廻に入り、また幼年期の浸食がはじまる。そして再び山容は急峻で深い峡谷と急流な河川をつくるのである。
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白州町鳥原傾斜畑農法の研究 我が国の食料増産に貢献
明治三十九年九月十五日、旧鳳来村烏原(松原)二、二七四に父小林政長、母おかんの長男として生まれる。
大正二年鳳来小学校入学。生来温厚実にして不言実行。研究心旺盛で勉学に励む。宇都宮高等農林学校農学科を(昭和二年)卒業し、その後農学博士の学位を取得。宇都宮高等農林学校教師、農林省熊本農事改良実験所技官、本県立峡北農学校、取得。県農業試験場次長、農業講習所長を経て山梨学院大学教授、大学長を歴任した。
大豆博土として活躍。耐虫、多収の農林一号や、耐病、多収の農林二号を育成するとともに、栽培法の研究を行なって多大の成果を上げ、我が国の食料増産に貢献した功績は誠に偉大のものがあり、その功が認められ農業技術協会長賞、農林大臣賞を受賞した。
このような研究業績から、国際的にも認められるところとなり、ブラジルの日系農業グループの招きにより渡伯、大豆法の提言指導を行ない、一州の未開発地に約二万ヘクタールに及ぶ大豆作開発達成の端緒を開き、またポーランド及びブルガリア国の招聴により大豆使節団長として赴き、その国に適した大豆栽培と大豆食について指導を行なった。
最近我が国に成人病が多発している要因の一つが食生活にあることをつきとめ、穀類・いも類・大豆・野菜など日本型食生活体系を研究し、長寿村では例外なく大豆を食生活の柱としていることなどの論証を行ない斯界に寄与した。また木県には傾斜地が多いので、農林省に働きかけその助成を得て、傾斜畑農法の研究を推進し成果をおさめた。
著書には「大豆と健康」他十一編、論文には「本邦大豆の増収に関する作物学的研究」ほか九十三編があり、五十六年間にわたり教職、研究に没頭し現在も杜会のために尽くしている偉大な人である。
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白州町鳥原 (「白州町誌」)
明治元年(1868)九月八日、旧鳳来村鳥原二、六七二番地海野正富・るいの長男として生まれる。
温厚篤実で勤勉家、犠牲的精神に富み、他人の面倒をよくみ、人に尽すために生を受けたような人である。
農業に従事するかたわら、区や村農会の役員を勤め、
明治三十四年県から学務委員に任命されたのをはじめとして、
昭和十九年まで実に四十三年間学校教育振興のため貢献した。
昭和四十三年には推されて村会議員、鳳来小学校校舎建築委員、
昭和四十四年北巨摩郡会議員、
昭和四十五年には鳳来村長に就任し、村・郡政発展のために尽された。
なお鳥原諏訪神杜、往太神杜の氏子総代、石尊神杜の信徒総代、福昌寺、清泰寺の檀家総代等に選ばれ、神杜、寺の隆盛に献身的に尽くした。
また県下の水害の際や、鳥原水道設置についても多額の金品を寄贈した記録が数多く残されている。また石尊神社に設置されている狛犬は氏の寄進によるものである。このように生涯を通じ物心両面にわたって尽した功績は誠に律大である。
惜しくも昭和三十九年二月、九十六歳の天寿を全うした。
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