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霊の意味

『人間意志は一つの目標を必要とする・・・・、そしてそれは欲しないよりは、まだしも無を欲する。

― 諸君には私の言うことがわかるか・・・・・私の言うことがわかったか・・・・・。

「ちっともわかりません! 先生!」 ― では、初めからやり直すことにしよう(道徳の系譜)』


 ニーチェによれば、人間は常に目標を必要とする。これがホモサピエンスをして、他の諸動物と異なる

点である。動物は、目標を必要としない。厳密にいえば、動物は目標を自覚する必要がない。しかし、

人間は違う。人間は、目標の自覚を失ったら生の方向性自体を失い、したがって人間的生はそこで危機を

迎える。人間には、生の方向性が先天的には与えられていない。


 ティリッヒは、「霊(spirit)とは、意味と力の動的統一である」と定義した。人間的生とは、霊とし

て実現した生である。霊として実現した生とは、意味を自覚するほど、力が増す種類の生という意味であ

る。生きがいを感じるほど、パワーが増すという意味だ。動物は、病気や老齢にならない限り、生命力は

衰えない。しかし人間は、何かに意味を感じないと生命力が衰える。身体的には、健康であっても・・・。

人間の生命力は、目標を持つほど旺盛になり、目標を失うほど衰退する。フランクルの名著・『夜と霧』

は、強制収容所という限界状況において生き残った人たちには、目標意識が明白だったと証言している。

他の生物と違って人間は、意味を失うと身体的活力が消滅してしまうのだ。意味と生命力が密接に結合し

ている生、つまり霊としての生命が、人間の生命なのだ。


 芥川龍之介の『芋粥』の主人公・五位は、わずかばかりの芋粥を年に一度食べることを生き甲斐にして

暮らしていたが、ある日大量の芋粥を遠慮なく食べるようにと出され、唯一の願いである芋粥を食べる楽

しみを失ってしまう。自爆するイスラム過激派は、自爆すればアラーが、天国で酒池肉林のハーレムを

用意してくれると信じているという記事を読んだことがあるが、すべての欲望を瞬時に満足させられた

ら、それは天国ではなく地獄であろう。人間にとって真に辛いのは、欲望の不満足ではなく、欲望のすべ

てが必ず満たされることなのだ。不死は人類の希望だが、死ぬことができず永劫に生き続ける運命の人間

は、さぞかし苦痛だろう。永遠という言葉が、無限に延長する時間という意味なら、ヘーゲルが云うよう

に、それは悪しき無限である。


 もし、ティリッヒの霊の定義が正しいなら、人間の不調の最初の症状は、「欲さないこと」として現れる

だろう。食欲が湧かない、性欲が湧かない、仕事する気が湧かない、外出する気が湧かない・・・。身体

的にせよ、精神的せよ、通常の意欲が湧かないのは、何かの危険信号だ。意欲の減退は、そのまま気力の

減退として感じられる。人間にとって、もっとも辛い状態の一つは、まったく意欲が湧かないことであ

る。現実にこういう経験をされた方なら実感できると思うが・・・。そして、意欲の消失が限界状況に達

すると、今度は死を欲するようになる。人間は、何かを欲しなければ生きていけない。ニーチェが云うよ

うに、「それは欲しないよりは、まだしも無を欲する」、つまり死を欲することで、無欲の状態から

脱しようとするのである。


 完全に無欲な人間は、決して存在しない。生きることとは、欲することだから。人間にとっては、煩悩

でさえ無いよりはマシなのだ。問題なのは、煩悩でさえ消失した状態である。ストーカーにせよ、異常な

性癖にせよ、犯罪にせよ、その原因として、かつて意欲の減退・挫折・消失がないか、疑ってみるべきだろ

う。彼らは、「欲する」から異常なのではなく、かつて欲さなくなってしまったから、「欲しないよりは、

まだしも無を欲する」ようになったから異常なのである。「無を欲するな」と忠告しても、無駄であろ

う。何かを欲さないと、何かを意志しないと、人間は生きていけない。

たとえ、無であっても。



 古来より、『霊』という言葉が担ってきたのは、意欲の再創造、つまり意味と力の動的統一の現象であ

る。古代ギリシャ語とヘブル語では、霊という用語は、生命の息吹という意味であった。オカルト的心霊

現象とは、何の関係もない。私たちの意志・欲望に新しい息吹が吹き込まれ、新たに何かを欲する・意志す

るようになる癒しの現象のことである。無を欲することは止めて、何か別のものを欲するようにしてくれ

る現象である。この生命の息吹・『霊』は、どこから湧いて来るかといえば、私たちの生命の深層からで

あろう。


 意味と力の動的統一は、意識のレベルからは生まれない。前頭葉からは生まれない。したがって、それ

が発生した時には、意識の観点からは、「与えられた」ように感じるのである。諸宗教が、「霊を注がれ

た」とか、「霊が入り込んだ」などと表現するのは、意識にとっては、「外部から与えられた感覚」がする

からであり、メタファーとして使われてきたのだ。実際には、意識の下に広がる生命の深層から湧いてく

るのだと思う。この生命の深層を、神と呼ぶか、仏と呼ぶかは、各自の宗教的伝統による。


 世俗化社会では、霊という用語はオカルト化されてしまい、この象徴が本来持っていた人間学的意味が

失われてしまっている。生命の深層から湧き上がり、意志・欲望に新しい息吹が吹き込む聖なる生命力

が・・・。

閉じる コメント(3)

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「ニーチェによれば、人間は常に目標を必要とする。」 そうですか。ニーチェさん、そんなことをのたまっていたのですか。 「執着をすべて滅せよ」といったブッダとは相性が悪そうですね。 まあ、執着を滅するためには、「執着を滅したいという執着」が問題になったみたいですけど。 http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/bunnka/rinne.html

2007/3/11(日) 午後 5:41 無宗だ

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執着についても、いずれ書いてみようと思っていました。挑戦してみます。

2007/3/11(日) 午後 7:57 [ tillich37 ]

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ネットで寄り道しました。
私は学は高くありませんが、クリスチャン暦20余年でこのような内容も理解できるようになりました。
是非痛快に、無神論や教会の矛盾を論破して頂けたらと思います。
ただ、「霊」についてどうお考えでしょうか。
偽善でボランティアをする人についても書かれていましたが、
「どうしてそんな慈善ができるのか?」と聞いた取材者に、マザー・テレサは「私の行為は慈善でなく信仰だ」と言いました。祈りで神様の霊を受けると「自然とやりたくなる」そうです。「神は霊である」と聖書にあります。パウロ先生の言葉も、「律法(道徳)はできない自分が見えて辛くなるが、信仰(神様の霊を受けると)は善行をしたくなる」と解釈します。
ニーチェも「神が死んだ」のでなく、むしろニーチェ自身の霊が死んで無感覚だったので、神様の愛を感じられなかったのではないでしょうか。人間の存在目的なども、神様からの「霊」で解くと見えてくるものがあると思えます。日本のクリスチャンも「霊的に死んで」キリストを実感できず信仰を勘違いしている人がどれだけ多いことか。
では。ご研究が進み、ご活躍されますように願っております。

2014/3/26(水) 午後 5:29 [ YMD ]


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