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 初めて西田幾多郎の場所の論理を知ったのは、科学者・清水博氏の著作においてだった。先端科学の知

識を期待していたのに、なんと『場所』という用語でいっぱいだった。ガッカリして、読み飛ばしまくっ

た。東洋的な秘教のにおいを感じたからだった。そもそも本の題名が、『生命と場所』だったから買う前

に気づくべきだったが、アマゾンで買った本なので、中身までは立ち読みできなかったのだ。それから数

年・・・。実際に、西田の『場所』という論文を読んで初めて知った。なんと場所とは、意識のことであ

り、かつロジックのことだったと。


 現代哲学における意識の問題についての予備知識が多少あったので、西田の場所の論理の偉大さはすぐ

に気づいた。場所の論理とは、哲学におけるコロンブスの卵である。

この人、メッチャ、すごい・・・・!


現代の脳科学や意識の哲学では、意識は主に2種類に分類される。クオリアとアクセス意識である。クオ

リアは解説するまでもなく、意識の生の質感のことだ。アクセス意識とは、意識の内容を記述・報告可能

なものとして把握している状態である。では、西田が扱う意識とは、この2つの意識のうちのどれか?実

は、どれでもないのだ。発想が違うのである、西田様は。茂木健一郎氏は、「クオリアは、意識の科学最

大の問題である」と述べているが、たしかに意識の「科学」のレベルではそうかもしれない。しかし、意

識の「哲学」のレベルでは、クオリアなど問題の数にも入らないのである。少なくとも、西田が取り組ん

でいるレベルでは・・。


 では、西田における意識とは、何か?それは、意識する意識である。クオリアやアクセス意識と

は、意識された意識に過ぎない。つまり、既に対象化された時点で把握されている意識なのだ。西

田が問題にしたのは、意識する意識である。さて、みなさん、意識する意識を意識したことがあるだろう

か?それは不可能である。意識する意識を意識したとたん、それはすでに意識された意識である。意識す

る意識とは、同時に主体にならずして決して客体になることがない意識である。意識について思考しよう

とすると、対象化された意識だけを思考することになる。なぜなら、思考もまた意識だからだ。そうする

と、意識する意識を思考することは不可能なのか?それを可能にしたのが、西田の場所の論理である。


 さて、西田の発想はこうである。「有るものは何かに於いてあると考えざるを得ない」。そもそ

も、西田の場所は、論理的要請から考えられたものだった。物は空間という場所に於いてある。磁気は磁

場という場所に於いてある。特殊は一般という場所に於いてある。赤は色という場所に於いてある。いち

いち、場所なんて概念を持ってこなくてもいいではないか?そうはいかない。なぜなら、何かに於いてな

ければ、有ることと無いことの区別がつかなくなるのである。無いということも、その背景になる場所が

なければ、無いことさえ判別できない。ところが、現実には私たちの意識は、有ると無いの区別をつけて

いるのだ。


 判断とは、特殊なものを一般的な場所に於くことで成り立つ。「これはリンゴだ」という判断

は、「これ」が、「リンゴ」というより一般的な概念に於かれることで判断される。「リンゴ」という判

断は、「これは果物だ」というより一般的な概念に於かれることで判断される。「果物だ」という判断

は、「これは食物だ」というより一般的な概念に於かれることで判断される。このようにして、遡ってい

けば、概念化しようがないリンゴの生のクオリアにたどり着く。それでは、その生のクオリアは、どのよ

うな場所に於かれているのだろうか?西田の答えは、「意識という場所に於かれている」となる。意識と

いう場所に於かれることで、「何かがある!」という原初的判断が生まれるのだ。


 意識という場所は、「これがある」と判断される場所であり、有ることと無いことの区別が判断される

場所である。有ることと無いことの判断がされる場所は、有ることと無いことの両方を包む場所である。

したがって、西田は、意識を無の場所と呼ぶ。無の場所は、無いことも包む無の場所なのだ。意識

は、形容しようがない。なぜなら、すべての形容と判断が成立する場所だからだ。意識は、茂木氏が考え

るような「意識現象」ではなく、すべての意識現象が於いてある場所なのだ。意識は、一般

概念が当てはまらない生のクオリアが於いてある場所なので、それ自身も有とも言えず無とも言えない。

でも、とりあえず西田は、「無の場所」と呼んでみた。では、意識は何に於いてあるのだろうか?西田の

答えは、「絶対無の場所に於いてある」。つまり生命という場所に於いてあるのだ。誤解しないで欲しい

のは、西田が無というとき、神秘的な意味は全く無いのだ。特殊が一般に包摂される論理構造の究

極的結論をそう呼んでいるだけである。


 したがって、アクセス意識とは、意識という場所に於かれたクオリアが、論理的包摂を逆進した結果だ

といえる。意識という場所にクオリア(特殊)が於かれることで、「これがある」という判断がなされ、

このクオリアは続いて、色のクオリアという特殊(判断)が於いてある場所となる。色のクオリアは続い

て、赤のクオリアという特殊(判断)が於いてある場所となる。赤のクオリアは続いて、リンゴのクオリ

アが於いてある場所となる。、リンゴのクオリアは続いて、富士というリンゴのクオリアという特殊(判

断)が於いてある場所となる。ここに、「目の前にあるものは、富士という赤いリンゴである」というア

クセス意識(判断)が成立する。


 ここでも否定の働きが重要である。生のクオリアが、「目の前にある昨日買った富士というリンゴ」と

いうアクセス意識にたどり着くためには、これでもない、あれでもない、という否定を無限回繰り返さな

ければいけない。「私は西田幾多郎だ」というアクセス意識にたどり着くためには、「西田幾多郎でない

もの」を否定しつくした上でたどり着くわけである。もちろん、私たちは意識して、そんな自己限定をし

ているわけではない。しかし、生のクオリアが、アクセス意識に至るためには、論理的にはそうい

う作業を行っているわけである。西田に云わせれば、これは意識という無の場所が行う自己否定である。

自身が無の場所であることを否定して、クオリアの場所となり、クオリアの場所は自身がクオリアの場所

であることを否定して、果物の場所になり、果物の場所は、自身が果物であることを否定してリンゴとな

り、リンゴという場所は、自身がリンゴであることを否定して、「このリンゴ」に至る。もちろん、論理

的に云えばである。しかし、まさに西田は、論理的に云ったのだ。それが場所の論理である。


 西田の意識論の優れた点は、ホムンクルスを必要としない点にある。ホムンクルスとは、脳の神経活動

をモニターしている仮説の存在だ。たびたび登場していただき恐縮だが、茂木健一郎氏は、「どうしても

ホムンクルスがいるとしか思えないような意識体験はいかに生じるのか?心と脳の関係を考える上での最

も重要なポイントはここにある」と檄を飛ばしておられる。ホムンクルスを仮定する思考は、意識を対象

として考えるから生じる。意識を対象とした途端、対象を眺める主観を仮定してしまうのだ。ところが、

西田の意識は、主格でもなく、対格でもない。

なんと、与格(場所)である。つまり主体を必要としないのだ。


茂木氏がホムンクルスの問題に悩むのは、氏が意識を対格として考えるからであり、したがって主格の存

在が問題になる。西田とは、考えているレベルが違うのだ。明治生まれの西田は、すでに意識を対

象として考えることに問題を感じ、意識を与格として考えた(永井均・『西田幾多郎』)。すでにホムン

クルスの問題を解決しているのである。


 意識を、主格としてではなく、対格としてでもなく、与格と考えた西田幾多郎。「な〜んだ、そんなこ

とか・・」と思わないで欲しい。コロンブスの卵は、天才のみの特権である。

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この記事から、禅と西田哲学が親和的な理由がなんとなく理解できました。
キリスト教徒であるtillichさんが、なぜ、西田哲学なのだろう?
キリスト教って、神秘的なことと関係が深いように思うのですが…。 (宗教的対立とか、勧誘を意図している訳ではないですw。こちらのブログを拝見して、いつも思うのは、考え方が非常に私と似ているということ、しかし、結論が違うところ。その辺りがとても面白いので。)

2007/12/12(水) 午前 11:11 虎皮のマリー

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西田哲学をベースにしたキリスト教神学者としては、滝沢克己氏、八木誠一氏、最近では小野寺功氏などが有名です。西田自身もキリスト教神学から強い影響を受けています。アウグスチヌス、ヤコブ・ベーメ、カール・バルトなどの弁証法神学者たちとか。晩年の西田は、仏教とキリスト教の両方を包む立場を模索していたようで、『内在的キリスト』というユニークな概念も練り上げています。この「ジャパンさ」が、小生には魅力です。

2007/12/12(水) 午後 5:53 [ tillich37 ]

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な〜るほど。そうだったんですか。八木さんの本は若い頃読んだ記憶があります。それで、プロテスタントの教会に行ったり、カソリックの本屋さんに行ったりしてたような…。ごちゃ混ぜお好み焼き風…そういう「ジャパ〜ン」さ、結構好きですw。ある種の東洋的神秘も西洋的神秘も。でも、宗教が絡んだ「差別」は嫌です。

2007/12/13(木) 午前 11:50 虎皮のマリー

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記事作成のため、こちらを参考にさせてもらいました。

永井均の『西田幾多郎』でしか西田幾多郎に触れたことはないので、
よく知らないのに言うのもなんですが、西田幾多郎はやっぱりすごいですね。

2009/5/8(金) 午前 1:03 へなまん

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永井均氏の『西田幾多郎』は優れた入門書だと思います。こんなこと言っちゃなんですが、永井氏の一番いい本かも。ともかく西田幾多郎はすごいです。

2009/5/12(火) 午後 5:51 [ tillich37 ]

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