問題意識の背景

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新国富論の必要性

 よく識者たちが政治家たちに求めるのは、「国家像を提示して欲しい」ということです。言わん

とすることはわかるのですが、日々の政務に追われる政治家たちに、国家像まで要求するのは過大かもし

れません。むしろ識者たちこそ、国家像を政治家に提案すべきだと思います。


 未来の国家像を考える時に一番困難なことは、

国の富とは何かを定義することです。

1776年に出版されたアダム・スミスの『国富論』によれば、一国の富とは必需品や有用な物資

のことです。そして「労働こそ、生活に消費されるあらゆる必需品と有用な物質を本源的に供給する基金

であり・・・」とされ、労働力が国富の源泉であるとしました。マルクスも同じ考えです。


 スミスの定義を今風に言えば、国富とは実体経済の成長です。この場合の「実体」とは、

技術革新と良質の労働力による商品取引の増大です。これを産業資本主義といいます。


 アメリカとイギリスは、20世紀後半からアダム・スミスの定義を捨て去ったように思われます。まだ

部分的かもしれませんが、英米にとって国富とはマネーです。製造業が減少した英米は、流入する

投資(マネー)によって経済を維持しています。これをポスト産業資本主義といいます。


 実際、アメリカには実体経済をはるかに超えるマネーが流れ込んで経済が潤ったわけですが、それが世

界同時不況の原因にもなりました。とはいえ、アメリカの消費を支えているのは流入するマネーであり、

アメリカの消費のおかげで日本の製造業は支えられているわけです(中国も)。世界を駆け回るマネーを

無視して、グローバル資本主義は成り立ちません。


 では、国富とは何か?製造される商品なのか、マネーなのか?日本は古典主義のように労働力を国富と

すべきなのか、それとも英米のようにマネーを国富とすべきなのか?それによって、国家像がまったく変

わってくるわけです。


 産業資本主義は、販売価格から生産コストを差し引いた差異によって利潤を得ますので、中国やインド

のような圧倒的な人口と安い労働力を持つ国には勝てないわけです。産業資本主義流の国富を追求する限

り、日本は、中国やインドに労働力も市場も依存して生きていくことになるでしょう。


 私も何を国富とすべきか、今のところわかりません。国富とは何でしょうか?なんとも難しい問題で

す。

天才ニーチェ

 
 ニーチェはいちおう道徳の攻撃者ということになっているが、近年ではニーチェの倫理学を再構成する

試みが、英米哲学界では1つの潮流になっている。ニーチェは既存の道徳を攻撃したが、ニーチェには

彼なりの道徳があったのだということを論じる本が増えてきた。20世紀後半の英米道徳哲学界で

最も重要な1人とされるバーナード・ウィリアムズも、「できれば一行ごとにニーチェを引用したい」と

いうほど、ニーチェの強い影響を受けていることからも、ニーチェは道徳の破壊者というレッテルは

もはや過去の遺物になりつつある。


 近年、理性(意識)→道徳的判断→意図→意志→行為という図式が崩れ始めていることを、認知科学を

中心に見てきた。意識的認知が届かない領域で、私たちは無意識的に行為を決定しているらしいという

ことがわかっている。そして私は、もはや従来の道徳哲学が前提としてきた意識→意図→意志→行為の

図式によっては、道徳性を考えることができないことを指摘したつもりだ。この省察は、私のオリジナル

ではない。じつは120年以上も前に、当時全く無名の病人が孤独の中でメモに書き留めていたことなの

である。


 1880年代のスイスで、この病人は療養生活を送っていた。本人の手紙に寄れば、「死に取り巻かれ

た」毎日を送っていたようだ。頭痛と目の激しい痛み、絶え間なく続く嘔吐、喋ることさえできない

麻痺状態、激しい発作。本を読むこともできず、誰にも会うこともできず、症状が少し和らぐと孤独に

散歩する毎日。その散歩の途中、考えが頭に浮かぶのだが、寄宿所に帰り、メモに書き留める。激しい

頭痛が始まるのは、その時だ。苦痛と発作の中で走り書きするので、ガストいう親友だけにしか読めな

い。1889年1月7日、今年冬のオリンピックが開催されたトリノの路上で、この病人はついに発狂

する。1900年8月25日享年55歳で死去。死後残された膨大なメモを編集する作業が始まり、

この人の手書きを解読できる友人ガストが協力して後に、『力への意志』という書名で出版された。


 実はこの人がニーチェである。本も読めず、考えると痛みに襲われたながら書き残した1つのメモに、

こんな事が記してある。


 「意志の不自由か自由か? 「意志」というものはない。これは「物質」と同じく、悟性が単純化する

ために構想したものにすぎない。すべての行為は、それが意欲される以前に、可能なものとしてまず

機械的に準備されていなければならない。ないしは、「目的」は、たいてい、その遂行の準備がととのえ

られたときにはじめて思い浮かぶ(権力への意志)」。


 100年後のリベットの実験結果を思い出して欲しい。行為が意識される0.35秒前に、脳は機械的に

運動を準備しているという、あの実験結果である。リベットのチームは実験のために、頭蓋骨を切開した

患者の脳に、最新の実験装置を連結させ、それでようやく結果を得たのである。発作と苦痛で字もまとも

に書けなかったニーチェは、頭蓋骨を切開した被験者もなく、実験装置もなく、いったいどうやって運動

準備電位を考えついたのか?

 次にこんなメモはどうだろう。


 「窒息せんばかりの感情をともなって血液がひんぱんに頭脳へと流入すると、それが「怒り」と

解釈される(権力への意志)」。


 情動二要因論の「つり橋の実験(1974年)」を思い出していただきたい。ある生理的興奮が、

無自覚的認知過程においてレベルが張られ、それを「感情」として解釈する心理メカニズムの実験の

ことだ。認知科学界で話題になったこの実験結果を、孤独な病床でニーチェはどうやって思いついた

のか?


 ついでにもう1つ。1886年に脱稿した『善悪の彼岸』から。


 「われこれをなしたり。わが記憶はかくいう。われこれをなせしことなし。わが矜持はかくいい

、いって曲げぬ。このとき、ついに譲るは記憶である」。


 認知的不協和理論の「1ドルの報酬(1959年)」を思い出していただきたい。秀才学者たちが実験

をしてようやく確認したことを、実験なしでニーチェはどうやって知ったのだろうか。心理学や

神経生理学に詳しい方は、『権力への意志』を一度お読みいただきたい。ここで紹介したのは序の口で、

卓見が山のように隠されている。現在の脳科学が、最も謎としている「哲学的ゾンビの問題」について

も、ニーチェはすでに考えて彼なりの答えを出しているのである(この問題については暇があるとき紹介

する)。ニーチェはまちがいなく「意識の科学」の天才である。どういうわけか、ニーチェ研究者の間で

は、ニーチェの「意識論」が取り上げられていないようで、英米のニーチェ学会の学会誌ものぞいてみた

が、誰も扱っていなかった。ニーチェの専門家は認知科学に関心がなく、認知科学者はニーチェの哲学に

関心がない、つまり専門外のことには興味がないのだろう。面白い研究テーマなのに・・・。

脳と意識

 
 1980年代、アメリカ人神経生理学者リベットは、近代的人間観をぶち壊すような有名な実験結果を

発表した。人間は行動を起こすとき、頭頂葉に運動準備電位という活動が起こるが(脳内信号指令)、

運動準備電位が起こって0.35秒あとに、行為の意志が意識されることが明らかになった。なんと、行為を

意図したあと、運動準備電位が脳で起こるのではないのである。なんと逆なのだ! 前意識的に脳内で

行為が準備された0.35秒後に、「行為の意志」が意識されのである。「人間は理性で行為を選択して、

それから意志で実行する」という欧米道徳哲学の根本教理を木っ端微塵にする可能性のある結果で

あった。


 何よりもリベット自身が焦った。幸いリベットの実験結果には、リベットが多少なりとも自分に弁解で

きる余地があった。実験結果では、行為の意志が意識された0.2秒後に、実際の動作がなされた。

そこで彼は、「自由意志とは、0.2秒の間に、意識された意図に拒否権を提出することだ」と解釈したの

である。自由意志の範囲はずいぶん狭くなったが、拒否権という形で何とか一命を取りとめたのである。

殴るという行為は無意識に脳内で準備される。しかし、それが意識に昇った0.2秒間の間に、人間は

それを拒否する意志を発動できると信じたのである。しかし、後にロンドン大学のベルマンズが指摘する

ように、「その意志的拒否権とやらも、0.35秒前に脳内で準備されているのではないか」という疑問が

浮かぶのも当然であろう。そして、ベルマンズの解釈の方が、圧倒的に説得力を持つのである。


 リベットの実験結果から、神経生理学者、認知心理学者たちは「自由意志とは何か」について雪崩を

打ったように大論戦に突入する。しかし、その大多数は、自由意志を救うための努力だった。というより

も、自由意志と物理的機械論をどう両立されるかの試みであったと言えるだろう。自由意志の問題は

欧米において、3つの考え方に分けられる。すべての現象は物理的法則に決定されているという決定論

(Determinism)、自由意志の優位を主張する非決定論(Indeterminism)、人間の自由意志と物理的法則の

絶対性は両立可能だとする両立主義(Compatibilism)。しかし、もう1つの立場も可能であろう。

それは、「自由意志も物理的法則も、フィクションとして仮定されたものであり、したがって、自由意志

も物理的法則も実在しない」という立場である。これがニーチェの立場である。

私は、自分を知らない

 
 さてさて、近代的道徳哲学が前提とする人間像が揺らいできている〜。自覚できる心的経験に

先立って、それを決定する無自覚的な過程が存在していて、私たちは自分自身の内的過程を推論するしか

できない、しかもこの推論過程でさえ無自覚的である―としか解釈できないような実験結果が現れてきた

からだ。つまり人間は思った以上には、自分自身を知らないのである。私たちの心の過程は、私たち自身

に、実は隠されているのではないか??


「認知的不協和理論」

 まず社会心理学の分野から「認知的不協和理論」を紹介しよう。「1ドルの報酬」という実験があるの

だが、被験者に1時間退屈な作業をさせた後、「次に来る人に、この作業は面白かったと伝えてくれ」と

強制的に頼みます。そして作業の謝礼として、あるグループには1ドルを、別のグループには20ドルを

渡した。最後に1時間の作業を評価してもらった。さて、1ドルの謝礼をもらった人と、20ドルの謝礼

をもらった人のどちらが、作業を面白いと評価したでしょうか。答えは、なんと1ドルの謝礼をもらった

人だったのである。


 20ドルの人は、退屈な仕事だったが、20ドルもらったので、報酬と退屈さが釣り合っている。

だから素直に「面白くなかった」と評価したようだ。1ドルの人は報酬と退屈さが釣り合っていないと

いう認知と、「面白かった」と別の人に伝えた認知の間に葛藤が生じる。そこで、この不協和を縮める

ために、作業を「面白かった」と評価したと解釈できるわけだ。しかも、この心的過程は、本人にも隠さ

れた無自覚な心理的合理化なのである。


「情動二要因論」 

 私たちは、悲しい思いを感じて、それから泣くと信じているが、心理学はこの順序を逆にしてしまう。

「つり橋実験」というのがある。つり橋のそばに美人の実験者が待機していて、男性が通りかかると美人

の実験者はアンケートをお願いする。その後、TATテストを使って男性の性的興奮度を検査する。

するとつり橋を渡り終えて10分立った男性に声をかけた場合より、つり橋を渡っている最中に声を

かけた場合の方が、男性の性的興奮度が高く、女性実験者に好意を示す度合いも高いという結果に

なった。


 つまり、つり橋に対する恐怖という生理的興奮を、男性たちは女性実験者に対する好意の感情と

無自覚的に解釈したわけである。まず最初に生理的興奮があり、それを潜在的過程で認知する。

それから認知された生理的興奮にラベルをつける。それから最終的に、自覚的・意識的感情経験になる

わけである。


 簡略すると、身体的過程→潜在的認知過程→自覚的感情経験となる。私たちが意識的に認知できる

感情は、無自覚的に解釈された結果だけだったとしたら・・・。他にも多くの実験結果があるのだが、

さりげなく暗示をかけると、同じ薬が起こす生理的興奮を、それぞれ異なる「感情」として感じることが

わかっている。


「左半球の言語的意識」

 てんかんの手術のために脳梁を切断され、左右大脳半球が分離した人を分割脳患者という。

言語的認知をつかさどるのが大脳左半球、非言語的認知が右半球といわれている。視覚情報の処理は、

右視野に見えたものが左半球に投射され、左視野に見えたものは右半球に投射される。左半球は右手を

統御し、右半球は左手を統御する。


 分割脳患者の右視野に、例えば「鉛筆」という単語を呈示すると、「鉛筆という単語が見えた」と

答え、右手で鉛筆を拾う。左半球は、言語的認知だから。ところが左視野に「鉛筆」という単語を呈示

しても「何も見えない」と反応するが、左手はちゃんと鉛筆を拾うそうである。つまり分割脳患者の

右半球は単語を認知しているのだが、言語で表現できないため「何も見えない」と答えるのわけだ。

でも実際は、非言語的に認知しているので、ちゃんと鉛筆を拾うことができる。そして拾い上げた鉛筆を

見た後で、鉛筆という単語を見たことを推測するわけである。


 分割脳患者の実験のように、人間が右半球だけだと物事の認知はできるが、認知の内容を表現すること

ができない。そこで左半球がモニターとして作動して、右半球の状態を観察して推論して言語判断して

いる可能性が分かったきた。私は物忘れが激しいのだが、本を取りに部屋に入ったのに、何しに部屋に

入ったのかを忘れることがある。そういう時は、「本棚の前に立っている」、「隣の部屋で論文を書いて

いる」というふうに周囲の状況を因果的に連結させると、「あっ、本を取りに来たんだ」と思い出すわけ

である。そういうふうに、私たちは自分の生理的変化や行動を、「外」から観察して推論しながら、

「解釈」している可能性がとても高いのである。私たちは、直接的に自分自身を理解するのではなくて、

他者を観察して推論するように自分を理解しているのではないだろうか? 


「意識の前処理過程」

 心理学で「カクテルパーティー効果」というのがある。目の前の人と夢中で会話しているのに、

後ろで誰かが、自分の悪口を言ったらすぐに気づいたとか、そういう現象である。意識の中では、

後ろの会話を聞いてはいないのに、私たちの脳は前処理的に周囲の音・会話をインプットしてフィルター

のように選別・処理しているのである。実際、私たちが無意識に知覚している無数の情報が、一度に全部

意識されると意識が容量を超えて爆発するだろう。現在の脳科学では、脳内知覚処理の大部分は、意識に

とって認知不能であり、無意識に選別された処理の結果だけを意識現象として経験するに過ぎないと考え

られている。


 私たちは意識と思考を同一視していますが、脳は私たちの意識の下で膨大な思考を行っているので

ある。意識は、知覚活動の氷山の一角であり、しかも意識の下で何が行われているか、全く知らない。

ある人の名前が思い出せないときがある。諦めて、風呂にでも入っていると突然その名前が頭に浮かんだ

りする。脳というのは健気なもので、意識がとっくに諦めた後でも、せっせと努力して、記憶の海の中

から目標を探し出してくれているのだ。意識が、「わたしは休むから、君が探せ」と命令したわけでも

ないのに、脳は意識と無関係に活動を続けているのである。意識は、脳の膨大な活動の最終結果だけを

教えてもらえるだけなのだ。


 これらの認知科学の実験結果は、道徳哲学とどう関係するのだろうか? 勘の良いみなさまなら、

すでにお気づきだろうが、道徳哲学の中心教義である「理性による自己理解」が、実はかなり怪しいの

である。そして、「意識に映った私が、道徳的主体である」は、さらに輪をかけて怪しいのである。

私たちの認知過程は、大部分が無自覚的に処理されていて、意識に昇ってくるのは、処理の最終段階だけ

なのではないか? しかも、無自覚的に処理されて意識に昇った情報を、言語的自己が自分を取り巻く

状況から因果関係的に「解釈」しているだけではないのだろうか? 道徳的責任を負わせることが

できない「心神喪失」とは、「事物の理非善悪を判断する能力がない」であった。たしかに私たちは

理非善悪を判断している。しかし、その心的過程の大部分が無自覚的なため、どのように自分が判断した

のかがわからず、さらに言語化された結論は誤っているかもしれないのである(認知的不協和理論と

情動二要因論を思い出してください)。


 しかし、これでもまだまだ序の口。道徳哲学における責任能力についての大原則は、

「A person is morally responsible for what he has done only if he could have done otherwise.

(過去の行為について道徳的責任が生じるのは、その行為の時点に、他の行為の可能性があった場合だけ

である)」である。つまり、自由意志が機能していて、善と悪のうち、どちらかを選択して行う能力が

あった場合だけ、道徳的責任を追求できるという意味だ。心神喪失の定義、「善悪の判断にしたがって

行動する能力のない状態」とは、行為の時点で他の行為の可能性がなかったと看做されるからである。

つまり意志的選択ができない状態である。さて、それでは、『意思的選択』とは何ぞや?


 私たちは「まず意志があり、意志には当然目的がある。その目的を達成するための手段を考えてから、

それから脳は電気信号を脊髄を通して末端神経に送り、筋肉を動かし行為する」と信じている。意志に

よって行為を支配する能力があると信じている。ところが1980年代、アメリカの神経生理学者が、

この常識を覆すような実験結果を発表した。哲学者サールは、「もしそうだとしたら、宇宙最大の冗談に

違いない」とまで言ったそうだが、それ以降、伝統的に哲学者たちが議論していた自由意志問題のリング

に、脳科学者たちまで登場して大乱戦となっているのである。その内容は、また次回。

 
 近代欧米の道徳哲学は諸派あるが、大筋において共通している中心的教義があるように思える。

その3つのキーワードは、「規範と説明としての理由(Reasons)」、「意志による自己支配」、

「理性による自己理解」である。この3つはそれぞれ互いに絡み合っているが、ここではそれぞれ別々に

扱ってみよう。


「規範と説明としての理由」


 道徳性は欧米の道徳哲学において、行為の規範的理由として理解される場合が多い。

例えば、Aさんが、お金を道で拾いました。そのお金をどうしようかと迷っていたら

「警察に届けなければいけない」という考えが浮かびました。Aさんは「なぜお金を警察に届けなければ

いけないのか」自問自答して、「落とした人は困っているに違いないから、届けることは正しい行為だ」

と自分に言い聞かせ、近所の交番に向かいました。Aさんは、「自分がなぜそうしなければいけない

のか」と行為の理由を問うと、その答えとしての理由は、「〜すべきだ」という規範的性格を伴って

いたはずだ。為そうとしている行為に規範的理由(〜だから、〜為すべし)を与えるのが道徳性だという

考えである。


 また道徳性は欧米の道徳哲学において、行為の説明的理由として理解されている。

Aさんを観察していたBさんは考えました。「なぜAさんは、拾ったお金を警察に届けたのだろう」。

Bさんは、Aさんの行為の動機になった理由を推測しています。Bさんは「拾ったお金をネコババするのは

悪いことだと考えて、交番に届けたのだ」という結論に達したら、BさんはAさんの行為の説明的理由を

得たわけであり、これが道徳性の説明的理由という側面である。


 ここで暗黙の前提になっているのが、ある行為には必ず理由があるというドグマである。

このドグマは前提されるべき公理であって、その証明は絶対的に不可能である。これはほとんど、

「信仰」と云える。もちろん、私たち人間は「ある行為には理由がある」を信じなければ、1日たりとも

社会生活を維持することはできないだろう。しかし社会生活における必要不可欠性は、真理の証拠には

ならない。欧米の道徳哲学にとって道徳性とは、行為を導く、あるいは行為を決定する規範でなければ

ならないと考えられているので、行為に理由がなければ道徳性自体が成立しないのである。


 そしてさらに、暗黙の前提になっているのが、ある行為の理由を私たちは知ることができるという

ドグマである。ある行為が為された理由がわからなければ、その理由の道徳的正当性を判断することは

できない。しかし、近代以前には、道徳的非難を帰す時、その行為の理由を詮索しない社会もあったの

である。どういう理由で殺したかにかかわらず、殺したら罪として裁かれるとか。しかし、道徳がもはや

宗教に基づかなくなり、人間の理性に基づくとすれば、理性は、理由を「すべてご存知」でなければ

ならないのある(理性も理由も英語ではReason)。道徳が宗教の一部であった時代は、

「神はすべてご存知だから」で済んだから、神の後任としての理性もまた同様でなければなならい

(と欧米の道徳哲学は信じている)。


「意志による自己支配」


 欧米の道徳哲学で中心的役割を果たしているのが、「意志」である。意志とは何か。意志とは、

意図的行為を為す能力のことである。「意志を持つ」とは、意志に基づいて行為をする能力を持つこと

であるといえる。つまり自分の意図に基づいて、意図通りの行為を為す能力のことである。

もちろん結果として、意図が果たせない場合もあるが、行為の出発点には意図があるとされる。

すると私が行為に道徳的責任を持つのは、その行為が私によって意志された行為だからということに

なる。でもそうなると、私によって意志されていない行為は、私の行為であっても責任を負わないという

意味でもある。では、「私によって意志されていない行為」とは何か、それは「わたしが望まなかった

行為(でも何故か起きてしまった行為)」である。意志された行為は、私が意志した限りにおいて

私の支配下にある。私がコントロールできる。つまり意志とは、支配する能力のことと云える。

私が意志という能力を用いて、行為を意図的にコントロールしている限り、私は自分の人生の主人である

と考えるわけだ。


 では意志でコントロールできない行為、あるいは意図的に支配できない行為はどうだろう。例えば、

強迫神経症の患者は、何度手を洗っても十分洗った気がしなくて強迫的に手洗いを反復するが、

手洗いをとめようと意志しても止められないわけだから、それは意志・意図の範囲外に存在する行為と

して、「私の行為」とは見做されない。刑法39条の「心神喪失」の定義は、「事物の理非善悪を判断

する能力がないか、あるいはこの判断にしたがって行動する能力のない状態」だが、この定義がいかに

密接に近代欧米の道徳哲学に関係しているかがお分かりになると思う。なぜ犯罪行為に至ったかの理由を

判断できない場合、そしてこの判断(意図)に従って行動する能力がない場合は、道徳的に追求すること

ができない。つまり私(彼)の意志に反する行為は、私(彼)の行為ではないとなる(ではいったい誰の

行為?)。


 ところで、意志によって行為を決定する「私」、意図を行為に表す「私」とは、誰なのだろう? 

どういう「私」なのだろうか? 答えは、行為を意志したと意識された「私」である。つまり意識という

鏡に映った範囲の「私」が、道徳的主体の私と見做される。そして意識に移っていない部分は、

いかに身体的には自分に属していても「非・私」になるわけである。ここで、近代道徳哲学のもう1つの

中心教義が明らかになる。それは、「私」とは、意識に昇る範囲での「私」であり、意識に昇る範囲の

「私」は、意志によって行為を支配できるというドグマである。


「理性による自己理解」


 もし私たちが意志によって行為をコントロールできれば、私たちは自分自身を誰よりもよく理解して

いるといえる。なぜなら、行為の理由は私たちの意図の中に秘められており、私たちが意図したわけ

だから、私たち以上に行為の真実を知る人はいないだろう。自己に対する確実性の意識は、「われ思う、

ゆえに、われあり(Ego cogito, ergo sum)」という定式で、デカルトを通して近代哲学の基礎となって

いた。デカルトの定式は、必ずしも「自己の行為の意図を私は熟知している」ということと直接関係は

ないのだが、「認識は私に基づく」という自信は、デカルトの哲学の延長線上にしか生まれなかった

だろう。


 私は、私の行為の理由を知っている。つまり私は、私の行為の動機を知っている。では、私の動機が

私にとって不可知のものだったら、どうなるだろう? するとその動機は、「私」の動機ではない。

私が私の行為の主人であるのは、自分の動機を知っている時だけである。「自分でも何であんなことを

したのかわかりません」といえば、弁護士さんは精神鑑定を申請し、あわよくば「心神喪失者の行為は

これを罰せず」ということで、病院暮らしで済むことも期待できるだろう。理性が行為を把握し、

導いているときだけ、人間は「真の自分である」、これが近代欧米道徳哲学のドグマである。


 さて、こういう欧米の道徳哲学の中心的ドグマが、攻撃に晒されている。しかもこの攻撃が、

まさに欧米的道徳哲学の精神によって養われているから皮肉である。欧米的道徳哲学の申し子である

現代認知心理学、神経生理学が、中心的ドグマに異議を申し立てるのである。それについてはまた次回。

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