刑罰論

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人は裁かず、法が裁く

 マスコミが散々、「人を裁くことの重さ」を強調するので一言。近代国家においては、人が人を裁

きません。法が人を裁きます。つまり、近代国家は、

「人が裁くこと」をやめて、「法が人を裁く」のです。

ですから、マスコミや法曹界が、国民に人を裁くことの重大さを喧伝するのは、何か下心でもある

のでしょうか?


 たとえば、太郎さんが人を殺した場合、すでに刑法が殺人を罪と定め、ある一定の刑期を課しているた

め、太郎さんを裁いているのはであって、裁判員ではありません。弁護側が無罪を主張するの

も、法がそのように定めている可能性に基づいているわけです。


 裁判員がすることは、法が妥当する範囲を確定することだけであって、人を裁くのは法の仕事です。人

を裁くのは法の仕事、法の正確な運用が人の仕事です。


 モンゴルではいまだに法治主義が徹底していないので、人が人を裁きます。辛いですよ、こういう国に

住むのは。日本はこういう状態から脱して、「法を持って人を裁かしめよ」という法治主義であ

り、法を主体にしますので、裁判官が誰であれ公平な判決が行われるという建前です。


 ですから、裁判員が「死刑の判決を下す責任は重い」なんて勘違いした論調が見られますが、裁

判員は人を死に定めません。定めるのは法です。もし裁判員が人を死刑に定めるのなら、定めない

自由もあるはずですが、法が妥当する限り、そのような恣意は認められていません。ここで裁判の

真の主体が明らかになります。

近代国家においては、裁判の真の主体は法律です。


 ですから、マスコミの最近の論調は意図的がどうか不明ですが、ウソであり危険です。まるで人治主義

であるかのような印象を与えますから。裁判員制度は、「法を法に定められたとおりに運用せよ

と要求しているだけで、「人を裁け」とは要求していません。人を裁くと思っている裁判員は、たん

なる思い上がりか、勘違いでしょう。量刑を定めるのと、人の罪を裁くのでは天と地の違いがあります。


 マスコミの似たような情報操作としては、さも法務大臣が死刑囚を殺したような論調が挙げられます。

死刑を執行した主体は法律であって、法務大臣ではありません。

殺人者の悔恨

 モンゴルで日本人女性が殺害された。大変痛ましい事件である。異国の地でこのような最期を遂げた被

害者の無念を思うと胸が痛む。心からご冥福を祈りたい。


 大切な娘さんを奪われたご両親の痛みは計り知れないと思うし、モンゴル在住の日本人の心境を思うと

さらに心が痛む。元・海外青年協力隊のメンバーと食事をした帰りということだが、最後に一緒に過ごし

た方々の心境は察するに余りある。モンゴルのような小さな国で暮らす日本人たちにとっては大きなショ

ックなはずである。


 私がモンゴルに滞在していた時も1人の日本人が殺されたが、異国で暮らしていたからだろうか、本当

に胸が痛んだ。次は自分ではないかという恐怖感と奪われた命の尊さが、やけに心に迫った記憶がある。

ニューヨークのような4万人も日本人が暮らす都市は別として、外国で同国人が殺害されると、死という

か殺された人の痛みが異様なリアル感で迫ってくるものである。


 遺体が発見された場所と友人宅の位置からすれば、鈴木さんのアパートはタクシーで帰るには近すぎる

距離である。あの辺の場所は、私が知るだけでも2人の日本人が襲われている。深夜のタクシーに女性が

乗るのも危ないので、徒歩で帰宅せざるをえなかったのだろう。


 殺人者に反省と悔恨を求めるのは裁判官の常だが、殺人者が悔恨するというのはどういう事態だろう

か?ドストエフスキーとニーチェによれば、犯罪者が反省するのは捕まったことだけで、犯罪自体

を悔やむことはないということだが・・・。


 神学的に云えば、悔恨とは自分が犯した罪の恐怖を知るということである。つまり、悔恨には必

ずしも良心の咎めや罪の反省、被害者への罪責感を伴う必要はない。悔恨の本質は、

犯した罪の恐怖が自分に降りかかり、その罪の恐怖に苦しむことである。

これ以外に悔恨などない。殺人の場合であれば、殺人者が「殺される恐怖」、つまり自分が被害者

に与えた苦痛(罪)の恐怖を自分が味わうこと、つまり自分の罪に苦しむこと、これが悔恨であ

る。自分の罪に苦しまない限り、知的に反省しても、被害者に罪責を感じても、悔恨には程遠いのだ。


 古代から近代までの人たちが知っていて、進歩的現代人が知らない洞察とは、この悔恨の心理学だろ

う。

死刑とは、まさに悔恨を生むために行われるのだ。

死刑囚が看守の足音に死刑の到来を感じて日々怯える時、彼は自分の罪に苦しんでいるのである。死刑と

いう自分の罪の結果に苦しんでいるのではなく、殺人(死刑)という自分の罪自体に苦しむ

のだ。彼が恐れる殺人(死刑)は、まさに彼が他者に強制したものであり、それに苦しむ時、彼は悔恨し

ているのである。


 この悔恨は、−レヴィナス風に言えば、「死ぬことが不安なのは、死にゆく存在がみずから終わりなが

らも、みずからを終わらせることができない」というやつは−、実際に死が確定してみない限り絶対に現

実にならない類のものであり、したがって死刑判決だけが与えるものである。


 終身刑と死刑の無限の距離とはこれであり、弁護士や裁判官が、自らの言葉通りに殺人者に悔恨を望

み、それが犯罪者の人間性を救うと信じるのであれば、殺人者の刑は死刑以外にない。「死刑は悔恨のチ

ャンスを奪う」、というのはウソである。死刑だけが殺人者の悔恨を生むのだ。悔恨とは、センチメンタ

ルな後悔や反省ではなく、自分の罪の恐怖に苦しむことである。近世までヨーロッパでは、刑罰に

は浄化力があると信じられたのは、この意味の悔恨を前提としてのみである。
 応報的正義 (Retributive Justice) は、欧米のリベラルには評判が悪い。それなりの理由はあ

る。例えば、ガザ地区の空爆やテロなども、双方が応報的正義の名の下に復讐を行う。応報的正義の弱点

は、応報的正義の原則だけでは、応報の連鎖自体を止められないことにある。何年か前に、アフリカの2

つの部族が、相互に大量虐殺したことがあったが、応報は一度歯車が回りだすと確かに止められない。


 そういうわけで、欧米の一部リベラルたちの中には、配分的正義(Distributive Justice) しか

認めないという人もいる。死刑廃止論者はそういう典型で、応報的正義を悪だと糾弾している。さて、本

当に応報的正義は悪なのか?


 その答えを探す前に、日本のサヨクについて一言。日本のサヨクも応報的正義糾弾派だが、核武装発言

とか、戦争肯定発言とか、「過去を美化する」発言とか、村山談話否定発言とか、そういう発言者に対し

ては、誰よりも応報的正義をヒステリックに要求するのはなぜだ?応報的正義は、「悪」や「罪」に対す

相応の罰を要求するが、最近の自衛隊幹部の論文事件では、ずいぶん過剰な「応報的正

義?」を要求していたのはサヨクだったと思うが・・・。とんだところで馬脚を現すものである。応報的

正義についての議論では常に保守派が正しいのは、サヨクが保守的発言には過剰な応報的正義を要求しな

がら、同時に「応報的正義を廃止せよ!」と矛盾した言動を恥じないところに理由があるのだろうか。


 さて応報的正義否定派リベラルは、肝心な点を見逃している。どんな種類の正義もそうだが、正義は法

の支配と抑止が機能している社会にだけ存在する。したがって、応報的正義も法の支配と抑止が機能して

いる社会にだけ存在するのだ。だから応報的正義は、普通の社会で機能する分には何の問題もないし、む

しろ社会が機能するための不可欠な条件でさえある。というか、

普通の社会で機能している応報だけを応報的正義と呼ぶのである。



 問題は、応報が法の支配と抑止を超えた場所で起こった場合だ。現在のパレスチナがそうである。「国

際社会」と云っても、世界政府があるわけではないので、イスラエルとハマスを統治する高次の法の支配

と抑止が存在しない。だから、現在パレスチナで起こっているのは「応報」であって、応報的正義

ではない。正義は法の支配と抑止が機能している社会にだけ存在するからだ。正義とは対立する2つ以上

の要求を調整するための原則だが、ハマスとイスラエルの主張を調整する原則は、今のところ存在しな

い。そういうわけで、「正義」のないところには暴力しか存在しない。


 そういうわけで、リベラルは応報と応報的正義を混乱して理解している。応報が応報的正義である限り

は、何の問題もない。法によって抑止された応報が応報的正義だから。したがって、応報的正義には何の

危険もないのだ。

というより危険のない応報が応報的正義だから。

死刑と赦しの神学

 死刑反対派の主張の1つに、「復讐の無意味」さと「赦しの大切さ」がある。「復讐は復

讐を生むだけ」、「復讐しても死者は生き返らない」、「赦しあう社会の実現」とか、美辞麗句が並べら

れる。それに対して、死刑肯定派からは、「自分の家族が殺されても同じことが言えるのか?」という反

論がなされる。


 「自分の家族が殺されても同じことが言えるのか?」という反論に加えて欲しいのが、

「自分が殺される時も同じことが言えるのか?」という疑問である。

自分の家族が殺されても、「犯人を赦します」と言える人はいるだろう。問題は、自分が殺される時に同

じことが言えるかどうかである。犯人の不幸な生い立ちや家庭環境に同情し、犯人自身も社会の犠牲者と

して認め、自分は殺されても、「犯人の今後の更正に期待しよう」と思えるのか?


 日本の死刑反対論者の「赦しの神学」は、デリダなどに代表されるユダヤ・キリスト教的ヒューマニズ

ムからの孫引きである。それなら小生はキリスト教徒として言わせてもらうが、自分を殺そうとする者を

赦すということは、相手の暴力を受け入れ、それに抵抗しないということである。キリストは十字架の上

で、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と、神に叫んだ。自分を

殺す者を赦すとは、こういうことである。


 さて、「自分が殺されるときも同じことが言えるのか?」。これはダブル・バインドな質問だろう。

「ハイ」と答える権利のある人間は、自分に対する侮辱や批判やいじめに怒ったことすらなく、つねに赦

し続けてきたはずの人間である。つまり正真正銘の聖人である。そうすると、「ハイ」と答えた時点で、

自分が勘違い野郎であることを明らかにしてしまう。「いいえ」と答えたら、彼の死刑反対の論拠は成立

しない。


 死刑反対論者にもう1つ伺いたいのは、こういう質問だ:「あなたが少女を陵辱して切り刻み、その両

親をも理由もなく惨殺した場合、自分が受けるにふさわしい刑罰は、終身刑か死刑か?」。この質問もダ

ブル・バインドな質問だ。「終身刑」と答えたら、彼の死刑反対は、究極的には自分に対する甘さと責任

感のなさに基づいていることになる。つまり、他人の命は奪っても良いが自分の命だけは絶対守りたい類

の人間だということを暴露してしまう。「死刑」と答えたら、彼の倫理観の峻厳さは証明されるが、死刑

反対の旗は降ろさざるを得なくなる。死刑についての論議は、それを親しい家族に当てはめる時より、

自分自身に当てはめるとき、その隠れた前提が明るみに出るのである。

仰天の裁判員制度

 裁判員制度が来年から導入される。小生の裁判官という職種についての先入観がひっくり返った。小生

は司法についてはズブの素人なので専門的なことは知らないが、この制度には奇妙な印象を持たずにはい

られない。


 みなさんは、包丁も握ったことがないシロウトが料理を作るレストランに食べにいくだろうか?医学に

ついてズブの素人が治療する病院に行くだろうか?どんな職種の仕事にも多少の専門性が要求される。こ

の場合の専門性とは、仕事を習得して、ある程度の熟練に達するまでは、多少の期間が必要であるという

意味である。コンビニや居酒屋のバイトでさえ、ある程度のレベルまで仕事を覚えるには時間がかかる。

バイト初日から、先輩と同じ程度にこなせる仕事なんて存在するのだろうか?


 裁判員制度を求人案内として考えてみよう。すると募集案内には、こう書いていることになる。

職種:裁判官。シロウト、未経験者大歓迎、学生からお年寄りまで年齢に関係なく誰でも出来る簡単な仕事。ノルマも研修もありません。

 裁判官って、そんなに専門性の低いバイト程度の仕事なの?だったら、司法試験、廃止しようよ。法務

省は、仕事というものを舐めきっている。手術台を囲む医者のチームの9人に6人がシロウトだったら、

みなさんどうする?そんな手術受けますか?手術には身体的生命が懸かっているが、裁判には社会的生命

が懸かっている。どちらも失敗したら、ダメージ大きいぞ。


 裁判も職種の1つなら、質の高いサービス(商品)を提供すべきだろう。裁判店Aと裁判店Bがあったと

しよう。裁判店Aは、専門的知識を備えた熟練社員3人が働いている。裁判店Bは、熟練社員3人と昨日雇

われたばかりのシロウト6人、合計9人が作業している。小生なら、迷うことなく裁判店Aでサービス

(商品)を購入する。B店は、シロウトが混ざることで不確実性が高まるからだ。


 裁判所が提供すべきサービスは、法解釈と判決の厳正さと公正さのみである。それ以外にはない。厳正

さと公正さは、熟練した技術と高度な専門知識だけが保証できるものであって、シロウト芸の対極にある

ものだ。


 裁判員制度は、刑事裁判に国民が参加することによって、裁判と国民感情の距離を近づけようという狙

いがあるそうだが、方法が根本的に間違っている。たしかに極悪殺人犯が心神喪失などを理由に減刑され

る判決に対して、国民感情が反発している。


 しかし、そうだとしたら変えるべきは刑法であって、裁判制度ではない。国民が厳罰化を望んでいると

したら、刑法を厳罰化して国民感情に近づけるべきである。刑法39条を削除して、精神鑑定をやめる。

非道な殺人犯なら1人殺害でも死刑にすると明記する。刑法は、国民感情に合うように改正されるべきで

ある。精神科医という変わり者は別として、多くの国民は心神喪失という観念を認めていない。


 他方で、刑法の運用は、公正の上に公正、厳密の上にさらに厳密であるべきである。つまり裁判は高度

にプロフェッショナルであるべきである。刑法の運用が国民感情に左右されたら、みんなが困る。法務省

は、国民感情に合わない刑法を改正せず、プロの仕事が要求される法の運用にシロウトを参加させるとい

う二重の誤りを犯している。


 裁判は職である。仕事である。すべての仕事がそうであるように、熟練には時間がかかる。裁判官の質

を上げる制度改革なら歓迎だが、裁判官の質を下げる「シロウト参加」とは・・・・。官僚の発想は理解

できない。

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