悪魔的なもの
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悪魔は幽霊ではないのだ
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古代社会では、名前は生命に直結していた。悪霊は名前を知られたとき威力を奪われ、人間は悪魔に名 前を知られたとき魂を奪われたという。ちなみに、忍者は名前を明かしたときは、自ら命を絶ったそうだ が、事実かどうかは知らない。 個人や家庭、学校や社会に巣食う悪霊は、名前を明かされることを嫌う。というより、悪霊は名前を明 らかにされたとき、つまり正体が暴かれたとき、その威力も失っていまうのだ。キルケゴールが云うよう に、悪魔的なものとは、沈黙するもの、自己を閉じるものである。名前が明らかにされた時、悪魔は沈黙 を解かねばならない。 悪霊は交換を欲しない。人間生活は、交換によって成り立っている。つまりコミュニケーションによっ て成り立っている。言葉を交換する、貨幣を交換する、愛を交換するなどなど・・・。悪霊は、交換の輪 の外に自分を置こうとする。悪霊は、意図的にコミュニケーションから疎外しようとする。 私たちを支配する悪霊は、「たしかにそこに何かが存在するが、それが隠されたまま」である何かであ る。人間関係が、いつも同じパターンで破滅する人がいる。何度幻滅してもダメ男と交際する女性、懲り ずに新興宗教に騙される信者、繰り返して傷つけあうくせに離れようとしない家族など、いつも同じ失敗 を繰り返す反復強迫のことだ。あるいは、過度のアルコール依存、異常な性癖とかは、何かが自分を駆り 立てているのは確かなのに、その何かが隠されたままなのだ。矛盾した言い方だが、悪霊は常に秘密とし て現れる。秘密が隠された物として、現れるのだ。 したがって、悪霊の呪縛を解くためには、「沈黙としてだけ現れる何か」を明るみに出さねばならな い。明るみに出すことによって、交換の対象にしなければならない。悪霊が怖れるのは、交換活動 に巻き込まれることである。つまりコミュニケーションに連れ戻されることを怖れる。コミュニケーショ ンは、悪霊から威力を奪う。犬神家を襲う呪われた反復強迫は、一族の隠された秘密が暴かれてコミュニ ケーションの対象になった時、呪縛の威力が奪われる。人間関係の反復強迫が支配力を失うのは、その隠 された原因(過去)が、自意識にのぼりコミュニケーションの対象になった時だ。自分の過去の恥や致命的 な弱さを告白できる人は、すでに悪霊の呪縛から解かれている。他者との言葉の交換に入った人は、悪霊 の支配の外に出ようとしている。 新約聖書によれば、イエスは悪霊に呪縛された人に尋ねる、「名は何というのか?」。悪霊は答える、 「名はレギオン。大勢だから(マルコ5:9−10)」。勝負はここで決まった。名前を明かした途端、 悪霊は沈黙を破られ、その名前で語りかけられ、言葉の交換活動に巻き込まれる。 個人の問題、家庭の問題、社会の問題は、そこに憑依する悪霊の名前が、明らかにされねばならない。 名前が明らかにされた途端、悪霊はその呪縛の力を緩めるのだ。もちろん、解決には時間がかかるだろ う。しかし、悪霊は隠れたものではなくなり、白日の下にさらされて対話の過程に巻き込まれる。悪霊に 力があるのは、それが秘密のままである期間だけである。カウンセラーや精神科医、政治家や評論家の仕 事とは、悪霊をその名前で呼び出すことである。
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キルケゴールは、『不安の概念』において、悪魔的なものを「善に対する不安」と定義している。一節 引用してみよう。 悪魔的なるものとは、自己を閉じ込めようと意欲するところの不自由性である(岩波文庫) つまり、悪魔的なものは、自己の中に閉じこもることであり、したがって沈黙が特徴である。悪魔的なも のは、交わりを欲しない。交わりに対する極度の不自由といってもいいだろう。オウム真理教の麻原彰晃 が、裁判の後期に、自分の弁護士にさえ口を開こうとせず、異常な沈黙の中に引きこもったことを思い出 すと、この点はなんとなく腑に落ちてしまう。 キルケゴールは、このような閉じこもりに対抗する有効な方法を紹介している。それはなんと、沈黙と 凝視だそうだ。なるほど、相手の沈黙に対しては、こちらも沈黙で対抗するわけだ。黙秘を続ける犯罪者 がいるとしよう。取調官は、一言も発しず、ジッと相手の目を凝視して動かない。お互いの沈黙が続く。 何時間経過しても、眉一つ動かさず、取調官は沈黙して相手を凝視し続ける。キルケゴールによれば、こ の方法でやられたら、どんな犯罪者も最後には白状せずにはいられないそうだ。疾しい心を秘めた人間に とって、これより辛辣な尋問はないのだと言う。 小生は自分自身で試したことはないので保証はできないが、夫の浮気を疑っている方などは、試してみ る価値があるかもしれない。矢継ぎ早に問い詰めたりせず、一言だけ質問して沈黙し、相手をじっと見つ めて黙り続ける・・。黙り続ける・・・。黙り続ける・・・・。誰か、麻原彰晃に試してくれないだろう か。
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柄谷行人氏は、「理念とは、統整的であって、構成的ではない」と云っている。つまり、理念とは、現実 的なものではないので、そのまま実現するはずがない。実現の努力を調整する役目を果たすものなのだ。 私が強調するのは、道徳性とは、人格の統合であるという仮説である。通常、私たちの人格を、最も 強力に統合してくれるのは、潜在的可能性のイメージである。もちろん、そういうイメージは種々ある が、私たちにとって、最も包括的で、最も力強い「自分」を実現できる潜在性のイメージを産む自我の関心 を、ニーチェは「主衝動」と呼び、ティリッヒは「究極的関心」と呼んだと考えている。そういう潜在性のイ メージは、いまだ実現はしていないが、その達成が不可能ではない状態である。類比的に云えば、旅行の チケットは買ったが、まだ出発しておらず、旅の計画を練っている心理状態である。ちなみに、この時期 が、一番楽しい。 こういうイメージが皆無な状態を、絶望と呼ぶ。何の展望も見出せない状態である。ティリッヒは、 生の本質を、「潜在的可能性が、自己実現する現象」と定義した。人間には、こういう潜在的可能性のイ メージを創出する機能が本来存在するが、その具体的内容を与えてくれるのが、伝統・文化である。 さて、正常な人間においては、人格の統合は、自分の潜在的可能性のイメージが統整的に働くことによ って生まれる。イメージは、完成に向かう道しるべであって、仮にその理想がそのまま実現しなくても、 道標としての役目を果たせば、それで満足し、満足しなかった面は、次回の目標として、後の楽しみとし て残る。彼には、統整的なものを、統整的なものとして受容できる余裕があるのだ。 ところが、悪魔的なもの、つまり憑依状態の人格においては、本来統整的なイメージが、構成的に 働いてしまうのだ。つまり、現実に完全に実現すべきものだという強迫的観念において働く。もちろん 現実は複雑なので、潜在的可能性は、理想通りには実現しない。悪魔的な彼は、その不完全性の原因を 他者に投影する。彼は、全能性を自分自身に証明しなければならない。そのため彼は、他者を完全な支配 の下に服従させようとする。これがまさに、悪魔的なのだ。スターリン主義にしても、文化革命にして も、クメール・ルージュにしても、理念で現実を構成しようとするから、悪魔的になってしまうのだ。 悪魔的なものを生み出すのは、展望のなさ(絶望)である。絶望を回避しようとする生命力が、反動とし て、偽りの潜在的可能性のイメージを生み出し、それに固執する。その場合、イメージは統整的なもので はなく、完全に実現すべき強迫的なイメージになる。歪曲された自己の万能性を証明する手段は、本質的 に暴力にならざるを得なく、威嚇と、強制、殺人に行き着くだろう。イエス・キリストが、「悪魔は最初か ら人殺しであって、偽り物の父である(ヨハネ8:44)と云ったのは、こういう意味においてである。 潜在性のイメージは、理想どおり現実化されることはない。私たちが秘めている可能性は、それが実現す る時には、つねに多少期待を裏切る形でしか成就しない。この現実を受容できないと、人格統合のイメー ジは、強迫的になってしまう。 憑依現象が起こる人格には、外傷的記憶(トラウマ)が多いとされているが、社会的憑依も同様であるこ とに注目したい。ルイ王朝絶対王政の後のフランス革命、農奴制の後のロシア革命、屈辱的ベルサイユ条 約の後のナチス・ドイツ、欧米包囲網の後の日本の戦争、日本敗戦ショックの後の絶対的自虐史観、日本 の植民地政策の後の北朝鮮、欧米列強・日本の侵略のあとの中国共産党独裁、アメリカの覇権的干渉のあ とのイスラム原理主義、などなど・・・。外傷的体験によって、人格を統整的(Regulative)に統合するイ メージが壊れる。それに代わって、新たな支配的イメージが、人格を構成的(Constitutive)に統合しよう とする。すると、支配的イメージは、「意味−破壊的−意味」、「形態−破壊的−形態」となって、最初に 強い人格統合を生み出し、次に矛盾と葛藤に苦しみ、最後に自己崩壊してしまう。これが、小生が考える 「悪魔的なもの」についての仮説である。
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