神へのアプローチ

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神の正当性?

 アメリカの名門大学の新約学教授でありながら、棄教して不可知論者になったバート・アーマンの問題

作『破錠した神−キリスト』を図書館から借りてきた。この手の本は、お金を出しては買わない。じつ

は、このアーマン教授は、福音派出身のいわばお堅いクリスチャンだった。そのアーマンが棄教したのは

神義論のゆえだった。神義論とは、西洋では神の正当性を問う議論である。


 「神義論」という用語は、17世紀のライプニッツに遡るが、この用語に欧米人の宗教センスが象徴さ

れている。神義論においては、神の正当性を問う主観が人間であり、神は問われる客観であ

る。ついに神は、裁判所の被告席に座る客観となってしまった。


 何度もこのブログで繰り返しているが、欧米人の愚かさは、神をたんなる対象にする点にある。

というより、すべてのものを対象として扱う。ここが彼らのダメなところだ。ここに私が『主観』

として存在する。あちらに世界が『客観』として存在する。全てがこの図式である。自然も、社会も、人

間も、私という主観から観察される客観である。対象からは主観性と主体性が奪われる。主観性と主体性

を保持するのは私だけであり、対象は受動的であるに過ぎない客観なのだ。


 ところが、神とは絶対的主体である。神は決して客体とはならない。神について正当性は問われない。

なぜなら、神とはあらゆる正当性の根拠であり、つねに正当性を問う主体である。人間が何かの

正当性を問うとき、その前提、根拠、基準となるのが神であって、神は正当性を問われることはない。な

ぜなら、神が正当性そのものだからである。

神はそういうものというよりも、そういうものを神と呼ぶのである。

これが、宗教的思考である。中沢新一氏あたりは、こういう宗教的思考がないようなので、つまり

神を安易に対象化するから、どうもエセ宗教学者に思えてしょうがない。


 本来のユダヤ・キリスト教的伝統によれば、正当性を問われるのは人間であり、裁く主体は常に神であ

る。欧米人とは発想が逆なのだ。欧米人は、「神の存在証明」に熱中するが、ここでも神は証明の対象に

なってしまう。

神とは証明される客体ではなく、あらゆる証明の根拠であり前提である。

そういうものを神と呼ぶのだ。もう1度いうが、発想が逆なのだ。


 そういうわけで、アーマンをはじめ欧米人が神の正当性を問うて棄教するのは当然である。なぜなら

正当性を問われる客体として、それはすでに神ではないから。

神とは、決して客体にはならない何かである。


 欧米人に比べて、京都学派の哲学者たちの神学はナント洗練されていることか。キリスト教徒の小生

は、同じキリスト教徒の欧米人より、仏教者の彼らの方に親近感を感じてしまう。京都学派の哲学者たち

に共通しているところは、神を決して単なる対象にしない点である。久松真一によれば、神とは絶対自者

である。主体的主体である。西田幾多郎によれば、神とは絶対矛盾的自己同一である。この難解な

用語は、小生の翻訳によれば、「同時に主体となることなしに客体とはならないもの」である。京都学派

の宗教センスの品の良さは、禅仏教あたりから来るのだろう。

私とは自己矛盾である

 京都学派の哲学とは、本質的には宗教哲学である。日本のある時期、アカデミックな論壇で、日本を代

表する知性たちによって、これほど宗教が真剣に議論された時期があったとは、驚くばかりである。京都

学派に比べると、中沢新一の宗教モノなどは日刊ゲンダイ程度に思えてくる。


 京都学派に共通しているのは、神を内在的超越に求めるアプローチである。一般には、人間は神を外部

的超越の方向に求める。欧米の有神論的立場に代表される。つまり、自己の外部に存在するモノとして求

める。宇宙の支配者として、善悪の裁判官として、創造者として。神は向こうにあり、私はここにいる。

神と私は対立する。こういう立場は、神を対象的に見る立場である。これを対象的超越という。


 これに対して、京都学派は神を内在的に求める。つまり、神を自分の根底に求める。神を自分の外側に

超越した対象としてではなく、自分の内側の根源に超越する方向で求める。これを内在的超越とい

う。


 欧米の宗教哲学は推論から出発するが、京都学派の宗教哲学は自覚から出発する。何の自

覚かと云えば、矛盾の自覚である。自己の根底には、自己を否定するものがある。しかも、それが

自己の根源であるところに矛盾がある。

つまり、自己の根源こそ、自己を否定するものである。

これを自覚するところから宗教が始まる。


 あるいは、真の自己とは他者である。これが人間の矛盾である。例えば、私が真に望むものが無

条件に与えられたとき、私はその重みに耐えられない。自己が真に望むものは、自己には担いきれないも

のである。つまり、自己が真に望むものは、自己を殺すものである。自己の真の欲望は、自己にとって他

者なのだ。ようするに、

人は真の自己に耐えられない。なぜなら真の自己とは絶対他者だから。



 宗教的意識とは、私たちが、「あまり真剣にそれについて考えたらやばいぞ・・」と予感する場

所にこそある。深く考えたら自己矛盾に触れてしまう場所にあるのだ。京都学派の宗教哲学が日本的霊性

を的確に表現しているとすれば、日本で真剣な無神論が生まれなかった理由もうなずける。無神論とは、

神が人間の外部に求められる宗教的伝統でしか生まれないのだろう。つまり、欧米でしか生まれなかっ

たのだ。
 神とは、たんてきにいって、成功と破滅を約束する存在である。神のこの性格は、数千年変わっていな

い。人類から宗教がなくならない理由も、ここにある。人類は、成功への願望と破滅への恐怖の狭間で生

きる生物だからだ。旧約聖書の申命記には、「見よ、わたしは今日、あなたたちの前に祝福と呪いを置

く。あなたたちは、今日、わたしが命じるあなたたちの神、主の戒めを聞き従うならば祝福を、もし、あ

なたたちの神、主の戒めに聞き従わないならば呪いを受ける(申命記11:26)」と書かれているが、

この神の命令こそ、宗教の原型であり、人格形成の原型である。神という言葉を親、先生、医者、上司、

政治家、法律、社長、先輩、伝統、慣習、カウンセラーという言葉に置き換えて読んでみればいい。


 幼少の頃は、親が成功と破滅を約束する。親の戒めを聞き従うならば祝福を、聞き従わないならば呪い

を受けると脅されてしつけられるものだ。小学校に入学すると、先生がその役目を引き受ける。少なくと

も、小生が学童の頃はそうだったが、現在では教師は、祝福も呪いも約束できない弱い立場にあるらし

い。上述の申命記11:26は、人格形成の普遍的命令であって、この言葉で、ある時はおだてられ、あ

る時は脅されながら育てられない限り、人間は社会的存在になることはできない。


 人間が、自分の安定や幸福を保障する、あるいは脅かす対象を怖れるのは当然である。有限であるだけ

でなく、自己の有限性を意識している生物・人間は、自己の安定と破滅を外部に依存していることも意識

している。

人間は神に依存しているというより、人間が依存しているものが神である。


宗教に頼る人を弱い人と断じ、自分は自立心の強い人間だと勘違いする人が多いが、かれの自立心が示し

ているのは、かれが依存しているのは宗教の神ではなく、他の神であるという当たり前の事実である。


 このブログで、何度かファイエルバッハの宗教哲学を紹介したが、かれは「神とは、人間の理性を投影

したものである」と定義した。この言明が示しているのは、フォイエルバッハにとって、人類の成功と破

滅は、理性の命令に従うか、従わないかにかかっており、つまり彼にとって理性が神であったということ

だけだ。したがって、フォイエルバッハは理性を怖れ、理性に対して弱かった。理性に反して行動すると

破滅を予感し、理性に従うとき成功を予感した。反理性的とは、最大の呪いだった。19世紀ドイツの知

識階級の典型である。

人間は別の神の名によってしか、神を否定できない。



 さて、フォイエルバッハの時代と現代の違いは、神がますます小さくなって細分化してきたことだろ

う。神は相変わらず、人間に成功と破滅を約束するが、神は小さな神となり、同じ顔で身近に何度も登場

する。映画マトリックスのエージェント・スミスのように。世俗社会の神は、他人の欲望である。ジラー

ルやラカンの理論は、その注解書であり、つまり神学書である。一昔前は、成功と破滅を約束する神の命

令は、首尾一貫していたので、それに従うのも背くのも明確であった。どんな祝福が与えられ、どんな罰

が与えられるのかも明確だったので、それに比例して人格の一貫性は強固になった。現代は、小さな神々

が、微妙に違う命令を発し、その報いと罰も微妙に違い、しかもスミスのようにいろんなところに出没す

るので、人格の一貫性は揺らぎ、その場その場でコロコロ変わる。

自分は自立心が強いと信じている人ほど、他人への羨望と嫉妬に弱い。


いわゆる伝統的宗教の神への依存心が強い人ほど、人格と行動パターンが一貫している場合が多い

のは、彼が依存する「成功と破滅についての約束と命令」が体系的で首尾一貫しているからである。


 人間は誰でも神を恐れる。というより、自分が恐れているものが神である。いわゆる宗教信者は、自分

が神を恐れており、神の命令に従うことで幸せを成就しようとしていることを自覚している。そこには恥

や卑屈の意識はない。「神からの自立」を自慢する人は、神への恐怖とその否定が並存している。し

たがって、自分に成功と破滅を約束し、その法を命じる「他人という神」に対して、羨望と嫉妬が、

傲慢と卑屈が入り混じる。怖いものは怖いし、自分が怖がっていることを認める方が、はるかに健康的

で、人格も安定するのだが・・・。
 欧米の宗教哲学で常にホットな話題といえば、神の存在証明である。賛成する側も反対する側も、論理

の蓋然性や妥当性を巡って、熱く火花を散らしている。欧米人には、常識過ぎて疑うことすらないのだろ

うが、日本人の小生が諸論文を読むと、そこにはまったく無批判に前提されている公理があることに気づ

く。その公理とは、「神とは肉体を持たない霊的実体であり、全能にして全知の宇宙の創造主、道徳の源

泉である完全な人格である」というものだ。神の存在の反対者は、そういう存在には矛盾があり、したが

って存在は不可能だと主張する。神が全能なら、なぜ世界は不条理で悲惨なのか?神の全能と人間の自由

は両立するのか?神は、自分でも持ち上げることができないほど、重い物を創造することができるか?そ

れらの疑問に対して、援護者は理屈をこねて反論する。すべては、この公理を前提しての擁護であり攻撃

である。


 ここでは、その公理を批判しようとは思わない。問題にしたいのは、神についてのこの公理が、

神の概念なのか、それとも神の観念なのかという点だ。


答えは云うまでもない。それは神の概念である。キリスト教有神論の神の概念の1つだ(キリスト

教と一口に言っても色々あるので)。イスラム神学者、ゾロアスター神学者、ヒンズー神学者は、それぞ

れ「神とは、○○○である」と定式化する。それに対して、無神論者は反論する。神学者が擁護している

のは、彼の神の概念であり、無神論者が反論しているのは、その神の概念である。


神の概念と神の観念を混同してはいけない


神の概念は、歴史的、社会的、宗教的要因によって変化する。神の概念は、哲学的に、歴史学的に、社

会学的に、心理学的に説明することができる。しかし、神の観念の起源と存在は、歴史的、社会的、心理

的には説明できない。神の概念は、多様に分岐し発展してきた。それこそ、人の数だけ神の概念の数もあ

るだろう。しかし神の観念は、人類史を通して普遍的に存在してきたし、これからも消えることはない。

神という用語が意味する概念は千差万別だが、神の観念は一貫して普遍的である。マルクスは、「神とは

抑圧された民衆の幻想だ」といったが、彼が念頭においていたのは、当時ヨーロッパでポピュラーだった

キリスト教有神論の神の概念である。ある特定の神の概念を批判した無神論者はたくさんいたが、いまだ

かつて、神の観念を批判した無神論者は一人もいない。なぜなら、神の概念の批判も擁護も、

神の観念を前提にしない限り不可能だからである。



 神の観念とは、絶対的なもの、究極的なもの、永遠的なもの、完全なもの、無限なものについての観念

である。絶対的自己という近世以来おなじみの欧米的理想が神の観念に投影されると、通俗的キリスト教

の神の概念になる。西田幾多郎のように、禅的無が神の観念のスクリーンに投影されると、「絶対無」と

いう神の概念になる。無神論者は、絶対的なもの、究極的なもの、永遠なもの、完全なもの、無限なもの

についての観念に基づいて、ある特定の神の概念の非絶対性、非究極性を暴露するに過ぎない。無神論者

が、神の概念を否定できるのも、神の観念のお陰なのだ。宗教哲学の課題は、無神論者の関心を、神の概

念から神の観念に向けさせることである。


 人間の謎と神の観念の謎を解くことは、同じことである。なぜ人類には、神の観念が備わっているのだ

ろうか?

神と無限(3)

 線分を切断すれば点が取り出せる。そしてそれを延々と続けていける。可能性としては無限に続けるこ

とができる。その可能性だけが無限であると考えるならば、それは『可能無限』と呼ばれる立場である。

アリストテレスは、可能無限の立場に立った。可能無限の立場は、実際には有限しか認めない。果てしな

く続く可能性といっても、現実にはいつも有限に留まるわけだ。『限界なき有限主義』と言ってもいいだ

ろう。


 それに対する『実無限』の立場がある。たとえば、円周率が数として定まった値を持つと考えると、そ

れは『実無限』と呼ばれる立場になる。円周率の値はすべて確定しており、私たちはそれを有限の位まで

しか知らないだけだと考えるのは、無限を実体としてみなす態度である。無限集合論を作ったカントール

などは実無限派と云えるだろう。


 さて、デカルトはと言えば、神の存在証明の前半までは、可能無限派でも実無限派でもない。ここがデ

カルトのユニークな点である。可能無限を無際限(Indefinite)と呼び、無限として認めなかった。しか

し、神を「無限の存在」として結論した点では、突如として実無限派になってしまう。おそらくデカルト

自身も気づいていなかったようだが、彼の論議は、可能無限でも実無限でもない第3の立場を提示する可

能性を秘めていた。しかし残念ながら、無限なる神を実体として結論した時点で、実無限派に成り下がっ

てしまった。


 第3の立場から無限を考えたのは、小生が知る限りでは西田幾多郎とティリッヒだけである。両者と

も、無限を見えない仕方でのみ現れてくるものとして考えようとした。ここが、その他大勢の論者との決

定的違いである。その他大勢は、無限を「対象論理」によって考えようとした。主−客図式の構図の中で

のみ、無限を考えようとしたのだ。無限を対象として考えると、可能無限か実無限として以外に考えよう

がない。しかし、西田とティリッヒは、主−客が二分化する直前、つまり生成の現場で捉えようとしたの

だ。言い換えると、両者は無限を

形成作用として考えたのだ。


 通常、私たちが「主観」と呼ぶものは、客体を見る自己を対象化したものである。主観といえども、す

でに対象化されているのだ。私たちが「主体」と呼ぶものも、対象論理における主体でしかない。すでに

二分化された一方の極に過ぎない。しかし、二分化を実行する形成作用としての主体は、いわゆる

「主体」とは別物である。ウィトゲンシュタインが云うように、形成作用としての主体は世界に属さな

い。それは世界の限界である。それは自己と世界の対象的二分法を形成する真の主体であり、したがって

絶対に対象化できない。たしかに、およそ認識というものが可能であるためには、物事を対象論理で捉え

なければいけないだろう。自己の認識を対象論理の範囲にだけ限定したのが、カントであり、論理実証主

義者であり、分析哲学だった。それはそれで理由のあることだ。しかし、人間の知性はそれでも、対象論

理を超えて考えてしまうことができるのである。成功するかどうかは別にして、人間はその可能性を自覚

している。だから、ティリッヒや西田のように実行してしまう人が後を絶たないのだ。


 主−客が分離できる以上、差異がある以上、分離と差異が発生する「地」があることは、誰でも自覚で

きる。分離と差異は、何かが分離・区別されたはずなのだ。分離・区別されるはずの「地」がなけ

れば、分離・区別されようがない。およそ思惟と認識は、区別と分離によって成立するとすれば、それに

先行する分離以前・区別以前の「地」は認識の対象にはならない。しかしそれでも、「地」が先行してい

ることは、誰でも自覚できる。今日の対象論理の圧倒的優勢は、科学の実利的完勝に負うところは多いと

思うが、それでもアインシュタインのような科学者は、対象論理に先行する主−客以前の神秘を忘れるこ

とはなかった。無限とは、いかなる限定も受けず、しかし限定そのもの(差異・区別)が発生する何かで

あるというのが、第3の立場だろう。

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