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ysaki777さんのブログ、『環球閑話時事の徒然 IZA見参』に興味深いエントリーがありました。 詳しくは、そちらを参照して頂きたいのですが、マスコミの情報統制の見本のような例が紹介され これじゃ、中国と変わらないなぁ・・。中国人民が情報統制に気づかず中国のマスコミにいいよ うに操られているのを見て、日本人は笑いますが、じつは日本人もまったく同じ状況ですね。まさかと思 う人もいるでしょうが、そのまさかです。 こういう情報統制は、マスコミの当人たちは無意識なのかもしれませんが、たまにシステムの外側にチ ョコット顔を出して内側を見ると気づかされるんですね。ネットがなかったら、完全に私もパペット状態 でした。 最近、新約聖書学の新しい流れに、Empire Criticismというのがあって、「帝国」批判と いう視点から聖書を読み解くのですが、これがなかなか面白いんです。日本の新約学会にはまだ紹介され ていないかもしれませんが。「帝国」は、グローバル資本主義であってもいいし、アメリカ帝国で もいいし、なんでもいいんですが、日本の文脈ではマスコミは完全に「帝国化」してますね。帝国 は実体ではなくてシステムですから、システムの中にいる人は、自分が帝国の臣民であることに気づかな いんですね。 来学期、Empire Criticismのコースを聴講しようと思っているので楽しみです。現代の帝国は、どれも |
キリスト教
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誤解だらけのキリスト教
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明日から神学研究のためにニューヨークに留学することになった。指導教授は、宗教多元論の世界的権威。「諸宗教の神学」という比較的新しい分野があって、その研究が中心的になりそうだ。あちらに着いて、いつからネットできるかわからないが、落ち着いたらまたエントリーします。
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キリスト教徒である富岡幸一郎氏が産経新聞で、「8月15日に靖国神社に参拝した」と報告し た。富岡氏は曰く、「筆者はキリスト信徒であり、神道の神社にお参りするのはおかしいと非難する者も あるが、国家のために殉難した人々を追悼し顕彰することは、国民として当然のことと考えている」と述 べている。 確か、富岡氏は日本キリスト教団鎌倉・雪ノ下教会の信徒であったと記憶している。プロテスタントの 神学者カール・バルトの神学についての造詣も深い。佐藤優氏や富岡氏は、サヨク全盛が未だに続く石器 時代のようなキリスト教界の中で、稀有な「非常識派」である。小生もキリスト教徒であるが、こ ういうキリスト教知識人が増えていることは喜ばしい。佐藤氏の場合は、一抹の疑問を感じないではない が。 こういう新種のキリスト教徒を何と呼ぼう?「キリスト教右派」はアメリカ臭が強いし、「キリスト教 保守派」と呼べば、いわゆる「福音派」と同一視されてしまう。彼らは民族主義的でもないので「キリス ト教民族派」とも呼べない。彼らのようなキリスト教徒は、欧米にはないタイプのキリスト教徒である。 およそ日本でキリスト教徒は、日本の伝統文化の最良の部分を肯定したうえで、なおかつ同時に 全ての伝統文化を超越する一点を意識できる立場に立つべきである。キリスト教徒だけではなく、 仏教徒も神道信者も、日本の伝統文化の最良の部分を肯定しつつ、かつ永遠・無限の超越を意識する立場 を取るべきである。たんに日本の伝統文化を肯定しては、それを批判する立場が出てこない。批判のない 文化は、それで既に死んでいる。しかし、たんに批判しては日本共産党と変わらない。 欧米と南米とロシアと多くのアフリカ諸国と宗教的バックボーンを共有しながら、かつ日本的価値観の 真髄にも迫れる立場として、富岡氏には今後もぜひ活躍して頂きたい。ただ注文としては、富岡氏はまだ 伝統的教義に拘泥している観があるので、そこからも自由に論説して欲しい。
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キリスト教界の話なので、一般の方々はスルーしてください。テーマは教会と政治である。なぜか日本 のキリスト教徒は、教会が政治に関与すべき理由をナチス政権下のドイツ・告白教会の抵抗運動に求め る。バルメン宣言を起草したカール・バルトやヒトラー暗殺運動に携わったボンフェッファーなどの神学 者を引き合いに出して、かつ大東亜戦争に教会が「迎合」した反省として、教会の政治的活動の正当性の 根拠としている。 現在の教会は、護憲派として、君が代・日の丸反対、死刑制度反対、首相の靖国神社参拝反対など、政 ナチスドイツに対する告白教会の抵抗運動を規範として、日本の教会の政治活動を正当化する輩に言い たい。現在の日本政府はキリスト教を迫害していますか? するわけないでしょう今時・・。空気読め! もう1度言うが、教会が政治的抵抗運動に携わってよいのは、教会の存続を政治的に否定されたときだ けである。それ以外は、教会単位としては政治に携わってはならない。なぜか? それは政治的答えには 絶対・永遠・無限が存在しないからである。教会の教会たるゆえんは、教会が絶対・永遠・無限を指し示 すところにある。つまり教会が特定の政治的立場を信奉したら、教会は普遍的に人々を受け入れることが できない。そこが問題なのだ。教会は教会である限り、すべての人々を受け入れる用意があるべきだ。 キリスト教徒は政治に関与していい。ただし個人として。個人としてクリスチャンはいかなる政治的信 条を持つのも自由である。ただし教会の名において特定のイデオロギーが強制されるべきではない。教会 り越して喜劇である。もちろん教会は、罪人を受け入れたキリストに倣って、サヨクをさえ受け入れるだ 教会は政治的立場を超越してこそ教会である。政治は人間の最後の言葉ではない。政治以上のものを指 し示してこそ宗教である。それができない、しかも自治労とか日教組程度の政治的レベルに甘んじている 日本の教会が衰退するのは当然である。
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日本文化とキリスト教というテーマを考え続けてきた。キリスト教が日本自生の宗教でない以上、日本 人の論理と感性の間に齟齬が生まれる。聖書とはイスラエル民族の宗教史であり、したがって登場人物は すべてカタカナで表記される。原典は、へブル語とアラム語とギリシャ語で記されている。こういう外来 物が、日本人の人生の指針になりうるだろうか? 小生は、宗教には3種類あると思う。自生宗教、世界宗教、その他もろもろ。自生宗教とは、ある民族 の文化慣習と一体化したほど、その民族にとって固有の宗教である。ユダヤ人にとってのユダヤ教、イン ド人にとってのヒンズー教、日本人にとっての神道。民族の文化と1つなので、普遍性はない。 世界宗教と呼ぶに値する宗教は3つしかない。キリスト教、イスラム教、仏教である。この3つが世界 宗教足りえたのは、救済について深く考え抜いた宗教だからだと思う。キリスト教はユダヤ教から生ま れ、イスラム教はユダヤ教とキリスト教から生まれ、仏教はヒンズー教から生まれた。この3つの宗教 は、自生宗教ではないのだ。つまり、この3つの宗教を自生宗教として持つ民族は存在しない。 するとこうなる。3大宗教は世界のほぼすべての地域を覆うから、ほとんどの民族にとって世界宗教は 外来物である。仏教だって、日本人にとって外来物だ。経典はサンスクリット語だし。欧米人にとって も、キリスト教は外来物である。アラブ人にとっても、イスラム教は外来物である。世界宗教の圏内で信 仰生活を営む人にとって、文化と宗教という問題は普遍的なのだ。民族文化と宗教の間に齟齬を感じざる を得ない。信仰する世界宗教が、自分の文化とピッタリ合う人は存在しないというわけだ。かといって、 世界宗教をしのぐ宗教はないので、真に救済の問題に悩めば、選択肢はこれら3つの世界宗教以外に考え られない。新興宗教の信者には申し訳ないが、小生は世界宗教と新興宗教の間には、越えられない壁があ ると思う。 すると、世界宗教の信者である限り、自国の文化と信仰の間に完璧なハーモニーを求めても無駄であ る。小生だけの問題ではなかったのだ。世界宗教の信者である限り、誰にとっても、伝統文化と信仰の間 に完全な一致は存在しない。それがいやなら、小生の場合は、神道信者になるほかないな。神道なら、自 生宗教だから、文化と信仰は一致している。 しかし、世界宗教にはそれなりの代えがたい価値があるので、文化の問題には目をつぶるしかないのか な・・・?これからも考えるづけることになるだろう。
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