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太田光のテレビへの露出度が高いのでふと思い出した。この人たしか、『憲法九条を世界遺産に』とい う本を著わしたような・・・。護憲派は、憲法九条は崇高な普遍的理念を掲げた画期的なものだと絶賛し ている。 ただ問題は、憲法九条の普遍性が60年以上経っても実証されていないことだろう。つまり問題は、な ぜ60年間に渡って数多くの国々が憲法を改正したにもかかわらず、一国たりとも九条を取り入れなかっ たのかというところにある。 九条の普遍性の実証とは、諸国民が九条の「崇高な理想と目的」に賛同して、これを自国の憲法にも採 用することによって初めて達せられる。小生は、民主主義の普遍性を信じていないが、それでも民主主義 は全世界に普及している。ところが、なぜ「平和を愛する諸国民の公正と信義」は、九条を完全に無視 し、自国の憲法改正において参考にすることさえなく、真剣な研究の対象にすることもなく、世界的な論 議が起こすこともなく、まるで存在しないかのような扱うのだろうか? 多くの国が自由や人権という理念を憲法に取り入れたが、なぜ「国権の発動たる戦争と、武力による威 嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」という理念は、歯牙に もかけないのだろうか? なぜ諸国は九条に何の魅力も感じてくれないのだろうか?リップサービスは別 として。普遍性はどうなった? 今まで一応疑問形で問いの形にしたが、答えは考えるまでもない。不思議なのは、九条の普遍性を主張 する護憲派が、九条の異常な非普遍性になぜ疑問を感じないのだろうか?60年にわたって、数多 くの国々の憲法改正において、完全に無視されている実情をどう考えているのだろうか? 普遍性どころ か、異様な特殊性とは言えないだろうか? いや、それとも九条の普遍性とは、無視される普遍性なのだ ろうか? もし未来永劫に九条をどこの国も採用しないとしたら、ある意味で恐るべき普遍性だなぁ。
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人間が、脅迫に屈したり、保身に汲々として自説を曲げたりした後、自己嫌悪や後悔したりするのは、 相手の意のままになったことへの屈辱感による。屈辱感を感じるのは、「それとは反対の反応もなしえ た」という意識があるからだ。人間とは不思議なもので、銃を突きつけられても、自分の側に「反応の選 択肢がある」と感じる生物である。 「尊厳」という言葉があるが、その真意は、 という事実のことだ。そういう意味では、存在するすべてのものに尊厳がある。無機質の次元にさえあ る。 ある鉱物は、ある一定の圧力を加えない限り割れない。その鉱物を恣意的に割ることはできない。どの 圧力で割れるかは、人間が選択することはできず、その鉱物だけが自らの性質に応じて自ら選択する。水 でさえ、100度以下の温度では沸騰しようとしない。類比的に云えば、人間がどんなに強制しようと も、水は30度で沸騰することを拒否する。水は、自分の性質に従うだけである。反応の選択肢は、絶対 的に水の側にあるのだ。「パブロフの犬」という実験があるが、実験者である人間が、強制的に犬のよだ れを引き出したことは絶対に証明されえない。同じ実験結果が何度反復されても、犬が自律的によだれを 分泌するにすぎない。ある生物が、ある条件で、ある行動を反復することは、その生物の性質を示すに過 ぎず、そこからはなんの「強制」も導き出せない。 この宇宙には、意のままに操れる物質は存在しない。物質でさえ、ある条件に応じてしか操作できな い。存在するすべてのものは、反応の選択肢を自分の側に持つ。山火事を消せない人間は、山火事の中 に、鎮火の選択肢を自分の側に保持する「炎の尊厳」を感じるだろう。存在するすべては、存在する限 り、反応の選択肢を自分の側に持つ。これが、存在することの尊厳である。 ペットの犬が食事の前に「お手」をしても、それは人間が操作した結果ではなく、犬が自律的に「お 手」をしているだけであり、不機嫌な時はご主人の命令を無視することもあるのだ。無機質や動物も、反 応の選択肢を保持するが、人間だけが自分に反応の選択肢があることを意識している。どんなに強制され ても、強制に自発的に応じない限り、人間は決して強制されない(すべての動物も)。人間はどんな 状況にあっても、自分の中に他者が操作できない「核」があることを直覚する。他者の中には、「私」が 操作できない「核」がある。他者が予想通りに行動しても、それは偶然に過ぎない。 人間の尊厳というと、「幸福になる権利」だとか、「尊重される権利」などという夢物語が連想される ことが多いが、そんなものは存在しない。尊厳とは、他者が絶対に接近できない「反応の選択肢」が与え られているという、「存在」が含む事実のことである。 自発性の神秘に対する畏敬の念・・。これがない人は、およそ神というものを理解できないだろう。
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「深い」という言葉が、知識や体験に使われる場合、深さという空間的用語が隠喩として用いられてい る。どういうわけか、私たちは、意味・物事には深さがあると直感している。もちろん隠喩なので、実際 には、意味に空間的な深さがあるはずもないが・・。何かについて「深さ」を感じる場合、どのような経 験が背景にあるのだろうか? 「深さ」の対極にあるのが「表面」である。私たちは、ある人物について印象を抱く。茶髪だとか、派 手だとか、暗いだとか、社交的だとか、信頼できるとか、堅物とか・・。しばらく交際するうちに、初印 象が裏切られる場合に遭遇する。自分が今まで感じていた印象は、表面的なものであって、その人物には 最初の予想を裏切る一面があることを知る。すると、初印象は表面的であって、新たに知った一面は表層 の下、つまり深みとして感じられる。夫婦関係などは、まさにその典型だろう。 仕事についても同様だろう。営業という職種について、ある先入観・イメージを持つ。自分が実際に営 業をやってみると、当初の予想・イメージを裏切るような新たな次元が見えてくる。自分の仕事について 熟知したと感じる時点がやってくるが、今までの「熟知」を裏切るような新たな発見にさらに出会ったり する。すると、今までの熟知が表面的なものであり、その下には未知の「深層」があることを知る。深さ という空間的隠喩は、まさにそれを表現するに最適なのだ。 深さの隠喩は、旧知の予想が裏切られて、新たな次元を発見する経験に基づいているのだろう。既知の 印象・考えが表面的に思え、その下には、まだまだ未知の断層が継続していると気づかされる経験・・。 仕事にせよ、人物にせよ、価値観にせよ、人生にせよ、今までの既存の確信を揺るがすような新たな次元 に出会うことは多い。すでに知り尽くしていると思っていたはずの妻、両親、親友、母国、価値観には、 まだ発掘されていない深層があるかもしれない。予想と確信を裏切る深層があるかも知れない。自分自身 についても、さらに予想を裏切る深層があるかもしれない。 物事には深みがある。人生に関わるすべてには、「もう出尽くした!」とは確信できない深層がある。 「究めた!」と安易に口にする人こそ、究めていない人間の典型と感じる私たちの直観は、「深み次元」 の直覚である。およそ世界宗教と呼ばれるに値する宗教が神の名で呼んできたものは、「深み」のことで ある。深みの究極的シンボルのことである。世界宗教の神々が、「無尽蔵性」、つまり言葉で言い表せな い深みとして表現されたのは、こういう理由による。 世俗主義社会では、深層は失われ、ハウツーものが歓迎される。しかし、それも長くは続かない。ハウ ツーものを千冊読んでも、人生は常に旧知の予想を裏切るから・・。だから宗教は常に存続するし、しか し「究めた!」と宣言する宗教は、常に克服される。神と人間の関係は、永遠に終わらない。
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