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郡山の父が亡くなって、一年と10ヶ月あまり、90歳には、一歩届かずの89歳没でした。
2017年1月の初め、入院先の病院で静かに息を引き取った、と兄からの知らせがありました。
震災後、一人暮らしながらもマイペースで日々を暮らしていた父でした。父との二人旅も再開して、2度ほど温泉旅行をしました。
しかし、高齢になっての「直腸がん」の手術など、次第に体力を失い、後年は介護施設で暮らしていました。
今年の12月始めに、父の三回忌を執り行います。やや前倒しの日程ですが、家族で父を偲びます。
「みんな忙しいのに、すまねぇナイ、よぐ集まってくっちゃナイ。」
父のそんな声が聞こえてきそうです。
セカンドライフのブログに、何度も登場させて、皆様に優しいコメントをたくさん頂戴してきた父でした。皆様のご厚情に感謝し、ご報告いたします。
何年も、ここへは投稿していません。
ふと、自分のブログがまだあるのかなと思い、開いてみたのです。
懐かしい方のお名前を拝見したり、、、懐古の思いです。
皆様の投稿も、めっきり減っているようですね。
かくいう私も、日々の事に追われて、ブログからは遠ざかるばかりです。
現在、夫も私も年金暮らしで穏やかに過ごしています。(些細な諍いは、ガス抜きとなってます(^^;))
今後も、何年か後にの投稿になるかもしれません。
末筆ながら、皆様の健康とご多幸をお祈りしています。
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日々の事
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福島の父から電話あり、元気で過ごしている様子。
「あれから一年になっけど、いやぁずいぶん世話になったナイ、、、」
我が家で過ごしたのは、2ヶ月くらい。
普段の日々と違う生活で、父の足腰は弱っていった。一人暮らしという活動分量は、案外父の運動量をまかなっていたのかな、、と思った。
ゆっくりと我が家にいれば良いのに、、というのは、父を弱らせることになるとというジレンマ。
「だいたいのとこは片付いたから、戻ってきてもいいぞい。」
一足先に帰郷し、めちゃくちゃになった会社や自宅、父の家の片づけに奔走していた兄、その電話を受けて、5月の晴れた日に父を福島まで送っていった私。
帰郷、、、兄の会社の床には、膨大な量のペットボトルの水が積んであった。放射能汚染を心配している東京の姪がひっきりなしに水を送ってくるという、、、。
「死ぬまでに飲みきれないかもしんねナイ。」
兄が苦笑いしていた。
原発、放射能、、、。
今、兄は私に言っている。
「福島県はつぶされた、そう思っている。くやしい、、、」
大震災の日から、目の前のある事だけを追って、やってきた。
宮城松島の姉夫婦、避難所で一夜をおくった甥っ子たちもあの時を必死で乗り切って、元気に暮らしている。
私は千葉県の田舎に住んでいて、海岸からは10㎞以上離れているので津波を直接見てはいない。
それでも怖くてしばらくの間、海の方には行けなかった。
犠牲者の出た旭町、飯岡町は私と娘の好きな風光明媚なスポットがあるとこだった。
一度もそこへは行っていない。
振り返れば、一年は、、、いやここ2年間は夢中で過ごしてきた時間の連なりだった。
2010年夏、夫の心筋梗塞での緊急入院から始まった闘病と、その後の脳梗塞での再入院、退院後の自宅療養、、、。
ゆっくりとだけれど、奇跡的なほどの回復。杖を突いていた歩行も、すっかり杖なしで歩けるようになった。
ドクターストップだった自動車の運転も解禁、夫は復活した。
2011年3月10日は、夫が久々の会社へ復帰第一日目だった。
そして翌日の3月11日、神奈川県の出先で震災に遭う。
もちろん、報道で知った最悪の地獄絵図や多くの被災者の苦しみや悲しみに比べたら軽微なことに過ぎない。
それほどに軽微な震災の経験なのだ。
それでも、故郷、福島への喪失感が強い。放射能というやっかいな問題が付きまとう。
くやしい、、、、それは兄の思いと同じなのだ。
午後2時46分、、、還らぬ多くの命、失った多くのものへ黙祷しよう。
*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*
この春、
娘が高校を無事に卒業。
就職も決まり、今、自動車教習所に通っている。
一人暮らしのアパートも借りて、
ちょっぴり旅立つ思いでいる。
希望の光を見つけて欲しい、、、。
了
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東北新幹線全線開通、、はやぶさ号のポスターを虚しく見ながら
東京駅構内を私は小走りに走っていた、涙が出てきて風景が滲んだ。
震災後、電話不通で松島の姉や福島の父たちの無事を確認できず心配していた。
二日後にそれぞれの無事を確認出来て、一安心していると原発の放射能被曝の危険を伝えるニュース。
あっという間のガソリン不足、鉄道も高速道路も寸断されている状況に呆然としてたが那須塩原からは新幹線が運転を再開し始めたという。
兄たちが福島から退避するというのを受けて、ネットで福島空港からの羽田便も調べた。
郡山から空港までのバスも運行しているらしい。
しかし予約は満杯、座席の確保は困難とわかる。
「那須塩原までタクシーで行って、、そっから新幹線に乗っから、
親父を千葉で預かってくれ、、、」と兄の電話。
もちろん、一刻も早く父を手元に連れてきたかった。
兄夫婦たちは、兄嫁の弟宅が埼玉の川口にあるのでそこへ、、、
東京駅からは引き返す形になるが、父を無事に私に引き渡そうと終点までいっしょに来るという。
外房線はわずかに運転しているだけで千葉までは時間通りに行けない。
七割は運転している京葉線(千葉の蘇我から東京間)の蘇我駅まで車を走らせて、電車に飛び乗った。
京葉工業地帯のある東京湾岸を走る京葉線、綺麗に晴れた青空の元、
いつもどおりに見える風景がやはり違う、物流も動きが鈍い。
倉庫前には燃料不足で動かせないトラックも並んで停められているようだ。
舞浜駅も閑散としている、ディズニーランドが休園しているからだ。
いつもたくさんの子どもたちがディズニーグッズを手に乗り込んでくるが、子どもの姿をひとりも見ない。
広い駐車場の一部もアスファルトが壊れたと聞いている。
もちろん計画停電のために、再開のめども立っていない状況。
節電のためにすっかり暖房を止めている車両は、閑散としているだけに震えるほど寒い。
『予定通りに東京へ着くよ』
兄からのショートメッセージ。
『私ももうすぐ着くよ』
返信。
京葉線からの連絡通路は閑散としていた。
動く歩道も止まっている、深い地下ホームから移動するので、エスカレーターは上下一本ずつ動いていた。
東北・上越新幹線乗り換え口で福島からの一行を待つ。
やがて、大きく手を振る甥の姿に気づく、、、兄夫婦の姿も、そして久しぶりに見る父の姿。
気のせいか一回り小さくなったように見えた。
さすがに足も弱って、、歩くのもゆっくりと小幅になった父、動く歩道は止まっているので長い距離を歩かせるのは気の毒と思った。だが、父は言った。
「だいじょうぶだがんナイ、ゆっくりいぐべ。」
「そうだね、もうここまで来れたんだからあせらなくていいし、、、」
「んだぁ、いやぁれいちゃんの顔見たらホントにホッとして安心したぞい。」
足早に追い抜いていく人々の後ろ姿を見ながら、父と話しながらゆっくり歩いた。
「あだぁおっきな地震が来っとは思わなかったナイ。いや、すごがったぞい家のぐるりの塀は倒れっぺし庭の灯篭も倒れっぺし、家の中は箪笥もみな倒れてめちゃくちゃ、食器もいっぱい割れてがちゃがちゃだぁ〜、、、」
よくぞ、怪我もせずに助かったと胸が詰まった、ひとりでどんなに怖い思いをしたのだろうかと、、、
そして、想像以上に酷い地震だったことが伝わってきて背筋が寒くなった。
「一巻の終わりかと思ったナイ、いやぁひどかったわい。」
帰途の車中も、父はずっと話していた。
「水が出なかったがらナイ、あやまったナイ。余分なものって買っておがねがらたいした食べるものも無くって、せんべいやら食べてたナイ。コンビニ行ったって何にもないんだっけなぁ〜、そううちみんなであちこち調達した食べ物を持って来てくれてナイ、助かったナイ。」
「いや、ほんとにれいちゃんにあって安心した、、、、あの頃れいちゃんに旅行に連れていってもらって楽しかったナイ、あちこち行ったナイ、今思うと夢のようだナイ。」
「浜の方は津波でやらっちゃべナイ、れいちゃんと行った小野浜の水族館もどうなったかわがんねナイ、、おっきな水槽の魚、綺麗だったナイ、まさかこんな地震が来っとは思わなかったナイ、、、」
ふたりで出かけた旅行の思い出を語りながら電車に揺られ、父と私は千葉へと向かっていた。
その晩、我が家で父はぐっすりと眠ることが出来たのだった。
*犠牲になった方々、被災し避難所で不便な暮らしに耐えている方々、、、今はただ祈るばかりです。
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先週の半ばに、よく晴れた日がありました。
今年になってはじめての再会、旧知の友人が外房に遊びに来てくれました。かなり忙しかった私も、役目を終えてホッとしていましたから、気持ちが軽い一日を過ごしました。
近くに住んでいても、最近ではあまり海を見に行ってませんでしたが、
その日は美しい海原を見ることができましたよ^^
友人も満足で心地良さそう、、、。。
まったりとした時間が流れていました。
近くのお店で「焼きはまぐり」「海鮮丼」「海老フライ」など、たらふく食べ、
おなかもマッタリ、びっくりでした^^
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