私の武蔵国歴史考

改定版「武蔵の歴史」を作りました。気が向いたら見てください。

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横浜開港(1)

横浜の歴史(2)

横浜の開港(1)

その横浜がガラッと変わるのが幕末の開国からです。
現在の横浜市は戸数92戸の横浜村が周辺の村々を合併してできた市です。現在の横浜市域は開港前で見ると、横浜村を含めて215の村と宿場があり総人口はわずか10万人でした。それが現在は370万人の日本第二の大都市ですから、この150年間で人口は37倍になったことになります。市の大きさもさることながら、こんなに短期間に成長した町はほかにありません。そこで、ここでは開国で横浜がどのように変わっていったかを見てみます。

よく知られているように1853年にペリーが来航して翌年に日米和親条約が結ばれ、その後日本はアメリカ以外の国々とも同様の条約を結びました。そして1858年に日米修好通商条約が結ばれ、他の欧米諸国(安政の五カ国条約)との間に同様の条約を結びました。その結果日本は、神奈川・兵庫・長崎・新潟・函館の5港を開港することになりました。

この条約では開港場所は横浜村ではなく神奈川湊でした。ところが幕府は外国の了承を得ずに横浜村に変更してしまいました。変更したのは、東海道の道筋にあり人口も多い神奈川湊ではいろいろトラブルが起きるかもしれないと心配したからでした。これを決めたのは大老の井伊直弼でした。外国奉行など下僚は条約に反することを危惧しましたが、神奈川というのは神奈川湊や横浜村を含む湾岸のことだから横浜でも条約違反にはならない。それに遠浅の神奈川湊より海が深い横浜の方が港には向いているというが直弼の言い分でした。これはこじつけの理由でした。しかし、その後の横浜の発展を見ると横浜開港は正解でした。

今の横浜市は面積が非常に広く、横浜村も神奈川湊も同じ横浜市になっていますから、ただ地名をあげてもわかりにくくなっています。そこで、開港前の横浜市域の様子を見ると次のようでした。

現在の横浜市にあたる横浜市域には東海道が通っていました。東海道には、品川→川崎→神奈川→保土ヶ谷→戸塚→藤沢→と続く宿場がありました。このうち、神奈川・保土ヶ谷・戸塚の3宿が横浜地区でした。開港前の横浜地区ではこの3宿が人家の多い所で、中でも神奈川宿がもっとも繁盛地でした。というのも、この3宿のうち海に面しているのは神奈川宿だけで、神奈川宿のそばには神奈川湊があったからです。
当時の東海道は品川宿から神奈川宿までは海沿いの道ですが、神奈川宿から先は海から離れて内陸の道に変わります。そして、保土ヶ谷・戸塚を経て相模の藤沢宿でまた海沿いの道にもどります。ですから、宿場と湊のある神奈川はこの地域の中心地でした。外国が開港地として神奈川湊を強く主張したのもそのためでした。
それに対し横浜村は漁村とも農村ともつかない辺鄙な海辺の村でした。神奈川湊と横浜村の間はちょうどコの字を逆にした形をした湾になっていて、上の端の北側が神奈川湊で下の端の南側が横浜村でした。神奈川宿から横浜村の間には道らしい道もありませんでした。

この横浜開港が明らかになると幕府の下僚が心配した通り、外国が反発しました。主に幕府と交渉したのはアメリカのハリスとイギリスのオールコックでした。彼らは是非とも神奈川湊に戻すように強く迫りました。しかし、幕府としても攘夷の大名たちの圧力もあり譲るわけにはいきません。それまでずっと下手に出ていた幕府は珍しく強く出ました。すると、ハリスもオールコックも港としては神奈川湊より横浜の方が優れているのはわかっていましたから、横浜を港にするのはやむを得ないが、居留地は神奈川にするよう強く申し入れました。二人が神奈川に固執したのは、幕府が居留地を長崎の出島のようにしてそこに外国人を閉じ込めるのではないかと疑ったからでした。しかし。幕府としては居留地を神奈川にしては横浜開港の意味がありません。そのため寒村にすぎなかった横浜村を急遽繁盛地にして既成事実を作ることにしました。

当時の横浜村は中村川や大岡川という川が海に注ぐ河口域でした。この中村川は横浜村で細長い砂州を伸ばしていて、横浜村の海岸部はこの砂州に囲まれた小さな入り江になっていました。入り江の沿岸部は池が二つあるような湿地帯でした。

そこで、幕府は横浜開港のため、この中村川や大岡川を改修して南北と東西にながれる二つの堀にし、この堀を居留地の西側と北側の境界にしました。この堀の内側が関内と呼ばれる外国人居留地です。また南側と東側は海ですから、居留地は周囲を水で囲われた島になりました。そしてこの居留地を整地して縦横に道をめぐらしました。ここは今は山下町になっています。さらに居留地を作ると同時に神奈川宿から横浜までの道を作りました。道はこればかりでなく相模方面からの道も作りました。

幕府はこうして居留地を造成しながら平行して居留地の外も整備しました。この居留地の外側を関外といいます。幕府は財閥三井に呉服と両替の営業を要請し、三都の大店にも関外に出店を求めました。各地の商人に横浜で商売をするよう呼びかけました。そのために東京埼玉あたりの村々にまで「横浜に出稼ぎに行くこと、移住して商売をすることも自由だから希望者は申し出ること」という通達を出しました。

そればかりでなく関外には遊郭も作りました。遊郭は神奈川宿や品川宿の旅籠屋が経営に乗りだし、江戸の吉原を真似た豪華なものができました。さらに幕府は横浜を活気づけるために、神奈川宿には飯盛り女や夜見世商人など賑やかなものを禁止し、横浜の後押しをしました。この遊郭は好評で町は賑わうようになり、神奈川宿や保土ヶ谷宿など近在の商人も横浜に飲食店や旅籠などを営業を始めましたから横浜はあっという間に繁盛地になりました。

この頃には外国商人たちも横浜にやってきて居住するようになりました。神奈川宿に居留地を作るよう幕府と交渉していたハリスとオールコックは、外国商人たちに横浜移住をとどまるよう説得しましたが、彼らは横浜でも良いということでどんどん移住してきました。こうなるとハリスとオールコックも横浜が居留地になるのを認めざるをえません。こうして、横浜が外国貿易の開港地として正式に確定しました。幕府はこの横浜開港の工事に公表で9万2千両、実際はそれを大幅に上回る大金を投じました。

条約では外国人の土地所有は認めらませんでした。ですから居留地の外国人は貸与地を使用することになりました。外国商人はここに住宅と事業所を持ちました。

商取引は居留地のほか江戸でもできましたが、言葉の問題もある上、当時は攘夷運動も盛んでしたから外国商人が江戸に行って商売するのは事実上不可能でした。そのため実際は日本商人が商品を持って横浜居留地にやってきたり、居留地の外に出店を設けて商取引をしていました。なお、外国商人は居留地の外では商取引はできませんが、半径40キロ以内までは行楽などにでかけることが認められていました。

居留地の南側の海岸には波止場がありました。後に生麦事件が起きると、イギリスは軍艦で鹿児島を砲撃しますが、この時イギリス艦隊はこの横浜の波止場から出撃しました。また、横浜には神奈川奉行の役所があって横浜の警備もしていました。このように横浜は外国人にとって安全地帯でもありましたので、外交官たちも江戸より横浜に居住することを好みました。そのため、横浜は商人や外交官たちが集住するエキゾチックな町になりました。こうした風景が日本人の好奇心をかきたてないわけはありません。

石造りの家、ガラス張りの窓、広い部屋に敷き詰められた色とりどりのジュータン。パンと肉、ワインを飲む食事。それから豪華な衣装を着て耳には飾りをつけた細面の美人の女性。それらはたちまち錦絵になって全国でに販売場され横浜浮世絵とよばれました。横浜の町には商取引の商人ばかりでなく、物珍しさを求める日本人観光客があちこちから大勢押しかけました。


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