私の武蔵国歴史考

改定版「武蔵の歴史」を作りました。気が向いたら見てください。

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横浜(3)

横浜の歴史(3)

横浜開港(2)

開港当初は外国人も少なく、居留地の外国人たちは日本人職人が建てた日本風家屋に住んでいました。開港から半年後の調査では、外国人は、イギリス人18人アメリカ人15人オランダ人10人フランス人1人で、全部で44人しかいませんでした。外国商人には若い人が多く、彼らはそう長く日本にいるつもりもありせんでしたから、慣れない日本家屋の住まいにも我慢していました。

当時、欧米から貿易業務でアジアにやって来る人は二十歳前後の人が多かったようです。彼らはまず上海や香港にある貿易商社の見習い社員になって仕事を覚えます。そして仕事を一通り覚えると独立しますが、資金がありませんから元の会社と契約を結びそのパートナーとなって仕事を始めます。日本にやって来た外国商人たちも、開国したばかりの日本で一旗上げようという野心的な青年が多く、彼らは上海香港商社の共同経営者という形で日本にやってきました。したがって、彼らの商業活動も上海香港商社の資金で日本物産を買い上げて中国に送り、また日本側からの注文を中国の会社に取り次いでは商品を取り寄せるというブローカー業務でした。

一方、日本側商人たちですが、江戸の大店の商人たちは幕府の命令で無理やり出店させられただけでしたから外国商人との取引には慎重でした。
外国商人との取引に熱心だったのは地方の冒険的商人たちでした。開港当初は雑多にいろいろな物を輸出しましたが、その後輸出品は生糸とお茶に絞られ、輸出品の60〜70%が生糸で、10%がお茶でした。輸入品は綿製品と砂糖、機械類などが主な商品でした。横浜貿易の伸びはめざましく、開港後まもなく長崎を抜いて横浜は日本一の貿易港になりました。

(日本のお茶は緑茶で欧米で売れるのかと疑問でしたが、アメリカでは結構人気がありました。欧米で紅茶が一般的になるのは、20世紀になってインドにプランティーション茶園ができてからで、それまでは別に紅茶でなくてもかまわなかったようです。ただ、日本のお茶は乾燥が不十分だったので、横浜に集荷したお茶はここでもう一度蒸し直して輸出していました。)

横浜貿易の主力は生糸でした。その産地は群馬と山梨、それから多摩地方と埼玉西部でした。そのため、この地方の商人たちが生糸と繭をかき集めて横浜に持ち込んで売りさばいていました。
彼らは最初は自分のお金で生糸を買い上げて横浜に運んでいました。しかし、それではリスクが大きすぎますし、何よりも資金に限界がありますからそう多くの量を確保することはできませんでした。そこで、地場で生糸と繭を集める商人が別にいて、彼らが集めた商品を横浜の外国商人に取り次いで手数料を取るというブローカー業務に商法を変えていきます。そして、このやり方で巨利を手中にする新興の成金が各地にうまれました。また、外国商人も信頼できる日本商人を選んで彼らに資金を提供して生糸を集めました。

横浜での生糸輸出が始まると農村では養蚕が盛んになります。それは農家にとって豊かになることですから大歓迎でした。先に触れたように元々養蚕は日本では盛んではありませんでしたが、この外国貿易が始まると今まで養蚕をしなかった地域でも養蚕を行うようになります。また養蚕ばかりでなく、繭から糸を作る「糸取り」も行われるようになり、これは農村の若い女性たちの主要な仕事になりました。

(養蚕は明治になるとますます盛んになります。しかし、繭は国際価格ですから、欧米の需要の強弱で価格が決まります。それを見ると明治末がピークでその後は下落する一方でした。昭和になると採算割れになります。したがって、経済的にはこのあたりで日本は養蚕から手を引くべきでした。にもかかわらず、農家が養蚕を続けたのは、養蚕に代わるほかの産業がなかったのと、繭の価格は変動が大きいのでひょっとすると来年は急上昇するかもしれないという期待があったからです。戦前の日本農家の貧困はよく知られていますが、その原因の一つが、この儲からない養蚕をいつまでも続けたからでした。
それとこの時期、日本では養蚕が盛んになりますが、ほかのアジアの国はあまりやりません。それについては、確かに養蚕は割のいい仕事なのですが、養蚕はとにかく忙しく、とくに蚕が桑の葉を食べるようになると不眠不休の仕事になり、食事も立ったままというようになります。そこで他のアジアの国々は、そんなに忙しい思いをして働くのなら貧乏生活の方がマシということであまりやりたがらなかったからなのだそうです。そういう点では養蚕は勤勉な日本人に向いた産業でした。)

こうして横浜は開港地として出発し、その後順調に発展しましたが、横浜が大きく飛躍したのは1866年の慶応大火でした。この火事で横浜の関内地区の1/3が焼失してしまいました。しかし、そのため更地になった町をもう一度新しく作り直すことができたからです。
この時に居留地にあった低地や池を埋め立てて広い造成地を作り、道も広げてその沿道には石造りの洋風建造物を建てるというように本格的な町になりました。(横浜の建物がレンガ作りになるのは明治の建物10年代になったからです)

外国商人の店もそれまでは上海香港の出張所のようなものでしたが、この頃から日本市場の有望性を認め、横浜に本格的に店を持つ外国商会も増えてきました。有名なのは香港に本社のあるジャーディー・マセソン商会です。この当時の外国商人というと、倒幕派の活動を支援した長崎のグラバーが有名ですが、彼はこのマセソン商会と契約する代理店の経営者でした。

明治維新の頃には横浜は大きな町になっていました。日本経済にとって最重要の町になり、そのため新橋横浜を結ぶ鉄道がはじめてできたのは有名です。
しかし、明治時代になると外国貿易は横浜でしかできないということではなくなり横浜の特権的地位は失われてしまいました。にもかかわらず、その後も横浜が成長したのはやはり横浜に経済的優位性があったからです。

この経済的優位には様々あると思いますが、その一つはたぶん八王子との連絡でした。先に触れたように横浜貿易の主力は生糸でした。そしてその産地は山梨・多摩・埼玉西部・群馬ですが、そのルートは、

横浜←八王子←青梅
横浜←八王子←飯能(埼玉)←寄居(埼玉)←群馬
横浜→八王子←山梨

と、八王子に集結することになるのがのがわかります。このうち横浜―群馬間は鉄道で言うと、今の横浜線・八高線になります。今はすっかりローカル線ですが、この道は当時のシルクロードでした。

東京の多摩地方は明治の廃藩置県では神奈川県に所属し、明治の26年まで神奈川県でした。以前、東京・東村山市の史料館で、東村山が神奈川県だったのを知り非常に驚いたことがあります。しかし、よく考えてみれば幕末維新の頃までは多摩地方は八王子を通して横浜との結びつき、経済的には横浜圏でしたから多摩地方が神奈川県に所属するのは自然でした。

なお、多摩が東京都に所属替えになるのは、飲料水を確保したい東京が多摩川を管理したかったからです。そして、さらに驚くことに当時の多摩地方では東京編入に反対して猛烈な反対運動をしました。今ではでは考えられないことです。

横浜開港については長短の両方がありました。
その中では国内の物価上昇を招いたことがよく知られています。物価は開港からの10年間で急激に上昇し米価は約4倍に高騰しました。米以外の物価も上昇し3〜4倍になり、中には6倍に上昇したものもあります。

この原因は国内で販売するより輸出に回した方が高く売れるということもありましたが、先に「江戸時代の物流」で説明したように、小判の海外流失を防ぐため品質を落とした新小判を大量に作ったことが最大の原因でした。この物価騰貴はその後社会不安をもたらし徳川幕府を倒壊させる誘因になりました。
また、武蔵に限ると、この横浜開港では今まで横浜とその周辺に住んでいた人を立ち退かせることになりました。そして、開港工事のために武蔵のあちこちから人々を強制に集めて労働に従事させました。さらには資材の運搬のため過酷な助郷役にかり出すことになりました。

しかし、この開港がもっとも良かったことは横浜という新しい町ができたことでした。先に触れたように人口10万の土地が今では370万人の巨大都市です。しかも、この370万人のほとんどは他所から移住してきた人とその子孫の人です。
東京を初め埼玉でも神奈川でも少し古い町には「草分け」と呼ばれる人たちの子孫が、陰に日に大きな力を持っています。これはこれで良いこともあるのでしょうが、やはりどこか町を窮屈にさせている所があります。それがよそからやって来た人や若者たちがエネルギーをだすのを妨げています。その点、何もない真っ白なカンバスに新しい人が絵筆をふるうように町を作っていく横浜には明るい開放感が感じられます。


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