私の武蔵国歴史考

改定版「武蔵の歴史」を作りました。気が向いたら見てください。

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江戸時代の終わり

察々掌融代の終焉

徳川幕府の滅亡(4)

彰義隊
 
こうして平穏に徳川幕府から明治政府への政権交代が行われましたが、幕府側の皆が皆がおとなしく引き下がったわけではありません。幕臣だけでも2万人以上いましたし、幕府に忠誠を誓う譜代藩の藩士もいましたから中には果敢に明治政府に武力抵抗を挑む者もいました。
そのうち有名なのは新撰組と彰義隊でした。

新撰組は鳥羽伏見の戦いに参戦しましたが、敗退する幕府軍と一緒に江戸にもどっていました。当然武力抗戦派の最右翼でした。しかし、無条件降伏を考えていた勝海舟は、新撰組を江戸に置くことの危険を考え、彼らに資金を与え甲陽鎮撫隊の名称を与えて体よく山梨県に追い払ってしまいました。新撰組は勝沼での戦いに破れて千葉の流山で再起を図りますが、組長近藤勇は政府軍に投降して処刑され、副長の土方歳三は会津から函館に転戦し、函館で戦死しました。
 
しかし、比較的まとまった武蔵国内の抵抗としては彰義隊の上野戦争がありましたので、これについて触れておきます。
 彰義隊は一橋家の家臣の渋沢成一郎を指導者とする組織でした。渋沢成一郎は明治経済界の重鎮だった渋沢栄一の叔父にあたります。渋沢一族は埼玉深谷市の豪農でしたが、早くに政治に興味を持ち勤皇運動に身を投じていました。そのため幕府から指名手配を受け逃亡生活をしていましたが、縁あって一橋家に拾われました。二人ともなかなか才覚があって栄一も成一郎も一橋家で重用されました。栄一の方は慶喜の弟がパリの万博の日本代表としてフランスに行くのに随行し、そのため幕末維新の時には国外にいましたが、成一郎の方は慶喜が将軍に就任した後も一橋家に仕えていました。新撰組の近藤や土方といい、彰義隊の渋沢といい、幕末維新に活躍するのは譜代の家臣ばかりでなくこういう豪農出身の人もいました。

 彰義隊は、慶喜が2月12日に上野寛永寺に謹慎生活に入ると同時に慶喜に忠誠を誓う幕臣と一橋家の家臣の有志が慶喜の警護と助命を求めて集まった集団でした。その後、組織が大きくなり、2月23日の正式発足時には1000人近い隊士がいました。中には武士だけでなく町人もいました。組織がこれだけ大きくなると、江戸市民の中には彰義隊に共感し支持する者も多数現れました。こうなると旧幕府(幕府はなくなりましたが、政府は当面の江戸の治安を旧幕府に命じていました)としても放っておくわけにはいきません。そこで彼らに江戸市中の警備を命じ正式にその存在を認めることにしました。

慶喜は4月11日に水戸に移りました。すると、一橋家の家臣だった頭取の渋沢は彰義隊の役割は終えたとして解散を提案しますが、新政府に反感を持つ幕臣やこれに同調する者たちは存続を主張しました。そのため渋沢は隊を離脱し、同志とともに埼玉県飯能市の能仁寺を本拠に振武軍を結成します。これが後に飯能戦争になります。もっとも戦争というほどのものでもなくすぐに終息しました。
一方、江戸の彰義隊は存続派を中心に参加者がますます増え3000人以上になりました。慶喜がいなくなったので、今度は上野寛永寺の貫主である輪王寺宮を護衛するというのが彰義隊存続の名目でした。そこで、新政府は彰義隊の監督を旧幕府からはずし、自らが討伐することにしました。これが上野戦争でした。

戦闘は7月4日に始まりこの日で終わってしまいました。討伐がこんなに遅れたのは、討伐には多額の軍事費が必要で、その調達がなかなか進まなかったからです。
最初は彰義隊が優勢でしたが、装備と兵数に勝る政府軍が押し返しました。佐賀藩がもつ長距離砲の攻撃が有効でした。さらに彰義隊そのものが寄せ集めの集団でしたから、優勢なうちはともかくいったん不利な状況に陥ると組織としての体をなさなくなってしまい、あっという間に総崩れになってしまいました。この戦争の死者は彰義隊が105人、政府側が56人でした。
この彰義隊の戦争はまったくの時代錯誤でしたが、ともかくこの彰義隊の戦いで江戸の人たちの気が済んだらしく、その後は江戸で騒乱事件も起きず、新政府の江戸移転は非常にスムーズに進みました。


東京遷都

徳川幕府が滅亡し、新たな統治者となった明治新政府では早速首都をどうするかという問題が持ち上がりました。

大別して朝廷のある京都をそのまま首都にする案とどこか別のところに移す案がありました。公家や京都の市民たちは当然京都に固執しました。それに対し、先ず大阪遷都案が出てきて大久保は大阪案を強く推しました。しかし、何でもそうですが、こういう場合には最初に出てくる案はだいたい潰れるものです。その代わりということで江戸案が浮上しました。この案の提唱者たちは、京都存続派の言い分も聞き入れるということで、京都を西の京にし、江戸を東の京にし、京都も江戸も首都であるという折衷案のような形で提案しました。

政治の実務を担当していた人たちは、京都は秀吉が300年も前に見捨てた所で、とにかく京都はダメという共通理解があったようです。次第にこの東西両都案が有力になり、実質的に首都を東京にすることに決まりました。そして、マッカーサーの占領軍を素直に受け入れた日本人気質はこの時にはすでにあったらしく、江戸の人たちも何のわだかまりもなく、東京案を熱烈に歓迎しました。もっとも、江戸はその前に参勤交代がなくなり、灯が消えたようにさびしい町になっていたという事情もありました。

首都をどこにするかということは昔から大いに論じられました。中国の伝統的な考えは、「天子は南面する」でした。つまり東西南のうち、北と東と西が山に囲まれ、南だけが平地になっている地形が都にふさわしいという考え方です。そして、天子(日本では天皇)は都の北側に皇居を構え、南方に広がって住む人々に君臨するという考えです。平安初期の京都はそうなっています。

しかし、一般的にはこういう占いのような考えではなく、その国のもっとも安全な所を首都にする考え方と、反対にもっとも危険な所を首都にするという考え方の二つがあるようです。前者の代表がパリで、後者の代表がベルリンと北京です。ベルリンはヨーロッパの、東の平原地帯と西の森林地帯の境界にあり、昔からよく戦場になっていました。北京も北の遊牧民族地帯と南の農耕民族地帯の境界にあります。その国の要衝の地には大軍を置くというのも方法ですが、いっそのこと皇帝か天皇がそこに住んでしまうというのがもっとも効果的です。徳川幕府を倒した明治政府が敵地である江戸を首都にしまうというのも十分理屈があっています。

徳川幕府が江戸城を明け渡した年の10月13日、明治天皇が江戸城に入城して江戸城を東京城に改称しました。こうして江戸は東京になり、この日から名目ともに明治時代が始まりました。

徳川慶喜について

徳川幕府の最後の将軍徳川慶喜という人は非常に複雑な人でわかりにくい人です。その上幕府が滅んだ時の将軍ということでどうしてもマイナスの評価になってしまいます。慶喜が好きという人はほとんどいないと思います。

彼は1863年からはずっと京都に張り付きの状態で、江戸にもどったのは鳥羽伏見の戦いに敗北した後でした。そしてその2ケ月後には将軍職を退いてしまいましたから、江戸の人にはまったく馴染みのない人でした。
 
慶喜は徳川将軍の中では初代の家康に次いで忙しかった人です。有能な側近も参謀もいなかったので、一人であれこれやりました。そうとうに能力が高くなければできるものではありません。しかし、にもかかわらずというか、だからというべきか、彼の政治はすべて無に帰し、徳川幕府最後の将軍になってしまいました。

慶喜は明治維新後はまったく表に出ることなく大正2年に76歳で亡くなりました。回想録も残さず、幕府滅亡後の46年間どういう気持ちで生きていたのかもわかりません。徳川幕府の滅亡については、慶喜も彼なりに言いたいことはたくさんあったと思いますが黙って死んでいきました。敗軍の将兵を語らずということのようです。

この慶喜と対照的な人は明治天皇でした。明治天皇の人気は高く、歴代天皇の中では天武天皇や桓武天皇をしのぐかもしれません。しかし、よく考えてみると、明治天皇が何か重要な政治判断をしたとか政策を打ち出したというのは一つもありません。明治時代の政治はすべて臣下たちが天皇に相談なしに行ったことでした。何もしなくても明治天皇が天皇でいると国民が安心するという人徳というか運の良さを持った天皇でした。

こういうことを考えると天皇とか将軍とかいうとびっきり高い地位にある人にとって、もっとも重要なのはチマチマした能力ではなく運のよさのようです。

 歴代の徳川将軍の墓は上野の寛永寺か芝の増上寺に決まっていました。慶喜の墓は寛永寺のはずれにあります。たまたまここに詳しい人がいて、その人が言うには、慶喜の墓は寛永寺にあるように見えるが、そこは寛永寺の墓域ではない。彼は寛永寺に埋葬するのを断られたということでした。寛永寺が断ったのではなく檀家の有力者たちがそう決めたようです。

そういう話を聞きながら慶喜の墓を見ていると、徳川慶喜の波乱の生涯と同時に彼の運の悪さというものも感じてしまいます。


以上で「私の武蔵国歴史考」は終了とします。このブログには著作権はありません。この画面のままパソコンの「コピー」操作をすると簡単にコピーできますから大いに利用してください。新しい視点で武蔵国の歴史を研究する人が現れるのを期待します。

                              完

江戸開城

察々掌融代の終焉

徳川幕府の滅亡(3)

江戸城の降伏

鳥羽伏見の戦いが終わった1868年1月7日、新政府は徳川慶喜を朝敵とし、慶喜追討を宣言しました。政府はただちにその準備にとりかかり、早くも同月21日には幕府討伐軍を編成しました。そして、この時に江戸城攻撃を3月15日に決めました。

 この討伐軍は大総督に有栖川宮熾仁(たるひと)親王が就任し、3方面から江戸に向かいました。一隊は東海道を通る部隊でこれは有栖川宮熾仁親王の本隊でした。その参謀は西郷でした。本隊が京都を出発したのは2月21日でした。

残り二隊は中山道部隊と北陸道部隊で、そうのうち武蔵攻略は中山道部隊が担当しました。総督が岩倉具定、参謀は板垣退助(土佐)でした。この部隊は1月21日のうちに出発しました。そして東海道本隊と中山道部隊は途中近隣の諸藩を帰属させながら江戸で合流し、3月15日に江戸城を総攻撃する手はずになっていました。
 
こう説明すると、ちょうど秀吉が20万の兵力を動員した小田原攻めと同じ作戦になり、さぞかし大軍を擁しての堂々の進撃だったように思われます。しかし。実際はまったくちがっていました。
 
実際の兵数はわかりませんが、進軍のスピードや途中部隊が宿泊した宿場や村の様子から想像すると、たぶん有栖川宮の本隊でも数百人、場合によっては100人にも満たなかったようです。東海道の本隊がこうですから東山道部隊などは数十人規模だったと思います。そして、軍服などは着装はせずたぶん参勤交代の大名行列のようなものだったと思います。
この征討軍は秀吉よりもその前の坂上田村麻呂や源義家に似ていました。それは新政府軍の中核である薩長の部隊は温存して使わず、錦の御旗の権威で兵士と物資はできるだけ現地で調達するというやり方でした。

 征討部隊は宿泊先の旅館に近隣の藩の藩主や重臣が恭順を伝えにやってくると、その藩に進軍先の警備を命じ、江戸城を攻撃する際には兵員を提供させることを約束させました。それから、この征討軍を管轄する新政府はまったくお金を持たない政権でしたから、たぶん上納金や食料提供なども命じていたと思います。

こういう征討軍でしたから進軍のスピードも速く、2月21日に京を出発した本隊は3月5日には駿府城に到着しました。一方中山道部隊はもっと速く、3月8日には神流川を渡って武蔵に入りました。そして、9日には熊谷に着き、13日には板橋宿に到着してここに本陣を構え江戸城攻撃の態勢を整えました。この時には近隣の帰属した藩から兵を徴発しまとまった兵力になっていました。
 
しかし、中山道部隊のすばやい進軍に対し、東海道の本隊はずっと遅れてしまいました。中山道部隊が板橋に陣を敷いた3月13日になっても、本隊の東海道部隊はまだ駿府に居たままでした。
 主力の東海道部隊が静岡でストップしたのは、征討軍が作戦の重大な変更を行うことになったからでした。それは慶喜の処置でした。

鳥羽伏見の戦いの直後、すでに新政府は早々と幕府側の大名や旗本たちに新政府に帰属するなら領地の没収などは行わないと宣言しました。また、幕府領を管轄する各地の代官所には罪科は問わないから、新たな指示があるまで従来通りに仕事をするように命じました。一方、江戸にもどった慶喜はひたすら恭順を示していました。ですから、新政府内ではこれで徳川幕府から新政府への権力移行はスムーズに行くはずだと考え、当然、戦争など起きるはずがないと思っていました。

しかし、薩摩藩の西郷と大久保の二人だけが武力倒幕を方針に掲げ、とくに慶喜は絶対に死罪にすると強く主張しました。

西郷と大久保がどうしてこういう強硬な姿勢を示したのかははっきりしません.たぶん幕府から新政府への権力移行がスムーズに進んで政局が落ち着いてしまうと、自分たち下級武士は体よく政治の舞台から放り出されると心配したからだと思います。彼らにとっては戦争状態が持続することで対幕府のみならず、新政府内で主導権を持ち続けようとしたようです。西郷と大久保の二人については高い理想を持ち、日本の近代化に身をささげた偉人というイメージがありますが、これは明治以降に作られたいわば虚像です。彼ら二人も、若い青年によく見られるがちな暗い情熱を沸々と内面にたぎらせる野心的な青年でした。


しかし、薩摩藩の西郷と大久保の二人だけが武力倒幕を方針に掲げ、とくに慶喜は絶対に死罪にすると強く主張しました。幕府の無力さをはっきりさせたのは鳥羽伏見の戦いで、これを戦ったのは西郷率いる薩摩軍でした。そのため西郷大久保の発言権は非常に強く、新政府のメンバーたちもこの二人が慶喜死罪を主張する以上やむをえないということで征討軍を認めたという経緯がありました。

ところが、静岡滞在中に西郷が慶喜死罪を変更せざるを得なくなったようです。その理由については、多くの幕末専門家は外国からの圧力があったからだとしてこれがほぼ定説になっています。そのいきさつは次のようでした。

 江戸城攻撃の予定日は3月15日でしたから、その前の11日に西郷は、江戸の状況を把握するため単身江戸に向かいました。しかし、一方で西郷は部下を横浜に派遣しイギリス公使のパークスの理解を求めました。この時、イギリス・フランスなどの外国は新政府側にも幕府側にもつかない局外中立を宣言していました。征討軍の勝利は間違いありませんから、西郷は外国の了解は簡単に得られるものと思っていたようです。ところが、パークスは恭順している慶喜を攻めるのは道義に反すると新政府のやり方を強く非難し、ことによっては幕府に味方するとまで言いました。パークスはナポレオンさえ死刑にせず遠島ですませたヨーロッパの歴史まで持ち出したといわれています

 その報告を受けた西郷は、江戸城攻撃はどうも簡単にはいかないということに気づき、急遽慶喜死罪を変更したというのです。しかし、このあたりの事情ははっきりしなくて、外圧だけで方針変更になったという説明だけではどうにも釈然としません。

ただ、実際のところ、将軍慶喜はすでに恭順を決め、幕臣たちをそれぞれの知行地にもどして江戸城を無防備にしてしまいました。そして、自分は江戸城を出て上野の寛永寺に謹慎していました。その上、江戸の市民たちも戦禍を避けて避難する様子もなくいつものままでした。こういう状況を考えると、江戸の町で戦争をすることは実際には無理だったと思います。

そこで、西郷は最初の方針である江戸城を武力で征服する作戦を変更することにしました。
とはいえ、当初の方針は武力で幕府を倒し、慶喜を極刑に処するということでしたから、それなりに形を整える必要がありました。そこで、3月13・14日には江戸の薩摩屋敷で勝と西郷の会談が持たれました。この会談は実はその前に幕府側の山岡鉄舟と西郷の秘密交渉でおおむね決まっていて、それを確認するということでした。

また、西郷としても政府の承認を得る必要がありました。そこで、西郷は急ぎ京都にもどりました。しかし、元々京都の新政府内では、あの長州藩を含め、慶喜を死罪にまでする必要はないというのが大勢で、それを西郷と大久保の二人が慶喜の極刑を強く主張したからそうなったまでのことでした。その西郷が慶喜の恭順を認めるということでしたから、江戸城の無血開城案はすんなり承認されました。

この会談で、慶喜の助命と水戸謹慎、それと江戸城の明け渡しが決まりました。当然翌日の江戸城攻撃は中止になりました。江戸城攻撃の前日ということで、緊迫していたといえば緊迫していましたが、それはまたどこか演出めいていて事前に書いたシナリオ通りという感じもします。

こうして4月4日には大総督府と徳川家との間で最終合意に達し、東海道部隊の総督と西郷らが兵を率いて江戸城へ入城しました。そして同11日に慶喜は寛永寺から水戸へ出発して270年にわたって続いた徳川幕府も終焉を迎えることになりました。

ただ、西郷の武力倒幕の方針は正しかったようです。というのも権力というのは暴力そのものですから、武力で勝ち取った政権でないと権力基盤はどうしても弱くなります。ですから、新政府も全国の人々にどこかで圧倒的な武力を見せつける必要がありました。
そこで選ばれたのが会津藩庄内藩という譜代大藩でした。庄内藩がターゲットになったのは江戸の薩摩藩邸を焼き討ちにしたというのがその理由でした。この2藩も恭順を嘆願しましたが、そこは刀を捨て両手を挙げた相手に無理やり刀を握らせて決闘させたようなものでしたが、2藩に戦争に立ちあがらせ何とか新政府の力を示すことができました。

鳥羽伏見の戦い

察々掌融代の終焉

徳川幕府の滅亡(2)の3

鳥羽伏見の戦い(1月3日〜6日)

こうして西郷ら3人の王政復古のクーデターは12月9日10日に決行されましたが、当然これで収束とはいきませんでした。むしろ西郷ら3人にとって状況は一時的に不利になりました。 

というのも、この時京都にはあちこちの有力藩も上京していて、その中には朝廷と幕府の融和を藩是とする公武合体派の藩が多かったからです。それは熊本・福岡・肥前などの藩です。彼らは土佐藩と一緒に御所に駐屯する薩摩兵や長州兵の引き上げを要求し、事態をもとにもどすことを要求しました。それに対し、西郷らも慶喜を新政権のメンバーに加えることを認めざるを得なくなります。また、大阪城に移った慶喜も外国の公使たちと会談して幕府支持を取り付け、王政復古の撤回を要求してきました。そのため、西郷ら3人は反って孤立する状況に追い込まれてしまいました。


こうした中、12月28日に大阪城の慶喜の元に、江戸の薩摩藩邸を焼き討ちにした事件を報告する使者が到着しました。
この報告を聞いた城内の兵士たちは、薩摩藩の横暴を激しく怒り、薩摩藩邸を焼き討ちに大喝采しました。城内は薩摩憎しで最高潮に達し、兵士たちは薩摩を糾弾すべきだという空気に包まれました。これには慶喜もどうしようもありませんでした。 
そこで、慶喜は薩摩藩を糾弾する「討薩表」を持って京都に上ることを決めました。出発は1月3日、慶喜ら首脳は大阪城に残り、まず大軍で京都を制圧し、その後に慶喜らが京都に向かう手はずでした。

一方、西郷大久保らはこれを絶好の機会と考え、この幕府軍と戦うことで武力倒幕を一気に実現しようとしました。これが鳥羽伏見の戦いでした。

幕府側が動員した兵士は1万5千人。幕府兵1万、会津兵3千、桑名兵1千500とされています。それに対し、迎え撃った薩摩兵は5千人といわれています。

 この日、幕府軍は二手に分かれて進軍しました。幕府兵からなる主力は桂川に平行する鳥羽街道。会津・新撰組・桑名からなる別働隊はその東側の伏見の道を通って京都に向かいました。

最初の接触は鳥羽街道で起こりました。そこは桂川と鴨川の合流点近くでした。ここに薩摩兵が待っていました。幕府軍の先頭と薩摩兵の間で、通せ通さないの押し問答が続きました。 

この時点では幕府側に交戦の意思はなかったようです。京都に入れば市街戦になるかもしれないとは思っていましたが、ここで戦闘は想定していなかったようです。
しかし、薩摩側はここで戦争にするつもりでした。それで薩摩側が押し問答を続けたのも、その間に幕府軍が細長い密集状態になるのを待っていたようです。薩摩側は頃合をみていきなり幕府兵をめがけて大砲を打ち込み射撃を始めました。

これで幕府軍は不意をうたれる形になりました。その上ここは湿地帯でした。そのため幕府兵は鳥羽街道の細い道を縦隊で進まざるを得ず、大軍の利を生かすことができませんでした。それどころか、そのうち前にいた兵士たちが後ろに逃走し始めました。そのため、中段、後方の兵士たちもそれにつられて逃げだしてしまいました。結局、戦いらしい戦いもせずに幕府側は総崩れになってしまいました。

一方、鳥羽の砲声は伏見の方でも聞こえ、それが合図になりこちらでも戦いが始まりました。迎えるのはここでも薩摩兵でした。西郷はこの戦いに賭けていて、負けたら明治天皇を連れて鹿児島に逃走するつもりでした。また、それだけに周到に準備していました。

こちらは両方とも陣形を組んでの戦いでしたが、両者の装備のちがいがでました。薩摩軍は大砲を打ち込みながら、歩兵隊が一斉射撃を繰り返すという戦法でした。しかし、この時代の大砲はそれほど威力があったわけでなく、鉄砲も連続射撃が出来ません。そのため一斉射撃をすると、また鉄砲に弾を込め、全員そろったところで指揮官が合図してまた一斉射撃をするという戦いでした。ですから射撃と射撃の間に時間ができます。そこで幕府側は身を伏せて射撃を避け、弾込めの間に刀と槍で相手陣に殺到するという戦法をとりました。 これはこれで有効でしたが、刀槍よりは鉄砲の方が有利です。結局、伏見方面でも戦いも幕府軍の敗北に終わりました。

こうして1月3日の戦いは終わりました。しかし、幕府側は負けたといっても潰走しただけで損害はさほどでは大きいものではありませんでした。戦える兵士は多数残っていました。それに薩摩軍はわずかに5千人でした。薩摩に加勢する他藩もいましたが、3日の戦いでは幕府と薩摩の私闘とみなす藩も多く、だいたいの藩は傍観していました。


翌日の4日も鳥羽伏見方面で戦いは続きました。が、薩摩長州軍は前日の戦いで勝って士気が高く、装備も勝っていました。それに関ケ原の時もそうでしたが、こういう戦争では初めの戦いでは様子見をしていた傍観の軍も優劣がはっきりすると一斉に有利な方につきます。ですからいったん劣勢になると挽回はだいたい不可能です。この日の戦いも、幕府側が一時勢いを盛り返しますが、結局押し切られてしまいました。
幕府側は敗走し淀城に避難しました。ところが何と淀藩から入城を拒否されてしまいました。この時淀藩の藩主は不在で、入城拒否は藩士たちが決めました。しかし、淀藩の藩主は老中で、薩摩藩邸焼き討ちを命じた人でした。結局幕府軍は大阪城まで落ち延びていきました。

6日にも戦いがありました。この時は岩清水八幡宮の近くに陣を張り両軍が対峙しました。しかし、今度は親幕府と見られていた津藩(藤堂32万石)が幕府軍に砲撃を開始し、このため幕府軍は戦う前に総崩れになり大阪城に撤退せざるを得ませんでした。4日の戦いといい、この日の戦いといい、このあたりの様子はどこか源平の戦いの平家のような哀れさを感じさせるものがありました。

大阪城にもどった幕府側の兵士たちは屈辱感で殺気だっていました。彼らを前に慶喜は戦いの続行を宣言しました。しかし、この夜慶喜は大阪城を離れて海路江戸帰還してしまい幕府側の敗北が決まりました。

この慶喜の江戸帰還についてはよくわかりません。ただ、このことで彼の歴史的評価がひどく低いものになってしまいました。

この大阪城離脱については城内の誰もが気づかなかったとされています。深夜に不審に思った家臣が慶喜の部屋に行ってみたらいなかった。それで、城内は大騒ぎになるというより兵士全部が呆然としてしまったと言われています。

しかし、慶喜一人が夜陰にまぎれての行動なら理解できますが、この時には会津藩主松平容保と桑名藩主松平定敬のほか2人の老中も一緒でした。それに大阪城を離れた慶喜はまず最初に神戸に停泊していた外国艦に行って一晩過ごし、それから大阪湾に停泊していた幕府軍艦に乗り移って江戸に帰ってきました。こういうことを考えると、大阪城に居た兵士たちのうちかなりの人たちは、慶喜の離脱は事前に知っていたと思います。まして、慶喜は松平容保と定敬が大阪城にもどらないように二人をつかまえて離さなかったtとうのは完全な作り話だlと思います。

とはいえ首脳の5人がいなくなっては、置き去りにされた兵士たちはどうしようもありません。翌日には彼らも三々五々江戸に向かって落ち延びていきました。そして9日には大阪城は無人の城となり政府軍はなんなく接収してしまいました。

なお、この時、幕府方海軍の司令官の榎本武揚は慶喜には同行しませんでしたが、慶喜退去後の大阪城から大量の小判を運びだし、これが函館戦争の資金になりました。

察々掌融代の終焉

徳川幕府の滅亡(2)の2

大政奉還(10月14日)

前年の7月からこの年の5月まで、慶喜は対朝廷関係で大いに苦労しましたが、神戸開港が決着すると、反対に朝廷上層部との関係も良好になり彼にとって都合のよい環境になってきました。時の摂政二条斉敬が慶喜とは従兄弟の関係にあったのも大きかったようです。

こういう中、慶喜が打った手が10月14日の大政奉還でした。
これは政治の大権を朝廷に返上するということです。大政奉還は元々は坂本竜馬が考えていて、それが土佐藩の前藩主の山内容堂が採用するところとなり、9月に慶喜に建言しました。竜馬の意図はわかりませんが、慶喜はこの大政奉還で倒幕諸藩の幕府に対する攻撃をかわすばかりでなく反転攻勢にでました。

この大政奉還は実質的には公武合体論の延長でした。徳川将軍は政治の大権を朝廷に返上し一大名にもどります。しかし、江戸時代の仕組みでは、将軍と大名が全国を分割して領地として持ち、それぞれの領地は将軍と大名が自由に支配するということでしたから、将軍と大名を廃止して全国を一つにしなければ、政治の大権といっても実際は外交権くらいしかありませんでした。

しかし、外交の難しさは、この頃には朝廷の上層部も理解していました。外交といっても、要するに弱国日本が強国の欧米列強と交渉することですから、それは外国に頭を下げることです。そういうことを朝廷が好んで引き受けるはずはありません。そうすると結局は今までと同じように幕府が政治を担うことになるというのが慶喜の読みでした。そして、慶喜の考えた通りに進みました。

慶喜の大政奉還に対し、朝廷では困惑しながらもこれを受け入れました。そうなると、新しい体制を作らなければなりません。これを主導したのは、この時に朝廷を仕切っていた摂政の二条斉敬と皇族の久迩宮の二人が主導する高位の公家でした。
彼らは元々公武合体論者でした。繰り返しになりますが、彼らの意識は、天皇や公家は君臨すれど統治せずで、面倒な政治の実務は公家より一段身分が下の武家がやればよいということでした。そういう彼らが考えたのは、慶喜を筆頭に有力大名による集団合議の政治体制でした。そこで、朝廷では尾張(名古屋)、筑前(福岡)、肥後(熊本)、肥前(佐賀)等、大藩の大名を京都に上京させることにしました。

これに応じて大藩の大名が続々と京都に入りました。幕末史というと薩摩長州の2藩ばかりが取り上げられますが、それは、歴史というすべてが終わった後から見た話で、その渦中で生きていた人の感覚はちがっていました。この時、薩摩長州以外の藩には、自分の藩が薩摩長州と同格かそれ以上だと考える藩はいくらでもありました。そういう藩にとって、新体制に自藩がメンバーとして入ることは当然のことでした。こうして、大政奉還により新しい体制発足に向けて政局は慶喜の望んだ流れに向かって動き出しました。

こういう流れに危機感を抱いたのが薩摩長州など倒幕諸藩の志士でした。中でも藩を実質的に動かしている下級藩士たちでした。彼らがその地位にあるのは、今が非常時だから藩から大権が与えられているだけのことで、雄藩連合の政権ができあがり、世の中が平穏になれば彼らはまた単なる下級藩士にもどることになります。とても倒幕など実現するはずがありません。しかも、藩主は雄藩連合政権が出来てもそのメンバーになることは確実ですから、藩主がこの流れに抵抗することはありません。どの藩も藩内部に親幕府と反幕府に分かれて、さらに個人の内部でも親幕府と反幕府の感情で揺れていました。彼らはなんとしてでもこの流れを止めなければならないと考えました。

この時、倒幕運動を取り仕切っていたのは西郷隆盛・大久保利通・岩倉具視の3人でした。長州藩も薩摩と並ぶ倒幕の中心ですが、この時は長州戦争が正式に終結していなくて、藩主も藩士も京都に来ることができませんでした。そのため、西郷ら3人が大きな筋書きを書き、それにしたがって薩摩藩ばかりでなく他藩や朝廷内の反幕府の人たちも動くというようになっていました。

3人は頻繁に会って謀議を重ねた結果、到達した結論は戦争が必要だということでした。このままではいずれジリ貧になってしまう。だからどんな手段を使ってでも慶喜に戦争に立ち上がるように仕向け、戦争で結着をつけるしかないということでした。
そこで西郷ら3人は慶喜を戦争に引きずり出すため、幕府を挑発することと幕府を追い詰めることにしました。もう前年からこの年にかけて、西郷ら3人は目的を果たすためには何でもやるつもりでした。孝明天皇の死に疑問が持たれるのも、彼らのこういうやり方がありました。

江戸薩摩藩邸焼き討ち事件(12月25日)

まず幕府を挑発するため西郷は多数の浪士を江戸に送りこみました。そして、薩摩藩邸を拠点に彼らに江戸市中で次々と事件を起こさせました。浪士たちは商人の家に押しかけては金品を強要し、またあちこちで傷害暴行事件を起こしました。そしてこういう行為を働いてはこれ見よがしに悠々と薩摩藩邸に引き上げていきました。

当時江戸の治安を担当していたのは譜代大名の庄内藩(山形)と幕臣の新徴組でした。幕府も庄内藩もこれが薩摩藩の挑発行為であることはわかっていましたからひたすら我慢しました。そこで浪士たちはさらに行動を拡大し、江戸城に放火し、庄内藩の詰め所に鉄砲を打ち込むということまでしました。さらには江戸ばかりでなく江戸以外の地でも、幕府兵と衝突するという事件まで起こしました。
これにはとうとう幕府も我慢の糸が切れてしまいました。以前から朝廷や薩摩に譲歩を繰り返す慶喜の政治に江戸城の幕臣たちは不満を募らせていました。江戸で留守を預かっていた幕府の重役は庄内藩に、薩摩藩邸に乗り込み浪士を捕縛するよう命じました。

12月25日、庄内藩兵は他藩の応援を得て薩摩藩低に押し寄せ、犯人引渡しを拒否する薩摩藩士との切り合いになり藩邸を焼き払いました。当然多数の死傷者が出ました。
江戸藩邸を焼き払った幕府は憎い薩摩に制裁を加えたことで、意気揚々と慶喜のいる大阪城に報告の使者を送りました。

(この時薩摩藩邸では浪士たちを脱出させ品川沖の停泊していた薩摩船に収容され離脱しました。彼らは途中品川の町に放火し、そのため北品川宿以外が焼失してしまいました。ちなみに北品川宿が無事だったのは、浪士の一人が「そこは俺の馴染みの女郎がいるからやめろ」と制止したからだとされています。真偽のほどはわかりません。)

王政復古のクーデター(12月9日)

一方、京都では西郷・大久保・岩倉の3人はクーデターを起こすことに決めました。それは天皇臨席のもとに慶喜抜きで新政府を立ち上げ幕府廃止を決めてしまうということでした。決行は12月9日。実行部隊は薩摩藩を中心に土佐・尾張・越前・安芸(広島の浅野)の5藩でした。 

長州は長州戦争が正式に終結していないので、京都に兵力を動員できず参加できませんでした。また、西郷と大久保は下級藩士のため朝廷の会議には参加できません。参加できるのは岩倉一人でした。会議をリードするには頭の良さは関係ありません。正しかろうが間違っていようがとにかく絶対の自信を持って発言し続けること、そして一方的にまくし立てて相手に発言させないことです。下級公家出身の岩倉はこれができました。

そのためには出仕が停止されている岩倉の処罰を解除し、摂政二条斉敬ら親幕府の公家のいない間に会議を開くことが必要でした。そこでまず前日の夜に正式の朝議を開き長州藩の復権を決め、合わせて岩倉の出仕停止の解除を決めました。

そして翌日に朝議を終え摂政ら親幕府メンバーが御所から退出するのを待って、薩摩藩を初め5藩の藩兵が御所を封鎖しました。そして天皇隣席の下に、出仕解除を受けたばかりの岩倉が王政復古の大号令なる文書を読み上げました。そこには、徳川幕府を廃止すること。摂政などの旧制度を廃止し代わりに総裁・議定・参与の3職を置くことを置くことが書いてありました。

そして、ただちに3職による会議を開きました。これが小御所会議と呼ばれる会合でした。メンバーには岩倉のほか、松平慶永(越前藩主)・山内容堂(土佐藩前藩主)・徳川慶勝(尾張藩主)等がいました。3職ではない西郷と大久保の2人は別室で控えていました。

この会議のポイントは慶喜を3職のメンバーからはずしていたことでした。大政奉還がなされた以上幕府を廃止し、新しい制度が出来るのは当然でした。しかし、公武合体派の慶永・容堂・慶勝は、幕府が廃止になっても当然慶喜が新しい体制のメンバーとなって政治に参加するものだと思っていました。
彼らは事前にこのクーデターのことは了承していましたが、その詳細は知らされていませんでした。まさか慶喜抜きになるとは思っていませんでした。そこで3人はこの3職構成に難色を示しました。とくに容堂は慶喜が入らないのは認められないと強く主張し、さすがの岩倉も押されぎみになりこの日の会議は中断となりました。

会議の経過を聞いた西郷と大久保は、土佐藩に「これ以上容堂が発言するなら暗殺する」とはっきり伝えました。これで結着しました。翌日には容堂は沈黙を続け、最初の予定通り慶喜抜きの3職が決まりました。そして、事前には決めていなかった、慶喜に幕府領を新政府に差し出すこと、それと慶喜が就任していた内大臣の官職を辞退するよう要求することまで決めました。

慶永と容堂と慶勝には徳川宗家を廃絶する考えはありませんでした。とくに慶永容堂の2人はそのずっと前から、倒幕諸藩と幕府の間にたって、何とか折り合いをつけようとしていました。そして、慶永と容堂はこの時までは間に立つことで、むしろ自分たち二人が政局を動かしているつもりでした。しかし、それは西郷ら3人が容堂や慶永の顔を立てるために下手に出ていたからでした。この時には西郷ら3人はこれまでの態度をかなぐり捨て、慶永と容堂はもちろん摂政や皇族も無視し、とにかく自分たちの決めることには誰にも文句は言わせないという態度でした。西郷ら3人にとってここが勝負どころでした。それだけに必死でした。

西郷ら3人はその日のうちに二条城の慶喜に伝えることにしました。使者は松平慶永と徳川慶勝でした。2人にはもうそれを断る勇気はありませんでした。容堂も土佐藩のことは板垣退助に任せることとし土佐に帰って行きました。

一方、慶喜は慶永からこの日クーデターまがいのことが起きるのは知らされていましたが、会議の内容までが知らされていず(慶永も知りませんでした)、自分が御所に居ればかえって不利になると考えたらしく、二条城にずっといました。おそらく朝廷でのことは慶永・容堂・慶勝らに任せていたようです。そして、この二条城には長州戦争に参加した幕府の兵士たちも江戸にはもどらずにいました。

慶喜は慶永・慶勝が新政府の決定を伝えると、恭順の意思を示しました。しかし、城内の興奮している兵士たちは暴発するかもしれないから返答は後ですると答え、兵士たちを連れて大阪城に移動すると伝えました。そして、12日に、1万を越える幕府兵を引き連れて大阪城に移って行きました。これには会津藩主松平容保と会津兵・新撰組、桑名藩主の松平定敬と桑名兵も同行しました。

なお、松平容保は王政復古の直前まで京都守護職、松平定敬は京都所司代の職にあり、二人は兄弟で、なおかつ尾張藩主徳川慶勝はこの二人の実兄でした。

神戸開港問題

察々掌融代の終焉

徳川幕府の滅亡(2)の1

この項と次の項の日付は旧暦です。歴史の本を読むとみな旧暦になっています。初めはどうしてだかわかりませんでしたが、新暦と旧暦では年だけでなく月と日もちがいます。1年の間に次々と事件が起きる場合は旧暦の方が時間の推移がはっきりわかりますので旧暦にしました。

アーネストサトウの維新観

実は徳川幕府がどうして滅亡したのかいまだにわかりません。それは薩摩長州がどうして幕府を滅ぼしたのかその理由が不明だからです。とくに長州藩がわかりません。江戸時代の長州藩は別に幕府からひどい仕打ちをされたということはなかったようです。むしろ毛利元就以来の名門大名として丁重に扱われていました。

にもかかわらず幕末になるとずっと反幕府でした。しかも長州藩には水戸藩のように尊王攘夷のはっきりした哲学があったわけではなく、どちらかというと気分的な感情論でした。またそれだけに融通性がありました。水戸藩は水戸学という原理主義哲学があり、そのため一種の純化路線に走って内部崩壊をおこしてしまいました。その点長州藩はグループがちがっても潰し合いはせず、それどころか藩の立場が強いと反幕府グループが権力を握り、藩が不利になると親幕府グループが代って幕府に頭を下げて藩を窮地から救うというようなことをして息の長い藩幕府運動を続け、とうとう幕府を倒してしまいました。長州藩についてはエネルギーの大きさもさることながらその持続力には感心します。

幕末の日本に長く滞在して、倒幕運動に熱中する倒幕藩の活動家たちと深い付き合いのあったイギリスの外交官アーネスト・サトウははっきりと、「日本の下級武士たちは200年以上続いた平和な社会にうんざりしていたからだ」と言っています。確かに人は何のために生きるのかという問題はさておき、実際に生きている人間にとって最大の敵は退屈です。老人や上流階級の人にとっては平和が一番ですが若い人には退屈の限りです。当時の若者たちにとって倒幕運動は非常に魅力があったと思います。

 長州戦争(1866年)

それはともかく、徳川幕府が誰の目にもその凋落ぶりがはっきりしたのは長州戦争でした。この戦争は1864年と1866年の二回にわたって行われました。最初の戦いは天皇が長州藩を朝敵としましたから大義名分のあった幕府側に勢いがあり、すべての藩が幕府の命令のもとに動きました。長州藩は利あらずとみて三家老を切腹させるなどの条件で和平に持ち込みました。

しかし、1866年の二回目は、将軍家茂が大阪城入りして陣頭指揮をとり、幕府は総力をあげて戦う姿勢を示しましたが、すでに薩長同盟が結ばれていて薩摩は参戦せず、ほかにも不参加の藩、参加してもまったく戦意のない藩もでてくる始末でした。戦況も幕府に不利で、北九州は逆に長州藩に占領される有様でした。
しかもこの最中に大阪城の家茂が死去するという事態に陥り、幕府側の実質リーダーだった一橋慶喜は朝廷に働きかけて休戦に持ち込み、何とか幕府の面子を保つのが精一杯でした。

これで薩摩藩長州藩に「幕府を倒せる」という自信が生まれました。以後倒幕藩の動きが急に加速していきました。
家茂が死去したのは7月22日で、彼は後継者には田安家の徳川家達にするという遺言を残しました。しかし、家達はまだ4歳の幼児でした。そこで一橋慶喜が後継者になり、慶喜は家達を自分の嗣子にしました。ところが、慶喜は徳川宗家の相続はすぐに受け入れましたが、考えるところがあったらしく将軍就任は12月5日でした。

明治天皇の即位(1867年1月30日)前後

明けて1867年は激動の年でした。その前年の12月25日に孝明天皇が35歳で急死し、この年の1月30日に明治天皇が14歳の若さで即位しました。
孝明天皇の死去は幕府にとって大きな痛手でした。というのも成人である孝明天皇は天皇自身の考えがあり、幕府にとっては対応が難しい天皇でしたが、それは反幕府の薩摩長州にとっても同じでした。天皇はひたすら倒幕に進む薩摩長州にブレーキの役割を果たしていました。

孝明天皇は一種の超然主義の考えの持ち主で、徳川(幕府)も島津(薩摩)も毛利(長州)もみな同じく天皇の忠実な臣下であるべきだという考えでした。それは臣下として朝廷に忠義を尽くせば幕府の存在も許容するということになります。こういう考えは天皇を将軍の対抗馬にして幕府を倒そうとする薩摩長州にとって具合の悪いことでした。

もっとも孝明天皇のこういう考えは朝廷の上層部も同じでした。この時の朝廷も反幕府の大藩と同じように、上層部は摂政をはじめ高位の公家たちは親幕府側で、反幕府の公家は低位の公家か若い公家たちでした。そしてその中心が岩倉具視でした。

しかも、66年から67年前半にかけて、神戸開港をめぐって朝廷上層部ではしだいに幕府の立場に理解を示しつつありました。少々わき道にそれますが、この神戸開港問題について説明しておきます。

この頃、京都の朝廷にとって最大の関心事は長州戦争ではなくて神戸開港問題でした。神戸開港は安政の通商条約で決まっていました。しかし、京都に近い神戸を開港することに朝廷は猛烈に反対しずっと開港できませんでした。イギリス・フランスなど列強は神戸開港を強く要求し、幕府は外国と朝廷の間に挟まって苦労していました。

長州藩は困っている幕府をさらに困らせようと尊皇攘夷を掲げ1864年に、英仏米蘭の4国を相手に下関戦争を起こしました。この時長州藩は外国艦隊の砲撃で相当な被害をうけましたが、この外国艦隊がその翌年に、今度はイギリス公使らを乗せて神戸港に姿を現しました。そして、公使らは神戸開港を要求し、必要なら京都御所に行って交渉すると幕府と朝廷に圧力をかけました。

これには孝明天皇もショックでした。それで天皇と公家の上層部は開港もやむなしと考えはじめましたが、反幕府の若手公家や下層公家たちが強く反対してなかなかスムーズに行きませんでした。この反幕府の公家たちが反対し続けたのは、裏で薩摩の西郷隆盛と大久保利通が彼らを煽っていたからでした。西郷と大久保はこの神戸開港を最大の政治問題にしようとする作戦をとっていました。当時は皇太子であった明治天皇の外祖父も強烈な反幕府側でした。孝明天皇の立場も苦しいものがありました。

こうした中、孝明天皇は死去しますが、朝廷上層部の神戸開港は認めざるを得ないという考えは変わらず、一応は反対の態度を取り続けて、慶喜のたっての願いをやむなく聞き入れるという形で、翌67年の5月にようやく神戸開港を許可しました。これが神戸開港問題でした。
 この神戸開港問題が開港で一応結着すると、西郷と大久保は政局の争点とする他のテーマが見つからず苦しい立場に陥っていきます。それが政治的駆け引きだけで幕府を倒すことの難しさを痛感させ、やがて彼らを武力倒幕への道を走らせることになりました。

(なお神戸開港はこの年の12月7日でした。この後すぐに鳥羽伏見の戦いがあって幕府は滅亡します。しかし、神戸港は順調に発展し現代に至っています。
神戸港が栄えたのはその地形の良さでした。神戸はたぶん日本最良の港です。近代の港町は広い陸地とともに、大型船が入るため陸から海に変わる所でストーンと深くなった地形の所が最適です。しかし、そういう地形の海岸は神戸のほかは横浜くらいしかありません。横浜といい神戸といい、誰が選んだのかはわかりませんが先見の明のある人がいたようです。)

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