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			<title>私の武蔵国歴史考</title>
			<description>東京埼玉神奈川東部という昔の武蔵国の歴史を私なりに調べたり、考えたことを書いて見ます。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/titibu212000</link>
			<language>ja</language>
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			<title>私の武蔵国歴史考</title>
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			<description>東京埼玉神奈川東部という昔の武蔵国の歴史を私なりに調べたり、考えたことを書いて見ます。</description>
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		<item>
			<title>江戸時代の終わり</title>
			<description>&lt;font size=&quot;6&quot;&gt;察々掌融紊僚焉&lt;font&gt;&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;4&quot;&gt;徳川幕府の滅亡（４）&lt;font&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;彰義隊&lt;font&gt;&lt;br /&gt;
 　&lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;こうして平穏に徳川幕府から明治政府への政権交代が行われましたが、幕府側の皆が皆がおとなしく引き下がったわけではありません。幕臣だけでも2万人以上いましたし、幕府に忠誠を誓う譜代藩の藩士もいましたから中には果敢に明治政府に武力抵抗を挑む者もいました。&lt;br /&gt;
 そのうち有名なのは新撰組と彰義隊でした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
新撰組は鳥羽伏見の戦いに参戦しましたが、敗退する幕府軍と一緒に江戸にもどっていました。当然武力抗戦派の最右翼でした。しかし、無条件降伏を考えていた勝海舟は、新撰組を江戸に置くことの危険を考え、彼らに資金を与え甲陽鎮撫隊の名称を与えて体よく山梨県に追い払ってしまいました。新撰組は勝沼での戦いに破れて千葉の流山で再起を図りますが、組長近藤勇は政府軍に投降して処刑され、副長の土方歳三は会津から函館に転戦し、函館で戦死しました。&lt;br /&gt;
 　&lt;br /&gt;
しかし、比較的まとまった武蔵国内の抵抗としては彰義隊の上野戦争がありましたので、これについて触れておきます。&lt;br /&gt;
 　彰義隊は一橋家の家臣の渋沢成一郎を指導者とする組織でした。渋沢成一郎は明治経済界の重鎮だった渋沢栄一の叔父にあたります。渋沢一族は埼玉深谷市の豪農でしたが、早くに政治に興味を持ち勤皇運動に身を投じていました。そのため幕府から指名手配を受け逃亡生活をしていましたが、縁あって一橋家に拾われました。二人ともなかなか才覚があって栄一も成一郎も一橋家で重用されました。栄一の方は慶喜の弟がパリの万博の日本代表としてフランスに行くのに随行し、そのため幕末維新の時には国外にいましたが、成一郎の方は慶喜が将軍に就任した後も一橋家に仕えていました。新撰組の近藤や土方といい、彰義隊の渋沢といい、幕末維新に活躍するのは譜代の家臣ばかりでなくこういう豪農出身の人もいました。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
　彰義隊は、慶喜が2月12日に上野寛永寺に謹慎生活に入ると同時に慶喜に忠誠を誓う幕臣と一橋家の家臣の有志が慶喜の警護と助命を求めて集まった集団でした。その後、組織が大きくなり、2月23日の正式発足時には1000人近い隊士がいました。中には武士だけでなく町人もいました。組織がこれだけ大きくなると、江戸市民の中には彰義隊に共感し支持する者も多数現れました。こうなると旧幕府（幕府はなくなりましたが、政府は当面の江戸の治安を旧幕府に命じていました）としても放っておくわけにはいきません。そこで彼らに江戸市中の警備を命じ正式にその存在を認めることにしました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
慶喜は4月11日に水戸に移りました。すると、一橋家の家臣だった頭取の渋沢は彰義隊の役割は終えたとして解散を提案しますが、新政府に反感を持つ幕臣やこれに同調する者たちは存続を主張しました。そのため渋沢は隊を離脱し、同志とともに埼玉県飯能市の能仁寺を本拠に振武軍を結成します。これが後に飯能戦争になります。もっとも戦争というほどのものでもなくすぐに終息しました。&lt;br /&gt;
一方、江戸の彰義隊は存続派を中心に参加者がますます増え3000人以上になりました。慶喜がいなくなったので、今度は上野寛永寺の貫主である輪王寺宮を護衛するというのが彰義隊存続の名目でした。そこで、新政府は彰義隊の監督を旧幕府からはずし、自らが討伐することにしました。これが上野戦争でした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戦闘は7月4日に始まりこの日で終わってしまいました。討伐がこんなに遅れたのは、討伐には多額の軍事費が必要で、その調達がなかなか進まなかったからです。&lt;br /&gt;
最初は彰義隊が優勢でしたが、装備と兵数に勝る政府軍が押し返しました。佐賀藩がもつ長距離砲の攻撃が有効でした。さらに彰義隊そのものが寄せ集めの集団でしたから、優勢なうちはともかくいったん不利な状況に陥ると組織としての体をなさなくなってしまい、あっという間に総崩れになってしまいました。この戦争の死者は彰義隊が105人、政府側が56人でした。&lt;br /&gt;
この彰義隊の戦争はまったくの時代錯誤でしたが、ともかくこの彰義隊の戦いで江戸の人たちの気が済んだらしく、その後は江戸で騒乱事件も起きず、新政府の江戸移転は非常にスムーズに進みました。&lt;font&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;font&gt;東京遷都&lt;font&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;徳川幕府が滅亡し、新たな統治者となった明治新政府では早速首都をどうするかという問題が持ち上がりました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大別して朝廷のある京都をそのまま首都にする案とどこか別のところに移す案がありました。公家や京都の市民たちは当然京都に固執しました。それに対し、先ず大阪遷都案が出てきて大久保は大阪案を強く推しました。しかし、何でもそうですが、こういう場合には最初に出てくる案はだいたい潰れるものです。その代わりということで江戸案が浮上しました。この案の提唱者たちは、京都存続派の言い分も聞き入れるということで、京都を西の京にし、江戸を東の京にし、京都も江戸も首都であるという折衷案のような形で提案しました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
政治の実務を担当していた人たちは、京都は秀吉が300年も前に見捨てた所で、とにかく京都はダメという共通理解があったようです。次第にこの東西両都案が有力になり、実質的に首都を東京にすることに決まりました。そして、マッカーサーの占領軍を素直に受け入れた日本人気質はこの時にはすでにあったらしく、江戸の人たちも何のわだかまりもなく、東京案を熱烈に歓迎しました。もっとも、江戸はその前に参勤交代がなくなり、灯が消えたようにさびしい町になっていたという事情もありました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
首都をどこにするかということは昔から大いに論じられました。中国の伝統的な考えは、「天子は南面する」でした。つまり東西南のうち、北と東と西が山に囲まれ、南だけが平地になっている地形が都にふさわしいという考え方です。そして、天子（日本では天皇）は都の北側に皇居を構え、南方に広がって住む人々に君臨するという考えです。平安初期の京都はそうなっています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、一般的にはこういう占いのような考えではなく、その国のもっとも安全な所を首都にする考え方と、反対にもっとも危険な所を首都にするという考え方の二つがあるようです。前者の代表がパリで、後者の代表がベルリンと北京です。ベルリンはヨーロッパの、東の平原地帯と西の森林地帯の境界にあり、昔からよく戦場になっていました。北京も北の遊牧民族地帯と南の農耕民族地帯の境界にあります。その国の要衝の地には大軍を置くというのも方法ですが、いっそのこと皇帝か天皇がそこに住んでしまうというのがもっとも効果的です。徳川幕府を倒した明治政府が敵地である江戸を首都にしまうというのも十分理屈があっています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
徳川幕府が江戸城を明け渡した年の10月13日、明治天皇が江戸城に入城して江戸城を東京城に改称しました。こうして江戸は東京になり、この日から名目ともに明治時代が始まりました。&lt;font&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;徳川慶喜について&lt;font&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;徳川幕府の最後の将軍徳川慶喜という人は非常に複雑な人でわかりにくい人です。その上幕府が滅んだ時の将軍ということでどうしてもマイナスの評価になってしまいます。慶喜が好きという人はほとんどいないと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彼は1863年からはずっと京都に張り付きの状態で、江戸にもどったのは鳥羽伏見の戦いに敗北した後でした。そしてその2ケ月後には将軍職を退いてしまいましたから、江戸の人にはまったく馴染みのない人でした。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
慶喜は徳川将軍の中では初代の家康に次いで忙しかった人です。有能な側近も参謀もいなかったので、一人であれこれやりました。そうとうに能力が高くなければできるものではありません。しかし、にもかかわらずというか、だからというべきか、彼の政治はすべて無に帰し、徳川幕府最後の将軍になってしまいました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
慶喜は明治維新後はまったく表に出ることなく大正2年に76歳で亡くなりました。回想録も残さず、幕府滅亡後の46年間どういう気持ちで生きていたのかもわかりません。徳川幕府の滅亡については、慶喜も彼なりに言いたいことはたくさんあったと思いますが黙って死んでいきました。敗軍の将兵を語らずということのようです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この慶喜と対照的な人は明治天皇でした。明治天皇の人気は高く、歴代天皇の中では天武天皇や桓武天皇をしのぐかもしれません。しかし、よく考えてみると、明治天皇が何か重要な政治判断をしたとか政策を打ち出したというのは一つもありません。明治時代の政治はすべて臣下たちが天皇に相談なしに行ったことでした。何もしなくても明治天皇が天皇でいると国民が安心するという人徳というか運の良さを持った天皇でした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こういうことを考えると天皇とか将軍とかいうとびっきり高い地位にある人にとって、もっとも重要なのはチマチマした能力ではなく運のよさのようです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　歴代の徳川将軍の墓は上野の寛永寺か芝の増上寺に決まっていました。慶喜の墓は寛永寺のはずれにあります。たまたまここに詳しい人がいて、その人が言うには、慶喜の墓は寛永寺にあるように見えるが、そこは寛永寺の墓域ではない。彼は寛永寺に埋葬するのを断られたということでした。寛永寺が断ったのではなく檀家の有力者たちがそう決めたようです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そういう話を聞きながら慶喜の墓を見ていると、徳川慶喜の波乱の生涯と同時に彼の運の悪さというものも感じてしまいます。&lt;br /&gt;
&lt;font&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;4&quot;&gt;以上で「私の武蔵国歴史考」は終了とします。このブログには著作権はありません。この画面のままパソコンの「コピー」操作をすると簡単にコピーできますから大いに利用してください。新しい視点で武蔵国の歴史を研究する人が現れるのを期待します。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　完&lt;font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/titibu212000/35192199.html</link>
			<pubDate>Thu, 11 Aug 2011 15:11:03 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>江戸開城</title>
			<description>&lt;font size=&quot;6&quot;&gt;察々掌融紊僚焉&lt;font&gt;&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;4&quot;&gt;徳川幕府の滅亡（3）&lt;font&gt;&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;江戸城の降伏&lt;font&gt;&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;鳥羽伏見の戦いが終わった1868年1月7日、新政府は徳川慶喜を朝敵とし、慶喜追討を宣言しました。政府はただちにその準備にとりかかり、早くも同月21日には幕府討伐軍を編成しました。そして、この時に江戸城攻撃を3月15日に決めました。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
　この討伐軍は大総督に有栖川宮熾仁（たるひと）親王が就任し、3方面から江戸に向かいました。一隊は東海道を通る部隊でこれは有栖川宮熾仁親王の本隊でした。その参謀は西郷でした。本隊が京都を出発したのは2月21日でした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
残り二隊は中山道部隊と北陸道部隊で、そうのうち武蔵攻略は中山道部隊が担当しました。総督が岩倉具定、参謀は板垣退助（土佐）でした。この部隊は1月21日のうちに出発しました。そして東海道本隊と中山道部隊は途中近隣の諸藩を帰属させながら江戸で合流し、3月15日に江戸城を総攻撃する手はずになっていました。 &lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
こう説明すると、ちょうど秀吉が20万の兵力を動員した小田原攻めと同じ作戦になり、さぞかし大軍を擁しての堂々の進撃だったように思われます。しかし。実際はまったくちがっていました。&lt;br /&gt;
 　&lt;br /&gt;
実際の兵数はわかりませんが、進軍のスピードや途中部隊が宿泊した宿場や村の様子から想像すると、たぶん有栖川宮の本隊でも数百人、場合によっては100人にも満たなかったようです。東海道の本隊がこうですから東山道部隊などは数十人規模だったと思います。そして、軍服などは着装はせずたぶん参勤交代の大名行列のようなものだったと思います。&lt;br /&gt;
 この征討軍は秀吉よりもその前の坂上田村麻呂や源義家に似ていました。それは新政府軍の中核である薩長の部隊は温存して使わず、錦の御旗の権威で兵士と物資はできるだけ現地で調達するというやり方でした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　征討部隊は宿泊先の旅館に近隣の藩の藩主や重臣が恭順を伝えにやってくると、その藩に進軍先の警備を命じ、江戸城を攻撃する際には兵員を提供させることを約束させました。それから、この征討軍を管轄する新政府はまったくお金を持たない政権でしたから、たぶん上納金や食料提供なども命じていたと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こういう征討軍でしたから進軍のスピードも速く、2月21日に京を出発した本隊は3月5日には駿府城に到着しました。一方中山道部隊はもっと速く、3月8日には神流川を渡って武蔵に入りました。そして、９日には熊谷に着き、13日には板橋宿に到着してここに本陣を構え江戸城攻撃の態勢を整えました。この時には近隣の帰属した藩から兵を徴発しまとまった兵力になっていました。&lt;br /&gt;
 　&lt;br /&gt;
しかし、中山道部隊のすばやい進軍に対し、東海道の本隊はずっと遅れてしまいました。中山道部隊が板橋に陣を敷いた3月13日になっても、本隊の東海道部隊はまだ駿府に居たままでした。&lt;br /&gt;
 　主力の東海道部隊が静岡でストップしたのは、征討軍が作戦の重大な変更を行うことになったからでした。それは慶喜の処置でした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
鳥羽伏見の戦いの直後、すでに新政府は早々と幕府側の大名や旗本たちに新政府に帰属するなら領地の没収などは行わないと宣言しました。また、幕府領を管轄する各地の代官所には罪科は問わないから、新たな指示があるまで従来通りに仕事をするように命じました。一方、江戸にもどった慶喜はひたすら恭順を示していました。ですから、新政府内ではこれで徳川幕府から新政府への権力移行はスムーズに行くはずだと考え、当然、戦争など起きるはずがないと思っていました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、薩摩藩の西郷と大久保の二人だけが武力倒幕を方針に掲げ、とくに慶喜は絶対に死罪にすると強く主張しました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
西郷と大久保がどうしてこういう強硬な姿勢を示したのかははっきりしません.たぶん幕府から新政府への権力移行がスムーズに進んで政局が落ち着いてしまうと、自分たち下級武士は体よく政治の舞台から放り出されると心配したからだと思います。彼らにとっては戦争状態が持続することで対幕府のみならず、新政府内で主導権を持ち続けようとしたようです。西郷と大久保の二人については高い理想を持ち、日本の近代化に身をささげた偉人というイメージがありますが、これは明治以降に作られたいわば虚像です。彼ら二人も、若い青年によく見られるがちな暗い情熱を沸々と内面にたぎらせる野心的な青年でした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、薩摩藩の西郷と大久保の二人だけが武力倒幕を方針に掲げ、とくに慶喜は絶対に死罪にすると強く主張しました。幕府の無力さをはっきりさせたのは鳥羽伏見の戦いで、これを戦ったのは西郷率いる薩摩軍でした。そのため西郷大久保の発言権は非常に強く、新政府のメンバーたちもこの二人が慶喜死罪を主張する以上やむをえないということで征討軍を認めたという経緯がありました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ところが、静岡滞在中に西郷が慶喜死罪を変更せざるを得なくなったようです。その理由については、多くの幕末専門家は外国からの圧力があったからだとしてこれがほぼ定説になっています。そのいきさつは次のようでした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　江戸城攻撃の予定日は3月15日でしたから、その前の11日に西郷は、江戸の状況を把握するため単身江戸に向かいました。しかし、一方で西郷は部下を横浜に派遣しイギリス公使のパークスの理解を求めました。この時、イギリス・フランスなどの外国は新政府側にも幕府側にもつかない局外中立を宣言していました。征討軍の勝利は間違いありませんから、西郷は外国の了解は簡単に得られるものと思っていたようです。ところが、パークスは恭順している慶喜を攻めるのは道義に反すると新政府のやり方を強く非難し、ことによっては幕府に味方するとまで言いました。パークスはナポレオンさえ死刑にせず遠島ですませたヨーロッパの歴史まで持ち出したといわれています&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　その報告を受けた西郷は、江戸城攻撃はどうも簡単にはいかないということに気づき、急遽慶喜死罪を変更したというのです。しかし、このあたりの事情ははっきりしなくて、外圧だけで方針変更になったという説明だけではどうにも釈然としません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただ、実際のところ、将軍慶喜はすでに恭順を決め、幕臣たちをそれぞれの知行地にもどして江戸城を無防備にしてしまいました。そして、自分は江戸城を出て上野の寛永寺に謹慎していました。その上、江戸の市民たちも戦禍を避けて避難する様子もなくいつものままでした。こういう状況を考えると、江戸の町で戦争をすることは実際には無理だったと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そこで、西郷は最初の方針である江戸城を武力で征服する作戦を変更することにしました。&lt;br /&gt;
とはいえ、当初の方針は武力で幕府を倒し、慶喜を極刑に処するということでしたから、それなりに形を整える必要がありました。そこで、3月13・14日には江戸の薩摩屋敷で勝と西郷の会談が持たれました。この会談は実はその前に幕府側の山岡鉄舟と西郷の秘密交渉でおおむね決まっていて、それを確認するということでした。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
また、西郷としても政府の承認を得る必要がありました。そこで、西郷は急ぎ京都にもどりました。しかし、元々京都の新政府内では、あの長州藩を含め、慶喜を死罪にまでする必要はないというのが大勢で、それを西郷と大久保の二人が慶喜の極刑を強く主張したからそうなったまでのことでした。その西郷が慶喜の恭順を認めるということでしたから、江戸城の無血開城案はすんなり承認されました。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
この会談で、慶喜の助命と水戸謹慎、それと江戸城の明け渡しが決まりました。当然翌日の江戸城攻撃は中止になりました。江戸城攻撃の前日ということで、緊迫していたといえば緊迫していましたが、それはまたどこか演出めいていて事前に書いたシナリオ通りという感じもします。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうして4月4日には大総督府と徳川家との間で最終合意に達し、東海道部隊の総督と西郷らが兵を率いて江戸城へ入城しました。そして同11日に慶喜は寛永寺から水戸へ出発して270年にわたって続いた徳川幕府も終焉を迎えることになりました。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
ただ、西郷の武力倒幕の方針は正しかったようです。というのも権力というのは暴力そのものですから、武力で勝ち取った政権でないと権力基盤はどうしても弱くなります。ですから、新政府も全国の人々にどこかで圧倒的な武力を見せつける必要がありました。&lt;br /&gt;
そこで選ばれたのが会津藩庄内藩という譜代大藩でした。庄内藩がターゲットになったのは江戸の薩摩藩邸を焼き討ちにしたというのがその理由でした。この２藩も恭順を嘆願しましたが、そこは刀を捨て両手を挙げた相手に無理やり刀を握らせて決闘させたようなものでしたが、２藩に戦争に立ちあがらせ何とか新政府の力を示すことができました。&lt;font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/titibu212000/35191280.html</link>
			<pubDate>Thu, 11 Aug 2011 10:29:17 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>鳥羽伏見の戦い</title>
			<description>&lt;font size=&quot;6&quot;&gt;察々掌融紊僚焉&lt;font&gt;&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;4&quot;&gt;徳川幕府の滅亡（２）の３&lt;font&gt;&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;鳥羽伏見の戦い（1月3日～6日）&lt;font&gt;&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;こうして西郷ら3人の王政復古のクーデターは12月9日10日に決行されましたが、当然これで収束とはいきませんでした。むしろ西郷ら3人にとって状況は一時的に不利になりました。　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
というのも、この時京都にはあちこちの有力藩も上京していて、その中には朝廷と幕府の融和を藩是とする公武合体派の藩が多かったからです。それは熊本・福岡・肥前などの藩です。彼らは土佐藩と一緒に御所に駐屯する薩摩兵や長州兵の引き上げを要求し、事態をもとにもどすことを要求しました。それに対し、西郷らも慶喜を新政権のメンバーに加えることを認めざるを得なくなります。また、大阪城に移った慶喜も外国の公使たちと会談して幕府支持を取り付け、王政復古の撤回を要求してきました。そのため、西郷ら3人は反って孤立する状況に追い込まれてしまいました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
こうした中、12月28日に大阪城の慶喜の元に、江戸の薩摩藩邸を焼き討ちにした事件を報告する使者が到着しました。&lt;br /&gt;
この報告を聞いた城内の兵士たちは、薩摩藩の横暴を激しく怒り、薩摩藩邸を焼き討ちに大喝采しました。城内は薩摩憎しで最高潮に達し、兵士たちは薩摩を糾弾すべきだという空気に包まれました。これには慶喜もどうしようもありませんでした。　&lt;br /&gt;
そこで、慶喜は薩摩藩を糾弾する「討薩表」を持って京都に上ることを決めました。出発は1月3日、慶喜ら首脳は大阪城に残り、まず大軍で京都を制圧し、その後に慶喜らが京都に向かう手はずでした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、西郷大久保らはこれを絶好の機会と考え、この幕府軍と戦うことで武力倒幕を一気に実現しようとしました。これが鳥羽伏見の戦いでした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 幕府側が動員した兵士は1万5千人。幕府兵1万、会津兵3千、桑名兵1千500とされています。それに対し、迎え撃った薩摩兵は５千人といわれています。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
　この日、幕府軍は二手に分かれて進軍しました。幕府兵からなる主力は桂川に平行する鳥羽街道。会津・新撰組・桑名からなる別働隊はその東側の伏見の道を通って京都に向かいました。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
最初の接触は鳥羽街道で起こりました。そこは桂川と鴨川の合流点近くでした。ここに薩摩兵が待っていました。幕府軍の先頭と薩摩兵の間で、通せ通さないの押し問答が続きました。　&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
この時点では幕府側に交戦の意思はなかったようです。京都に入れば市街戦になるかもしれないとは思っていましたが、ここで戦闘は想定していなかったようです。&lt;br /&gt;
しかし、薩摩側はここで戦争にするつもりでした。それで薩摩側が押し問答を続けたのも、その間に幕府軍が細長い密集状態になるのを待っていたようです。薩摩側は頃合をみていきなり幕府兵をめがけて大砲を打ち込み射撃を始めました。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
これで幕府軍は不意をうたれる形になりました。その上ここは湿地帯でした。そのため幕府兵は鳥羽街道の細い道を縦隊で進まざるを得ず、大軍の利を生かすことができませんでした。それどころか、そのうち前にいた兵士たちが後ろに逃走し始めました。そのため、中段、後方の兵士たちもそれにつられて逃げだしてしまいました。結局、戦いらしい戦いもせずに幕府側は総崩れになってしまいました。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
一方、鳥羽の砲声は伏見の方でも聞こえ、それが合図になりこちらでも戦いが始まりました。迎えるのはここでも薩摩兵でした。西郷はこの戦いに賭けていて、負けたら明治天皇を連れて鹿児島に逃走するつもりでした。また、それだけに周到に準備していました。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
こちらは両方とも陣形を組んでの戦いでしたが、両者の装備のちがいがでました。薩摩軍は大砲を打ち込みながら、歩兵隊が一斉射撃を繰り返すという戦法でした。しかし、この時代の大砲はそれほど威力があったわけでなく、鉄砲も連続射撃が出来ません。そのため一斉射撃をすると、また鉄砲に弾を込め、全員そろったところで指揮官が合図してまた一斉射撃をするという戦いでした。ですから射撃と射撃の間に時間ができます。そこで幕府側は身を伏せて射撃を避け、弾込めの間に刀と槍で相手陣に殺到するという戦法をとりました。　これはこれで有効でしたが、刀槍よりは鉄砲の方が有利です。結局、伏見方面でも戦いも幕府軍の敗北に終わりました。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
こうして1月3日の戦いは終わりました。しかし、幕府側は負けたといっても潰走しただけで損害はさほどでは大きいものではありませんでした。戦える兵士は多数残っていました。それに薩摩軍はわずかに５千人でした。薩摩に加勢する他藩もいましたが、3日の戦いでは幕府と薩摩の私闘とみなす藩も多く、だいたいの藩は傍観していました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 翌日の4日も鳥羽伏見方面で戦いは続きました。が、薩摩長州軍は前日の戦いで勝って士気が高く、装備も勝っていました。それに関ケ原の時もそうでしたが、こういう戦争では初めの戦いでは様子見をしていた傍観の軍も優劣がはっきりすると一斉に有利な方につきます。ですからいったん劣勢になると挽回はだいたい不可能です。この日の戦いも、幕府側が一時勢いを盛り返しますが、結局押し切られてしまいました。&lt;br /&gt;
 幕府側は敗走し淀城に避難しました。ところが何と淀藩から入城を拒否されてしまいました。この時淀藩の藩主は不在で、入城拒否は藩士たちが決めました。しかし、淀藩の藩主は老中で、薩摩藩邸焼き討ちを命じた人でした。結局幕府軍は大阪城まで落ち延びていきました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
6日にも戦いがありました。この時は岩清水八幡宮の近くに陣を張り両軍が対峙しました。しかし、今度は親幕府と見られていた津藩（藤堂32万石）が幕府軍に砲撃を開始し、このため幕府軍は戦う前に総崩れになり大阪城に撤退せざるを得ませんでした。4日の戦いといい、この日の戦いといい、このあたりの様子はどこか源平の戦いの平家のような哀れさを感じさせるものがありました。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
大阪城にもどった幕府側の兵士たちは屈辱感で殺気だっていました。彼らを前に慶喜は戦いの続行を宣言しました。しかし、この夜慶喜は大阪城を離れて海路江戸帰還してしまい幕府側の敗北が決まりました。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
この慶喜の江戸帰還についてはよくわかりません。ただ、このことで彼の歴史的評価がひどく低いものになってしまいました。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
この大阪城離脱については城内の誰もが気づかなかったとされています。深夜に不審に思った家臣が慶喜の部屋に行ってみたらいなかった。それで、城内は大騒ぎになるというより兵士全部が呆然としてしまったと言われています。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
しかし、慶喜一人が夜陰にまぎれての行動なら理解できますが、この時には会津藩主松平容保と桑名藩主松平定敬のほか2人の老中も一緒でした。それに大阪城を離れた慶喜はまず最初に神戸に停泊していた外国艦に行って一晩過ごし、それから大阪湾に停泊していた幕府軍艦に乗り移って江戸に帰ってきました。こういうことを考えると、大阪城に居た兵士たちのうちかなりの人たちは、慶喜の離脱は事前に知っていたと思います。まして、慶喜は松平容保と定敬が大阪城にもどらないように二人をつかまえて離さなかったtとうのは完全な作り話だｌと思います。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
とはいえ首脳の5人がいなくなっては、置き去りにされた兵士たちはどうしようもありません。翌日には彼らも三々五々江戸に向かって落ち延びていきました。そして9日には大阪城は無人の城となり政府軍はなんなく接収してしまいました。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
なお、この時、幕府方海軍の司令官の榎本武揚は慶喜には同行しませんでしたが、慶喜退去後の大阪城から大量の小判を運びだし、これが函館戦争の資金になりました。&lt;font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/titibu212000/35185511.html</link>
			<pubDate>Wed, 10 Aug 2011 05:26:44 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>大政奉還と王政復古のクーデター</title>
			<description>&lt;font size=&quot;6&quot;&gt;察々掌融紊僚焉&lt;font&gt;&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;4&quot;&gt;徳川幕府の滅亡（２）の2&lt;font&gt;&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;大政奉還（10月14日）&lt;font&gt;&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;前年の7月からこの年の5月まで、慶喜は対朝廷関係で大いに苦労しましたが、神戸開港が決着すると、反対に朝廷上層部との関係も良好になり彼にとって都合のよい環境になってきました。時の摂政二条斉敬が慶喜とは従兄弟の関係にあったのも大きかったようです。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
こういう中、慶喜が打った手が10月14日の大政奉還でした。&lt;br /&gt;
これは政治の大権を朝廷に返上するということです。大政奉還は元々は坂本竜馬が考えていて、それが土佐藩の前藩主の山内容堂が採用するところとなり、9月に慶喜に建言しました。竜馬の意図はわかりませんが、慶喜はこの大政奉還で倒幕諸藩の幕府に対する攻撃をかわすばかりでなく反転攻勢にでました。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
この大政奉還は実質的には公武合体論の延長でした。徳川将軍は政治の大権を朝廷に返上し一大名にもどります。しかし、江戸時代の仕組みでは、将軍と大名が全国を分割して領地として持ち、それぞれの領地は将軍と大名が自由に支配するということでしたから、将軍と大名を廃止して全国を一つにしなければ、政治の大権といっても実際は外交権くらいしかありませんでした。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
しかし、外交の難しさは、この頃には朝廷の上層部も理解していました。外交といっても、要するに弱国日本が強国の欧米列強と交渉することですから、それは外国に頭を下げることです。そういうことを朝廷が好んで引き受けるはずはありません。そうすると結局は今までと同じように幕府が政治を担うことになるというのが慶喜の読みでした。そして、慶喜の考えた通りに進みました。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
慶喜の大政奉還に対し、朝廷では困惑しながらもこれを受け入れました。そうなると、新しい体制を作らなければなりません。これを主導したのは、この時に朝廷を仕切っていた摂政の二条斉敬と皇族の久迩宮の二人が主導する高位の公家でした。&lt;br /&gt;
彼らは元々公武合体論者でした。繰り返しになりますが、彼らの意識は、天皇や公家は君臨すれど統治せずで、面倒な政治の実務は公家より一段身分が下の武家がやればよいということでした。そういう彼らが考えたのは、慶喜を筆頭に有力大名による集団合議の政治体制でした。そこで、朝廷では尾張（名古屋）、筑前（福岡）、肥後（熊本）、肥前（佐賀）等、大藩の大名を京都に上京させることにしました。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
これに応じて大藩の大名が続々と京都に入りました。幕末史というと薩摩長州の2藩ばかりが取り上げられますが、それは、歴史というすべてが終わった後から見た話で、その渦中で生きていた人の感覚はちがっていました。この時、薩摩長州以外の藩には、自分の藩が薩摩長州と同格かそれ以上だと考える藩はいくらでもありました。そういう藩にとって、新体制に自藩がメンバーとして入ることは当然のことでした。こうして、大政奉還により新しい体制発足に向けて政局は慶喜の望んだ流れに向かって動き出しました。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
こういう流れに危機感を抱いたのが薩摩長州など倒幕諸藩の志士でした。中でも藩を実質的に動かしている下級藩士たちでした。彼らがその地位にあるのは、今が非常時だから藩から大権が与えられているだけのことで、雄藩連合の政権ができあがり、世の中が平穏になれば彼らはまた単なる下級藩士にもどることになります。とても倒幕など実現するはずがありません。しかも、藩主は雄藩連合政権が出来てもそのメンバーになることは確実ですから、藩主がこの流れに抵抗することはありません。どの藩も藩内部に親幕府と反幕府に分かれて、さらに個人の内部でも親幕府と反幕府の感情で揺れていました。彼らはなんとしてでもこの流れを止めなければならないと考えました。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
この時、倒幕運動を取り仕切っていたのは西郷隆盛・大久保利通・岩倉具視の3人でした。長州藩も薩摩と並ぶ倒幕の中心ですが、この時は長州戦争が正式に終結していなくて、藩主も藩士も京都に来ることができませんでした。そのため、西郷ら3人が大きな筋書きを書き、それにしたがって薩摩藩ばかりでなく他藩や朝廷内の反幕府の人たちも動くというようになっていました。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
3人は頻繁に会って謀議を重ねた結果、到達した結論は戦争が必要だということでした。このままではいずれジリ貧になってしまう。だからどんな手段を使ってでも慶喜に戦争に立ち上がるように仕向け、戦争で結着をつけるしかないということでした。&lt;br /&gt;
そこで西郷ら3人は慶喜を戦争に引きずり出すため、幕府を挑発することと幕府を追い詰めることにしました。もう前年からこの年にかけて、西郷ら3人は目的を果たすためには何でもやるつもりでした。孝明天皇の死に疑問が持たれるのも、彼らのこういうやり方がありました。&lt;font&gt;&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;江戸薩摩藩邸焼き討ち事件（12月25日）&lt;font&gt;&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;まず幕府を挑発するため西郷は多数の浪士を江戸に送りこみました。そして、薩摩藩邸を拠点に彼らに江戸市中で次々と事件を起こさせました。浪士たちは商人の家に押しかけては金品を強要し、またあちこちで傷害暴行事件を起こしました。そしてこういう行為を働いてはこれ見よがしに悠々と薩摩藩邸に引き上げていきました。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
当時江戸の治安を担当していたのは譜代大名の庄内藩（山形）と幕臣の新徴組でした。幕府も庄内藩もこれが薩摩藩の挑発行為であることはわかっていましたからひたすら我慢しました。そこで浪士たちはさらに行動を拡大し、江戸城に放火し、庄内藩の詰め所に鉄砲を打ち込むということまでしました。さらには江戸ばかりでなく江戸以外の地でも、幕府兵と衝突するという事件まで起こしました。&lt;br /&gt;
これにはとうとう幕府も我慢の糸が切れてしまいました。以前から朝廷や薩摩に譲歩を繰り返す慶喜の政治に江戸城の幕臣たちは不満を募らせていました。江戸で留守を預かっていた幕府の重役は庄内藩に、薩摩藩邸に乗り込み浪士を捕縛するよう命じました。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
12月25日、庄内藩兵は他藩の応援を得て薩摩藩低に押し寄せ、犯人引渡しを拒否する薩摩藩士との切り合いになり藩邸を焼き払いました。当然多数の死傷者が出ました。&lt;br /&gt;
江戸藩邸を焼き払った幕府は憎い薩摩に制裁を加えたことで、意気揚々と慶喜のいる大阪城に報告の使者を送りました。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
（この時薩摩藩邸では浪士たちを脱出させ品川沖の停泊していた薩摩船に収容され離脱しました。彼らは途中品川の町に放火し、そのため北品川宿以外が焼失してしまいました。ちなみに北品川宿が無事だったのは、浪士の一人が「そこは俺の馴染みの女郎がいるからやめろ」と制止したからだとされています。真偽のほどはわかりません。）&lt;font&gt;&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;王政復古のクーデター（12月9日）&lt;font&gt;&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;一方、京都では西郷・大久保・岩倉の3人はクーデターを起こすことに決めました。それは天皇臨席のもとに慶喜抜きで新政府を立ち上げ幕府廃止を決めてしまうということでした。決行は12月9日。実行部隊は薩摩藩を中心に土佐・尾張・越前・安芸（広島の浅野）の5藩でした。　&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
長州は長州戦争が正式に終結していないので、京都に兵力を動員できず参加できませんでした。また、西郷と大久保は下級藩士のため朝廷の会議には参加できません。参加できるのは岩倉一人でした。会議をリードするには頭の良さは関係ありません。正しかろうが間違っていようがとにかく絶対の自信を持って発言し続けること、そして一方的にまくし立てて相手に発言させないことです。下級公家出身の岩倉はこれができました。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
そのためには出仕が停止されている岩倉の処罰を解除し、摂政二条斉敬ら親幕府の公家のいない間に会議を開くことが必要でした。そこでまず前日の夜に正式の朝議を開き長州藩の復権を決め、合わせて岩倉の出仕停止の解除を決めました。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
そして翌日に朝議を終え摂政ら親幕府メンバーが御所から退出するのを待って、薩摩藩を初め5藩の藩兵が御所を封鎖しました。そして天皇隣席の下に、出仕解除を受けたばかりの岩倉が王政復古の大号令なる文書を読み上げました。そこには、徳川幕府を廃止すること。摂政などの旧制度を廃止し代わりに総裁・議定・参与の3職を置くことを置くことが書いてありました。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
そして、ただちに3職による会議を開きました。これが小御所会議と呼ばれる会合でした。メンバーには岩倉のほか、松平慶永（越前藩主）・山内容堂（土佐藩前藩主）・徳川慶勝（尾張藩主）等がいました。3職ではない西郷と大久保の2人は別室で控えていました。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
この会議のポイントは慶喜を3職のメンバーからはずしていたことでした。大政奉還がなされた以上幕府を廃止し、新しい制度が出来るのは当然でした。しかし、公武合体派の慶永・容堂・慶勝は、幕府が廃止になっても当然慶喜が新しい体制のメンバーとなって政治に参加するものだと思っていました。&lt;br /&gt;
彼らは事前にこのクーデターのことは了承していましたが、その詳細は知らされていませんでした。まさか慶喜抜きになるとは思っていませんでした。そこで3人はこの3職構成に難色を示しました。とくに容堂は慶喜が入らないのは認められないと強く主張し、さすがの岩倉も押されぎみになりこの日の会議は中断となりました。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
会議の経過を聞いた西郷と大久保は、土佐藩に「これ以上容堂が発言するなら暗殺する」とはっきり伝えました。これで結着しました。翌日には容堂は沈黙を続け、最初の予定通り慶喜抜きの3職が決まりました。そして、事前には決めていなかった、慶喜に幕府領を新政府に差し出すこと、それと慶喜が就任していた内大臣の官職を辞退するよう要求することまで決めました。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
慶永と容堂と慶勝には徳川宗家を廃絶する考えはありませんでした。とくに慶永容堂の2人はそのずっと前から、倒幕諸藩と幕府の間にたって、何とか折り合いをつけようとしていました。そして、慶永と容堂はこの時までは間に立つことで、むしろ自分たち二人が政局を動かしているつもりでした。しかし、それは西郷ら3人が容堂や慶永の顔を立てるために下手に出ていたからでした。この時には西郷ら3人はこれまでの態度をかなぐり捨て、慶永と容堂はもちろん摂政や皇族も無視し、とにかく自分たちの決めることには誰にも文句は言わせないという態度でした。西郷ら3人にとってここが勝負どころでした。それだけに必死でした。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
西郷ら3人はその日のうちに二条城の慶喜に伝えることにしました。使者は松平慶永と徳川慶勝でした。2人にはもうそれを断る勇気はありませんでした。容堂も土佐藩のことは板垣退助に任せることとし土佐に帰って行きました。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
一方、慶喜は慶永からこの日クーデターまがいのことが起きるのは知らされていましたが、会議の内容までが知らされていず（慶永も知りませんでした）、自分が御所に居ればかえって不利になると考えたらしく、二条城にずっといました。おそらく朝廷でのことは慶永・容堂・慶勝らに任せていたようです。そして、この二条城には長州戦争に参加した幕府の兵士たちも江戸にはもどらずにいました。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
慶喜は慶永・慶勝が新政府の決定を伝えると、恭順の意思を示しました。しかし、城内の興奮している兵士たちは暴発するかもしれないから返答は後ですると答え、兵士たちを連れて大阪城に移動すると伝えました。そして、12日に、1万を越える幕府兵を引き連れて大阪城に移って行きました。これには会津藩主松平容保と会津兵・新撰組、桑名藩主の松平定敬と桑名兵も同行しました。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
なお、松平容保は王政復古の直前まで京都守護職、松平定敬は京都所司代の職にあり、二人は兄弟で、なおかつ尾張藩主徳川慶勝はこの二人の実兄でした。&lt;font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/titibu212000/35180857.html</link>
			<pubDate>Tue, 09 Aug 2011 06:21:02 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>神戸開港問題</title>
			<description>&lt;font size=&quot;6&quot;&gt;察々掌融紊僚焉&lt;font&gt;&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;4&quot;&gt;徳川幕府の滅亡（２）の1&lt;font&gt;&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;この項と次の項の日付は旧暦です。歴史の本を読むとみな旧暦になっています。初めはどうしてだかわかりませんでしたが、新暦と旧暦では年だけでなく月と日もちがいます。1年の間に次々と事件が起きる場合は旧暦の方が時間の推移がはっきりわかりますので旧暦にしました。&lt;font&gt;&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;アーネストサトウの維新観&lt;font&gt;&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;実は徳川幕府がどうして滅亡したのかいまだにわかりません。それは薩摩長州がどうして幕府を滅ぼしたのかその理由が不明だからです。とくに長州藩がわかりません。江戸時代の長州藩は別に幕府からひどい仕打ちをされたということはなかったようです。むしろ毛利元就以来の名門大名として丁重に扱われていました。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
にもかかわらず幕末になるとずっと反幕府でした。しかも長州藩には水戸藩のように尊王攘夷のはっきりした哲学があったわけではなく、どちらかというと気分的な感情論でした。またそれだけに融通性がありました。水戸藩は水戸学という原理主義哲学があり、そのため一種の純化路線に走って内部崩壊をおこしてしまいました。その点長州藩はグループがちがっても潰し合いはせず、それどころか藩の立場が強いと反幕府グループが権力を握り、藩が不利になると親幕府グループが代って幕府に頭を下げて藩を窮地から救うというようなことをして息の長い藩幕府運動を続け、とうとう幕府を倒してしまいました。長州藩についてはエネルギーの大きさもさることながらその持続力には感心します。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
幕末の日本に長く滞在して、倒幕運動に熱中する倒幕藩の活動家たちと深い付き合いのあったイギリスの外交官アーネスト・サトウははっきりと、「日本の下級武士たちは200年以上続いた平和な社会にうんざりしていたからだ」と言っています。確かに人は何のために生きるのかという問題はさておき、実際に生きている人間にとって最大の敵は退屈です。老人や上流階級の人にとっては平和が一番ですが若い人には退屈の限りです。当時の若者たちにとって倒幕運動は非常に魅力があったと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;長州戦争（1866年）&lt;font&gt;&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;それはともかく、徳川幕府が誰の目にもその凋落ぶりがはっきりしたのは長州戦争でした。この戦争は1864年と1866年の二回にわたって行われました。最初の戦いは天皇が長州藩を朝敵としましたから大義名分のあった幕府側に勢いがあり、すべての藩が幕府の命令のもとに動きました。長州藩は利あらずとみて三家老を切腹させるなどの条件で和平に持ち込みました。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
しかし、1866年の二回目は、将軍家茂が大阪城入りして陣頭指揮をとり、幕府は総力をあげて戦う姿勢を示しましたが、すでに薩長同盟が結ばれていて薩摩は参戦せず、ほかにも不参加の藩、参加してもまったく戦意のない藩もでてくる始末でした。戦況も幕府に不利で、北九州は逆に長州藩に占領される有様でした。&lt;br /&gt;
しかもこの最中に大阪城の家茂が死去するという事態に陥り、幕府側の実質リーダーだった一橋慶喜は朝廷に働きかけて休戦に持ち込み、何とか幕府の面子を保つのが精一杯でした。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
これで薩摩藩長州藩に「幕府を倒せる」という自信が生まれました。以後倒幕藩の動きが急に加速していきました。&lt;br /&gt;
家茂が死去したのは7月22日で、彼は後継者には田安家の徳川家達にするという遺言を残しました。しかし、家達はまだ4歳の幼児でした。そこで一橋慶喜が後継者になり、慶喜は家達を自分の嗣子にしました。ところが、慶喜は徳川宗家の相続はすぐに受け入れましたが、考えるところがあったらしく将軍就任は12月5日でした。&lt;font&gt;&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;明治天皇の即位（1867年1月30日）前後&lt;font&gt;&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;明けて1867年は激動の年でした。その前年の12月25日に孝明天皇が35歳で急死し、この年の1月30日に明治天皇が14歳の若さで即位しました。&lt;br /&gt;
孝明天皇の死去は幕府にとって大きな痛手でした。というのも成人である孝明天皇は天皇自身の考えがあり、幕府にとっては対応が難しい天皇でしたが、それは反幕府の薩摩長州にとっても同じでした。天皇はひたすら倒幕に進む薩摩長州にブレーキの役割を果たしていました。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
孝明天皇は一種の超然主義の考えの持ち主で、徳川（幕府）も島津（薩摩）も毛利（長州）もみな同じく天皇の忠実な臣下であるべきだという考えでした。それは臣下として朝廷に忠義を尽くせば幕府の存在も許容するということになります。こういう考えは天皇を将軍の対抗馬にして幕府を倒そうとする薩摩長州にとって具合の悪いことでした。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
もっとも孝明天皇のこういう考えは朝廷の上層部も同じでした。この時の朝廷も反幕府の大藩と同じように、上層部は摂政をはじめ高位の公家たちは親幕府側で、反幕府の公家は低位の公家か若い公家たちでした。そしてその中心が岩倉具視でした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかも、66年から67年前半にかけて、神戸開港をめぐって朝廷上層部ではしだいに幕府の立場に理解を示しつつありました。少々わき道にそれますが、この神戸開港問題について説明しておきます。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
この頃、京都の朝廷にとって最大の関心事は長州戦争ではなくて神戸開港問題でした。神戸開港は安政の通商条約で決まっていました。しかし、京都に近い神戸を開港することに朝廷は猛烈に反対しずっと開港できませんでした。イギリス・フランスなど列強は神戸開港を強く要求し、幕府は外国と朝廷の間に挟まって苦労していました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
長州藩は困っている幕府をさらに困らせようと尊皇攘夷を掲げ1864年に、英仏米蘭の4国を相手に下関戦争を起こしました。この時長州藩は外国艦隊の砲撃で相当な被害をうけましたが、この外国艦隊がその翌年に、今度はイギリス公使らを乗せて神戸港に姿を現しました。そして、公使らは神戸開港を要求し、必要なら京都御所に行って交渉すると幕府と朝廷に圧力をかけました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これには孝明天皇もショックでした。それで天皇と公家の上層部は開港もやむなしと考えはじめましたが、反幕府の若手公家や下層公家たちが強く反対してなかなかスムーズに行きませんでした。この反幕府の公家たちが反対し続けたのは、裏で薩摩の西郷隆盛と大久保利通が彼らを煽っていたからでした。西郷と大久保はこの神戸開港を最大の政治問題にしようとする作戦をとっていました。当時は皇太子であった明治天皇の外祖父も強烈な反幕府側でした。孝明天皇の立場も苦しいものがありました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうした中、孝明天皇は死去しますが、朝廷上層部の神戸開港は認めざるを得ないという考えは変わらず、一応は反対の態度を取り続けて、慶喜のたっての願いをやむなく聞き入れるという形で、翌67年の5月にようやく神戸開港を許可しました。これが神戸開港問題でした。&lt;br /&gt;
　この神戸開港問題が開港で一応結着すると、西郷と大久保は政局の争点とする他のテーマが見つからず苦しい立場に陥っていきます。それが政治的駆け引きだけで幕府を倒すことの難しさを痛感させ、やがて彼らを武力倒幕への道を走らせることになりました。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
（なお神戸開港はこの年の12月7日でした。この後すぐに鳥羽伏見の戦いがあって幕府は滅亡します。しかし、神戸港は順調に発展し現代に至っています。&lt;br /&gt;
神戸港が栄えたのはその地形の良さでした。神戸はたぶん日本最良の港です。近代の港町は広い陸地とともに、大型船が入るため陸から海に変わる所でストーンと深くなった地形の所が最適です。しかし、そういう地形の海岸は神戸のほかは横浜くらいしかありません。横浜といい神戸といい、誰が選んだのかはわかりませんが先見の明のある人がいたようです。）&lt;font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/titibu212000/35175403.html</link>
			<pubDate>Mon, 08 Aug 2011 06:25:05 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>御三卿について</title>
			<description>&lt;font size=&quot;6&quot;&gt;察々掌融紊僚焉&lt;font&gt;&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;4&quot;&gt;徳川幕府の滅亡（1）&lt;font&gt;&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;御三卿について&lt;font&gt;&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;幕末の幕府を見ると将軍家である徳川家が非常に複雑な人間関係になっているのがわかります。それは御三卿と呼ばれる将軍の親族たちが様々なところに出てくるからです。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
御三卿というのはよく知られているように8代将軍吉宗が作った制度です。江戸時代には将軍軍職継承の資格は徳川宗家に適任者がいなくなったら尾張紀州水戸の御三家にありました。しかし、吉宗の頃になると初代の家康からだいぶ時代が経っていることもあって、御三家から将軍を出すのは実際に難しくなっていました。それには御三家のひとつ紀州家から将軍になった自分の経験にあったようです。そこで、吉宗が御三家に代わって創設したのが御三卿です。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
この御三卿には吉宗の息子二人が田安家と清水家を立て、9代将軍家重の息子が一橋家を立てたのが始まりです。彼らは江戸城内に屋敷を与えられ、その屋敷近くの江戸城の門名をとって家の呼び名としました。したがって、田安とか清水というのは姓ではありません。正式の姓は徳川です。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
この御三卿は大名でしたが、非常に不思議な大名でした。一応10万石の大名でしたが、各地の幕府領を寄せ集めて領地とし、家臣も幕府からの出向者で編成されていました。そしてふつう大名家は藩ともいいますが、この御三卿は藩ではありませんでした。たぶん藩にすると将軍の家臣ということになり、将軍職の継承権を持つことが出来なくなるからのようです。そのためこの御三卿は将軍の親戚というより身内として扱われました。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
この御三卿は当主がいなくても家としては存続しました。ですから、当主は後継者がいないのに将軍になったり、どこかの藩の藩主になりました。この当主不在の状況を「明屋敷（あけやしき）」と言いました。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
この御三卿が猛威を振るうのは11代将軍家斉からでした。家斉自身が清水家の出でしたが、彼は長命で多くの息子たちを儲けたばかりでなく、きわめて自己中心の享楽主義者でした。そのため家斉の意を受けた家臣たちが、彼の息子や弟を次々と御三卿の当主にし、そこから各藩の養子に送りこみました。&lt;br /&gt;
そのうち主要な藩で見ると&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
尾張藩―9代で血筋が絶えると、10代藩主に一橋家から家斉の弟が就任。10代目が亡くなると11代には清水家、12代は田安家の出身者が就任。二人とも家斉の実子。&lt;br /&gt;
紀州家―11代には清水家から、12代藩主も清水家から藩主に就任。二人とも家斉の実子。13代の慶福は11代藩主の実子で将軍家茂となる。&lt;br /&gt;
越前松平家（家門筆頭）―13代は家斉実子。14代は田安家当主の実子の慶永。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
となります。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
唯一被害を受けなかったのは水戸徳川家でしたが、水戸家は水戸家で、藩主斉昭の実子慶喜を一橋家の養子にしました。養子に出したのは水戸家のままだと将軍継承権がなかったからです。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
こうなると将軍と大名、藩主と藩士の主従関係もドライになってしまいます。実際、尾張藩では次々と御三卿家から藩主が送り込まれるのに藩士たちが反発して、幕末になると幕府や藩主の意向を無視して藩の総意ということでさっさと新政府への帰属を決めてしまいました&lt;font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/titibu212000/35169306.html</link>
			<pubDate>Sun, 07 Aug 2011 06:25:22 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>ペリー来航（1853年）から桜田門外の変（1860年）まで</title>
			<description>&lt;font size=&quot;6&quot;&gt;察々掌融紊僚焉&lt;font&gt;&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
　&lt;font size=&quot;4&quot;&gt;徳川幕府の滅亡（1）&lt;font&gt;&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;ペリー来航（1853年）から桜田門外の変（1860年）まで&lt;font&gt;&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;幕末の徳川幕府を見ると、初期の家康秀忠家光の頃とは大きく変わってしまい、将軍は国を導く理想や情熱をすっかりなくしてしまいました。そして幕府全体に官僚主義的体質で覆われてしまっているのに気づきます。政治家でいうと、それをよく表しているのは幕末の幕府を指導した老中の阿部正弘の阿部家です。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
藩祖の定高は岩槻藩主で将軍家光の時の老中でした。定高は果断の人でした。当時は家光の地位も微妙で、幕府内には家光よりその弟の忠長につく人もいました。家光は忠長を前橋城に幽閉したものの将軍という立場上忠長に過酷な処置をするわけにもいかず、その扱いに内心苦慮していました。定高はこういう家光の胸中を察し、密かに家光の内諾を得ると、自ら兵を率いて前橋城に乗り込み、自身の判断ということで渋る城主に命じて忠長を切腹させてしまいました。そして、家光が亡くなると迷うことなく殉死しました。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
しかし、その200年後の正弘は定高とは対照的な政治家でした。正弘は定高のような決&lt;br /&gt;
断力は持ちあわせず、反対に周囲に気配りしながら慎重に物事を進める人でした。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
彼も有能な政治家でした。正弘は、水野忠邦が天保の改革で失敗し失脚した後、1843年に25歳の若さで老中筆頭の地位に就任しました。そして、以後1857年に急死するまで老中職にありました。なお、阿部家は岩槻から何度か転封し、正弘の時には備後福山（広島県）で10万石でした。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
老中としての正弘は、ペリーの来航と将軍家慶の死去というという二つの困難に遭遇し、しかもこの二つが同時に発生したため、非常に難しい対応に迫られました。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
1853年7月ペリーが来航した時、将軍家慶は死ぬ直前の病床にありました。そこで、正弘はペリーに将軍の裁定が得られないことを説明し、翌年に再来航するようにと伝えました。ペリーはそれを受け入れ、沖縄で半年過ごし、翌年2月に再び東京湾に姿を現しました。この時には将軍家慶はなくなっていて息子の家定が将軍でした。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
ところがこの家定という人は病弱でなおかつ精神的に廃人に近い人でした。そのため将軍の裁定を求めることが出来ませんでした。父の家慶も家定については早くから心配していましたが、家定以外の息子たちはみな幼くして亡くなり、やむなく家定を次期将軍に決めました。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
幕府の政治は、小さな案件は若年寄りが決裁し、大きな案件は老中が決裁し、大名の改易など重大な案件は将軍が裁定することになっていました。将軍が裁定する場合も、実際は老中が決めていて、それを将軍が言い渡すだけだったと思いますが、それでもふつうの人が将軍なら将軍親裁の形を整えることができます。しかし、家定が将軍ではそれもできません。結局は老中である正弘が判断するということになりました。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
ペリーへの回答は選択の余地はありませんでした。ペリーは徹底した砲艦外交でした。そのため重装備の軍艦でやってきました。この10年前にアジアの大国中国がアヘン戦争でイギリスに惨敗し、欧米の武力が圧倒的に強大なこと、そして彼らは目的のためなら平気で武力を行使することは幕府でもわかっていました。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
しかし、将軍裁定が得られない以上、正弘だけの判断で開国を受け入れることはできませんでした。そこで正弘は親藩外様の雄藩大名の意見を求め、彼らの了解を取るという前例のないやり方をしました。また、朝廷の意見も聞くことにしました。一種の挙国一致内閣でした。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
すると、将来を憂いてさまざまな学識を身につけ、しかしながら親藩外様ゆえに今までは政治の場から遠ざけられていた水戸の徳川斉昭や薩摩の島津斉彬などが、ようやく出番がきたとばかりあれこれ政論を展開しました。とくに斉昭は海防参与に任ぜられ、持論の尊攘論を展開しました。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
結局は鎖国をやめて開国するということに落ち着きましたが、このことがきっかけで親藩外様の有力大名が幕府の政治に介入することになり、幕府の政治は非常に複雑になってきました。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
一般的に、将軍の親戚と外様の大名は幕政に関与しないということは、徳川幕府に限らず武家社会の基本的ルールでした。とくに親戚を排除することは重要で、源頼朝も幕政は北条氏などの家臣たちにまかせ、同族の清和源氏は中身のない朝廷の高位高官に就任させて幕政から除外しました。室町幕府も足利一族を守護大名にしましたが、幕政からは一族を外しました。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
親戚は将軍を支える最も頼りになる存在ですが、また将軍の地位を不安定にする最大の要因です。ですから、将軍家に限らず大きな大名家でも親戚は藩政に関与しないことになっています。&lt;br /&gt;
また、外様大名を幕政に参加させないのも当然でした。というのも公家社会とちがって、武家社会は将軍を含めて大きな領地を持つ有力者の連合体です。ですから、大きな武力を持つ外部の人間（外様大名）を政治に参加させると将軍の立場が危うくなってしまいます。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
ところが開国問題で親藩外様大名の意見を聞いたことで、幕府の仕組みが壊れてしまいました。また、幕末になると徳川将軍家の親戚である御三卿がさまざまなところに顔をだして将軍の権威を失墜させ、幕府全体が混乱してしまいました。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
開国問題で親藩外様大名が幕政に関与するようになると、幕府内は、これまで幕政を担ってきた譜代大名のグループと親藩外様大名グループに分かれ、両者は対立することになりました。　&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
両者の対立は家定が将軍に就任すると同時に始まりました。それは将軍継嗣問題でした。江戸時代には将軍は将軍になるとすぐに次の将軍の就任予定者を決めるのがふつうです。これは将軍最大の専管事項でした。現代でも、日本を代表する某大企業の社長が、うちくらいの会社になると社長の仕事は次期社長を決めることだけ、と言っていましたが、江戸時代の将軍も同じでした。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
しかし、将軍家定にはこの仕事は無理でした。無理でしたが家定は病気勝ちでしたから、次期将軍予定者は早急に決める必要がありました。譜代グループは紀州徳川家の徳川慶福（後の将軍家茂）を推し、親藩外様グループは御三卿の一橋慶喜を推しました。&lt;br /&gt;
このあたりの事情ははっきりしません。一橋慶喜は水戸の斉昭の実子で、前将軍の家慶も一時は自分の後継者にしようかと考えたことがありました。ですから、たぶん斉昭は早くからいずれ慶喜を将軍にしようと考えて一橋家の養子にし、家慶在任中から慶喜のことを働きかけていたようです。これに譜代グループが強く反発し家茂を担いだのだと思います。そして、こういう譜代グループを快く思わない親藩外様があえて慶喜を推したようです。ですからこれは幕府内の派閥抗争でした。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
（幕末の水戸家は徳川一族の中でも異質でした。といのもこの時には、将軍も尾張家も紀州家も家門筆頭の越前松平家もみな御三卿の出身でした。200年以上も前に分家した徳川氏の血筋がそのまま続いていたのは水戸家だけでした。したがって譜代グループが将軍により近い血筋である紀州家の慶福を支持したのは当然でした。）&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
この状況に老中筆頭の阿波正弘はなす術もありませんでした。元々がバランス重視の調停型の政治家でしたから、こういう妥協の余地がない問題には対応のしようがありません。その上、この時にはアメリカ公使のハリスから通商条約の締結を求められていました。ハリスはハリスでぼやぼやしていると外交の主導権をイギリスに取られてしまうという心配があり、幕府に日米の条約締結を急いでいました。そして、ここでも譜代グループと親藩外様のグループの対立がありました。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
この対立は、今の国会の与党と野党の対立とまったく同じでした。譜代大名グループが現実に即した政策論を述べるのに対し、親藩譜代大名たちは原理原則の理想論をぶつけるという展開でした。とくに原理主義尊攘論ともいうべき水戸学を家学にする水戸の斉昭は強硬に反対しました。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
正弘としては条約締結はやむを得ないと考えていたようですが、親藩外様グループの顔を立てる必要もあります。そこで彼は自分は筆頭老中の地位から降り、親藩外様グループから受けのよい下総佐倉藩主の堀田正睦を筆頭老中にし、条約締結を進めようと考えました。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
筆頭に就任した正睦は条約締結に京都の朝廷の承認を得、朝廷の権威でこの問題を解決しようとし、京都に上京しました。しかし、時の天皇孝明天皇は強い外国嫌いで条約を承認しませんでした。しかも、この京都滞在中に江戸の幕府内では譜代グループが井伊直弼リーダーに担ぎ、直弼が大老に就任しました。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
正睦は江戸にもどると老中職を罷免され井伊直弼による独裁政治がはじまります。直弼は1858年に家定が死去すると家茂を将軍にし、懸案の通商条約を締結します。そして譜代グループと親藩外様グループの対立に結着をつけるため親藩外様グループの弾圧を始めました。これが有名な安政の大獄です。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
直弼としては、親藩外様は幕政から除外し、将軍を頂点としその下で譜代大名と旗本御家人が幕府の政治を行うという、家康が決めた祖法に戻すだけのことでしたから迷いはありませんでした。徹底的に強硬政治を進めました。しかし、この政治も1860年、桜田門外の変で水戸藩士を中心とするテログループに直弼が暗殺されることで終わってしまいました。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
井伊直弼は譜代大名グループのリーダーでしたから、このテロは実に効果的でした。これを機に、譜代大名グループは急速に政治的情熱を失っていきます。&lt;br /&gt;
譜代大名たちは国家の将来を考える政治家であることをやめ、譜代大名として家（いえ）に与えられた任務だけを遂行すればよいとする官僚になっていきました&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
徳川幕府の最後は実にあっけないものでした。それは滅亡というよりは消滅といった方がよいくらいでした。しかし、こういう結末になったのは様々な理由がありますが、何よりも幕府を支える中核であった譜代大名の気持ちが幕府からすっかり離れてしまったことが大きかったように思います。&lt;font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/titibu212000/35169299.html</link>
			<pubDate>Sun, 07 Aug 2011 06:22:05 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>幕末の東京湾防衛（2）</title>
			<description>&lt;font size=&quot;6&quot;&gt;察々掌融紊僚焉&lt;font&gt;&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;font&gt;幕末の東京湾警備（2）&lt;font&gt;&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;font&gt;ペリー来航（1853年）&lt;font&gt;&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;こうして日本側が東京湾の警備を固める中、1653年7月アメリカのペリーが4隻の軍艦を率いて日本にやってきました。このことは、その前年にオランダから幕府に知らされていました。しかし、オランダの誤報かもしれないと疑ったのと、ではどうすればよいのかとなると良い案もないので結局なにもしないでペリーを迎えることになってしまいました。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
東京湾にやって来たペリー艦隊に、浦賀奉行は、日本の外交部署は長崎だから長崎に行くように求めましたがペリーはこれを拒否しました。そして日本警備船の停船命令を無視し、幕府が東京湾警備の重要線としていた観音崎―富津の線を越えて浦賀沖に停泊しました。これに対し川越忍会津彦根の4藩は国許からも人員を派遣して、陸と海で大規模な警戒態勢を組んでペリーを威圧しましたが効果はなく、とうとうペリーは久里浜（横須賀市）に上陸し、浦賀奉行に大統領の親書を渡し国交を要求しました。これに対し、幕府は将軍家慶の病気を伝えて返事を翌年に延ばすのが精一杯でした。そして、翌年の2月、沖縄に停泊していたペリーは今度は9隻の軍艦を率いて再び浦賀沖にやってきました。とうとう幕府は長年の鎖国をやめて国交を結ばざるをえませんでした。&lt;font&gt;&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;御台場&lt;font&gt;&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;とはいえペリーの再来航までの半年、幕府は何もしなかったわけではありません。それどころか、大急ぎで品川沖に人工島を作り砲台を設置しました。これが御台場です。この御台場はペリーの再来航には間にあいませんでしたが、一部出来上がっていてそれなりの効果はありました。ペリーはたぶん浦賀沖ではなく江戸城近くの築地沖あたりに停泊する予定でした。しかし、御台場を見て浦賀沖に停泊せざるをえなかったようです。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
かくして幕府は鎖国をやめて開国することにしましたが、その後も東京湾警備に力を注ぎました。それははっきりと江戸防衛を目的にしたもので、そのために品川沖の御台場の工事を急ぎました。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
台場は最初に3基作りました。そして、1番台場は川越藩、2番台場は会津藩、3番台場は忍藩の担当でした。すると今まで川越藩と忍藩が警備していた区域が空白になります。そこで、川越藩の警備域は熊本藩、忍藩の警備域は岡山藩が担当することになりました。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
この台場は本格的な要塞でした。最大の台場は忍藩担当の三番台場で、この台場は周囲を高さ10メートルの石垣で囲み、面積は9千坪もありました。しかも台場は射撃範囲を広げるため正五角形に作られました。それから、この台場をジグザグに7基並べ死角がないように配置しました。&lt;br /&gt;
それぞれの台場には20～30門の大砲を設置し、大砲もモリソン号事件の時とは比べ物にならない本格的な西洋式の大砲でした。この大砲製造は洋式砲術に詳しい韮山代官の江川英龍が指導しました。後には当時日本でもっとも武器製造が進んでいた佐賀藩製造の大砲も加わりました。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
最大の大砲は80ポンド砲でした。ペリー艦隊の主砲も薩英戦争のイギリス艦の主砲も40ポンド砲で射程距離は4キロしかありませんでした。性能の違いがありますから一概に言えませんが、海上に設置した御台場の大砲は外国軍艦が江戸を砲撃するのを阻止する能力は十分にもっていました。&lt;br /&gt;
御台場の大砲は実戦に使われることはありませんでした。そして、その後東京湾の埋め立てで今では跡形もなくなって、地名だけが残っています。しかし、江戸時代が終わる1868年頃の様子を見ると十分世界的レベルに到達していました。&lt;font&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;なかなか変わらないが変わると速い日本の歴史&lt;font&gt;&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;東京湾警備の推移を見ると、日本の軍事力が短期間のうちに急速に向上していったのがわかります。1837年にモリソン号が来た時には戦国時代そのままの古めかしい装備でしたが、江戸時代が終わる1868年頃の御台場の様子を見ると格段に進歩していました。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
これは陸軍についてもあてはまります。アメリカの南北戦争で余った武器が大量に日本に流入してきましたから、この時の幕府と薩摩長州の精鋭部隊を合わせた日本の陸軍力は相当に充実していました。海軍はともかく陸軍だけ見ると、ドイツやフランスに及ばないとしてもイギリスに近いレベルに達していたのではないかという気がします。　&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
明治政府は最初から外国から武力侵攻を受ける心配をまったくしていません。それどころか明治3年頃には、早くも征韓論で朝鮮半島進出を論議しています。それは江戸時代が終わる頃には日本にはすでに十分な軍事力があったからでした。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
これに似た状況は戦国時代末期にもありました。1543年に鉄砲が入ってくるとたちまち大量生産し飛躍的に軍事力が高まります。秀吉の頃を見ると、日本はたぶん世界でもトップクラスの鉄砲保有国でした。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
日本の歴史を見ると、日本の社会はなかなか変わりませんが、一旦エンジンに火がつくとものすごいスピードで変化していくのに気づきます。例えば7世紀頃までの日本はほとんど原始人の社会のようでしたが、大化の改新がはじまると50年くらいで世界レベルの文明社会に到達します。幕末から明治にかけての日本も、それから太平洋戦争後の日本も同じで、日本は停滞する時間が長いのですが、変化するのも速いという不思議な国です。&lt;font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/titibu212000/35165726.html</link>
			<pubDate>Sat, 06 Aug 2011 16:09:38 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>幕末の東京湾防衛（1）</title>
			<description>&lt;font size=&quot;6&quot;&gt;察々掌融紊僚焉&lt;font&gt;&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;4&quot;&gt;幕末の東京湾警備（1）&lt;font&gt;&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;フェートン号事件（1808年）&lt;font&gt;&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;幕末に忍藩と川越藩が務めた東京湾警備についてまとめて見ておきます。&lt;br /&gt;
徳川幕府の対外政策はいうまでもなく鎖国でした。しかし、19世紀になると、欧米列強の東アジア活動が活発になり、日本近海にも外国船が出没するようになりました。そこで、幕府が最初に決めた対応策は、日本に来た外国船には、日本の政策が鎖国であることを説明し、人道的見地から食料や燃料を補給はするもののおとなしく立ち去ってもらうという穏健なものでした。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
ところが、その後幕府を揺るがす大きな事件が長崎で起きました。それは1808年のフェートン号事件でした。イギリスの軍艦フェートン号が長崎の出島にやって来て、オランダ人を捕まえたばかりでなく、長崎奉行に食料と燃料を要求し、応じなければ日本船を攻撃すると脅迫したのです。当時、ヨーロッパではナポレオン戦争の最中で、イギリスはフランス側についたオランダと戦争中でした。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
これに対し警備兵をほとんど置かなかった日本側はやむなく要求をのまざるをえなく、そのため長崎奉行は責任をとって切腹しました。&lt;br /&gt;
この事件が幕府に与えた衝撃は大きく、幕府は急ぎ東京湾の警備を固めることにしました。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
幕府は1810年に神奈川沿岸を会津藩、千葉沿岸を白河藩に警備することを命じました。そして1816年には伊豆の下田に奉行所を設けました。それは東京湾に来る外国船は下田沖を通るからここで洋上監視し、発見しだい警備の2藩に通報する体制にしたのです。&lt;font&gt;&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;サラセン号事件（1822年）&lt;font&gt;&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;その後幕府は警備体制をさらに強化しました。1820年に下田の奉行所を浦賀（神奈川県横須賀）に移して浦賀奉行として東京湾警備の責任者に任じました。そして、それまで相模沿岸の警備をしていた会津藩の任を解き、代わりに東京湾に近い小田原藩と川越藩に浦賀奉行を応援させることにしました。これが川越藩の東京湾警備の始まりでした。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
そこで、川越藩では浦賀近くに常駐部隊を置き、非常時にはさらに川越から増援部隊が駆けつけることにしました。しかし、任務遂行には荷物を運ぶ人足や馬、さらにはたくさんの船を確保する必要があります。そのため、幕府は武蔵の川越領の一部と神奈川沿岸の領地を交換しました。こうして浦賀奉行を中心に、東京湾の千葉側は白河藩、神奈川側は川越藩と小田原藩が警備する体制ができました。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
この警備の主役は川越藩でした。1822年にイギリスの捕鯨船サラセン号が浦賀沖にやって来た時には、川越藩は川越からの増援部隊を含め、武士464人、人足125人、水主（船乗り）369人、船80艘を出動させました。これに対し、白河藩の兵士は277人、小田原藩は299人でした。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
とはいえ一隻の外国船がやって来ただけでこの警戒ぶりですから、当時の幕府が外国船にいかに神経質になっていたかがわかります。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
（その後も外国船がやって来ますが、みな神奈川県側でした。奉行所も初めから浦賀にありました。その理由はわかりませんが、たぶん東京湾の海流か風の関係で船は神奈川沖に来やすいのかもしれません。）&lt;font&gt;&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;モリソン号事件（1837年）&lt;font&gt;&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;そして、一応警備体制が整うと、1825年に幕府は異国船打ち払い令を出し、日本に来た外国船は武力で追い払うという強硬策に転じました。&lt;br /&gt;
しかし、この異国船打ち払い令は、東京湾については外国船を発見したらかまわず攻撃するというものではありませんでした。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
この時の外国船対応は2段構えになっていました。まず、東京湾と外海との境になる城ヶ島（神奈川）―州崎（千葉）のラインに外国船が近づけば使者を送って立ち去るように説得します。次に、説得にもかかわらず東京湾に入ってきた外国船が、観音崎（神奈川）―富津（千葉）のラインを突破すれば砲撃して沈没させるというものでした。東京湾では三浦半島が千葉県側に延びていて、ここがもっとも狭くなります。ですから三浦半島突端の観音崎と千葉県側の富津で外国船の侵入を阻止するというのは極めて自然な考えでした。&lt;br /&gt;
この異国船打ち払い令が実際に発動されたのが1837年のモリソン号事件でした。そして、この事件を機に幕府は再び穏健姿勢にもどることにしました。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
モリソン号事件は、アメリカの商船モリソン号が日本との通商を求め、日本の漂流民を乗せて東京湾にやってきた事件です。この時モリソン号は敵意がないことを示すためと、それからたぶん日本側の武器が貧弱なのを見越していたらしく大砲は積んでいませんでした。&lt;br /&gt;
このモリソン号に対し、浦賀奉行は規定通り川越小田原の2藩に砲撃を命じました。ところがモリソン号が予想した通り、日本の砲撃はまったく効果がありませんでした。砲弾が届かないのではなく、届くのですが外れるだけでなく、火縄銃を大きくしただけの大砲からヨロヨロ飛んでいく砲弾は命中してもモリソン号はびくともしないのです。&lt;br /&gt;
この時はモリソン号はあわてて東京湾から去りましたが、翌年オランダからモリソン号の意図が伝えられました。また幕府は日本側の武器の貧弱さを思い知らされました。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
そして1840年に中国でアヘン戦争が起こり、アジアの大国中国が惨敗したことがオランダから知らされました。驚愕した幕府は異国船打ち払い令の危険を悟り、1842年、薪水給与令を出し、再び穏健策に転じることにしました。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
しかし、硬軟いずれにしても東京湾の警備は必要ですから、幕府はさらに強化することにしました。浦賀奉行を中心に川越小田原藩が応援するという今までのやり方を変えました。浦賀奉行は外国船との交渉を専門にすることにし、東京湾の警備は忍藩と川越藩の任務としました。相模側は川越藩が、房総側は忍藩が藩主自ら先頭にたって藩の責任で警備するというようにしました。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
（この川越藩と忍藩の東京湾警備は1863年まで続きました。そのため両藩は多くの藩士をここに常駐させるだけでなく、外国船来航時には川越と忍から応援の兵士と荷物運びの人足を送ることになりました。その費用は莫大な額にのぼり、幕府からの拝借金もありましたが、大体は藩の自腹でした。そのため両藩とも藩領の村々に多額の上納金を課しましたから領民の負担も大変なものがありました。）&lt;font&gt;&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;ビッドル号事件（1846年）&lt;font&gt;&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;こうして幕府は強硬策と穏便策を繰り返しましたが、東京湾の警備をさらに強化させなくてはならないと痛感する事件が起きました。それは1846年のビッドル号事件でした。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
これはアメリカの軍艦ビッドル号とその僚船がアメリカ政府の指示で国交を求めて来航した事件でした。この時はモリソン号の時以上に悲惨でした。&lt;br /&gt;
ビッドル号は日本側の説得にもかかわらず東京湾に深く入ってきました。それに対し、川越忍藩では領内から徴発した漁師の船や荷物運搬船に分乗してビッドル号を囲みました。幕府は2藩だけでは足りないと見て沿岸に領地を持つ藩を動員し、さらには熊本藩など大藩も出動させました。そのため何百艘もの船がビッドル号を囲む事態になりました。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
ところが日本側はビッドル号を取り囲むだけで、それ以上のことは何もできないのです。旧式の鉄砲と槍を持って貧弱な小船に乗り込んだ日本兵は船の周囲を取り囲むだけで、その様子はちょうどガリバー旅行記の小人の国の兵隊のようでした。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
幸いにもビッドル号は武力を行使することもなく、また日本側の鎖国政策を聞くとおとなしく帰っていきました。（ただ、この時のビッドル号の対応はアメリカ本国で問題になり、その後ペリーが日本に砲艦外交で強硬に開国を迫ることになりました。）&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
このビッドル号事件を機に、翌1847年に幕府は東京湾警備の方法を大きく変更しました。それは、外国船を東京湾入り口の浦賀水道で阻止するのは難しいという川越藩の提案を受け、警備のラインを湾のずっと奥の品川沖に後退させ、江戸防衛に重点を置くことにしたのです。そして、川越忍の2藩に加え、彦根藩と会津藩にも東京湾警備をさせることにしました。彦根藩は神奈川県側、会津藩は千葉県側でした。また、従来の浦賀方面は新たに長州藩が代わって警備することにしました。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
それから海上警備の要は大砲でしたから、その性能向上にも力を入れました。最初は大砲というより火縄銃を大きくしただけの大筒でしたが、外国の文献を参考に見よう見まねでだんだん大砲らしいものも作れるようになりました。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
（ただ、実戦で威力を発揮する大砲ができたのはペリーの来航後でした。砲弾を遠くに飛ばすには頑丈な砲身が必要ですがその技術がありませんでした。また、砲撃には砲弾に火薬を入れて着弾と同時に爆発する榴弾が効果的ですが、そのためには信管が必要で、この製造技術もありませんでした。そのため性能が向上したといっても大きく見ればたかが知れていました。ペリー来航の頃、日本側の大砲を見学した砲術の専門家佐久間象山はこれは使い物にならないと断言していました。）&lt;font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/titibu212000/35163270.html</link>
			<pubDate>Sat, 06 Aug 2011 06:25:36 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>幕末の川越藩</title>
			<description>&lt;font size=&quot;6&quot;&gt;察々掌融紊僚焉&lt;font&gt;&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;4&quot;&gt;旗本と武蔵3藩（3）&lt;font&gt;&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;川越藩&lt;font&gt;&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;幕末に幕府側の藩として最も苦労したのは会津藩でしたが、その次に苦労したのはたぶん川越藩でした。川越藩は戊辰戦争に参加しなかったので、幕末維新の歴史で注目されることはありませんが、東京湾警備の主役を担うことになり、その負担は非常に大きいものがありました。&lt;br /&gt;
幕末の川越藩では国替えがありました。それまで藩主は越前松平氏の分家でしたが、幕府滅亡直前の1867年に前橋に転封になり、代わって奥州棚倉藩の松井松平氏が川越に入り明治維新を迎えました。そこで、ここでは別々に見てみます。&lt;font&gt;&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;越前松平家&lt;font&gt;&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;この越前松平氏は江戸時代の大名中もっとも転封を繰り返した大名で「引越し大名」の異名を取っていました。ちなみに、その変遷を見ると&lt;br /&gt;
越前勝山（1624年）→越前大野→山形→姫路→越後村上→豊後日田→山形→白河→姫路→前橋→川越(1767年)と約150年の間に11回も移っています。&lt;br /&gt;
この松平氏が姫路から前橋に移った時には前橋領が本領で川越領は分領でした。川越領は元々5～6万石しかなく、周囲を旗本領と幕府領に囲まれています。そのため歴代の川越藩は遠国に別に領地を持って10万石以上になっていました。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
ところが1767年に前橋城が利根川の洪水で破壊され、藩主はやむなく川越城に移り川越藩になりました。以後100年間川越藩として続きました・&lt;br /&gt;
松平氏は15万石の大藩でしたが頻繁に転封を繰り返したため川越に来る前から財政は逼迫していました。1828年には借金が24万両にもなり、その利息と新規の借金で毎年４万両ずつ増える状態でした。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
姫路時代には年貢率が表高の4.5割で手取り9万５千石の収入がありました。しかし、川越では年貢率2.5割で収入は４万８千石でした。そこで藩主斉典の時、倹約などのふつうの手段では財政の回復は無理と考え、さらなる転封を企画しました。それは自分が出羽庄内（山形）に移り、庄内藩は越後長岡に移り、長岡藩が川越に来るという三方領地替えでした。そのため、斉典は実子がいるにもかかわらず将軍家斉の息子を養子に迎えました。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
この工作は順調に進み転封の内示まで受けました。藩では祝杯をあげ引っ越しの準備を始めましたが、庄内領民が猛烈な反対運動を起こし、そのうち家斉も死去してこの転封は頓挫してしまいました。その代償として2万石加増を受け17万石になりましたが、財政は一向に好転しませんでした。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
この斉典という人はなかなかの名君でした。そこで、自力回復しかないと考えさまざまな改革を行いました。今の川越観光の目玉の本丸御殿を作ったのもこの人でした。しかし、この斉典の時、川越藩は東京湾警備を命じられ、以後この任務に膨大な労力を注ぐことになりました。この東京湾警備については、この後説明します。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
越前松平氏の川越藩最後の藩主は直克という人でした。彼は一橋慶喜の盟友で1863年に政事総裁職（大老のような役職）という幕府の要職に就任しますが、幕府内の対立のため1年で辞任しました。幕府滅亡時には幕閣から離れていましたから、幸運といえば幸運でした。&lt;br /&gt;
越前松平氏は東京湾警備をしながらも旧城の前橋城の修復工事を進めていて、1867年に前橋城が完成すると前橋に移っていきました。&lt;font&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;松井松平氏&lt;font&gt;&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;前橋に移った越前松平氏に代わって川越に入ったのが奥州棚倉藩の松井松平氏でした。この時の藩主は康英という人で、川越藩としての石高は8万石でした。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
この康英は5000石の旗本出身でした。しかし、相当能力が高かったようで幕府の要職を歴任し、その後本家の棚倉藩松井松平氏の養子になり1864年に藩主になりました。この人については写真が残っていますが、知的で颯爽とした感じの人です。いかにも能吏という気がします。&lt;br /&gt;
康英は棚倉藩主になった64年に老中に就任しています。そして川越藩主になった67年には老中のまま会計総裁を兼務することになりました。ですから彼は幕府の中枢的人物でした。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
しかし、68年1月3.日4日に鳥羽伏見の戦いが起こり、敗北した慶喜は江戸にもどってきました。同7日には慶喜は朝敵とされ、諸藩の大名には新政府に帰属すべく急ぎ京都に上京するように布告を出していました。そして、川越藩について言うと、藩主が幕府の要職にあったため27日には近江にあった領地2万石が没収されてしまいました。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
そこで、2月2日に慶喜が朝廷に恭順を決めたのを機に、康英は幕府に見切りをつけました。5日には老中職を辞任しました。次いで、家老を幕府討伐軍に派遣し、朝廷帰順を申し出て近江領の返還を求めました。この時は却下されましたが、3月6日には康英自らが静岡の討伐軍本部に出頭し、京都上京を願い出ています。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
しかし、討伐軍としても康英を簡単には認めることは出来なかったようで、名古屋で待機するよう命じました。そして、4月2日には康英の上京が認められて、新政府に帰順することができました。&lt;br /&gt;
この間、川越藩は農民一揆の鎮圧を命じられたり、討伐軍の荷駄の運搬や食料提供を命じられましたが、忍藩に比べると対応ははるかに上手でした。このあたりに藩主康英の政治家としての資質の高さが見られます。&lt;font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/titibu212000/35158149.html</link>
			<pubDate>Fri, 05 Aug 2011 07:49:16 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
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