吉川和夫ブログ美術庵=諸国放浪記

キッカワ・カズオは、本物の画工を目指して孤軍奮闘しています。

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2016年09月01日発表の人物画
 
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江戸時代の蘭学医”杉田玄白像 ”を描きました。
(2015年 パステル/水彩 画用紙 6号F)
 
 
杉田 玄白(享保18年9月13日(1733年10月20日)〜 文化14年4月17日(1817年6月1日))は、江戸時代の蘭学医。若狭国小浜藩医。 杉田氏は近江源氏である佐々木氏の支族である真野氏の家系。後北条氏に仕えた真野信安のときに間宮姓に改め、子の長安の代に復姓。医家としては、玄白で3代目にあたる。同時代に活躍し、間宮海峡にその名を残す探検家である間宮林蔵は同族である。
 

江戸、牛込の小浜藩酒井家の下屋敷に生まれるが、生母は出産の際に死去している。下屋敷で育ち、元文5年(1740年)には一家で小浜へ移り、父の玄甫が江戸詰めを命じられる延享2年(1745年)まで過ごす。
宝暦2年(1752年)に小浜藩医となり、上屋敷に勤める。宝暦7年(1757年)には江戸、日本橋に開業し、町医者となる。同年7月には、江戸で本草学者の田村元雄や平賀源内らが物産会を主催。出展者には中川淳庵の名も見られ、蘭学者グループの交友はこの頃にははじまっていたと思われる。宝暦4年(1754年)には
京都で山脇東洋が、処刑された罪人の腑分け(人体解剖)を実施している。
国内初の人体解剖は蘭書の正確性を証明し、日本の医学界に波紋を広げるとともに、玄白が五臓六腑説への疑問を抱くきっかけとなる。
 
明和2年(1765年)には藩の奥医師となる。
同年、オランダ商館長やオランダ通詞らの一行が江戸へ参府した際、玄白は源内らと一行の滞在する長崎屋を訪問。通詞の西善三郎からオランダ語学習の困難さを諭され、玄白はオランダ語習得を断念している。
明和6年(1769年)には父の玄甫が死去。家督と侍医の職を継ぎ、新大橋の中屋敷へ詰める。
 
明和8年(1771年)、自身の回想録である『蘭学事始』によれば、中川淳庵がオランダ商館院から借りたオランダ語医学書『ターヘル・アナトミア』をもって玄白のもとを訪れる。玄白はオランダ語の本文は読めなかったものの、図版の精密な解剖図に驚き、藩に相談してこれを購入する。偶然にも長崎から同じ医学書を持ち帰った前野良沢や、中川淳庵らとともに「千寿骨ヶ原」(現東京都荒川区南千住小塚原刑場跡)で死体の腑分けを実見し、解剖図の正確さに感嘆する。玄白、良沢、淳庵らは『ターヘル・アナトミア』を和訳し、安永3年(1774年)に『解体新書』として刊行するに至る。
 
晩年には回想録として『蘭学事始』を執筆し、後に福沢諭吉により公刊される。文化2年(1805年)には、11代将軍徳川家斉に拝謁し、良薬を献上している。
文化4年(1807年)に家督を子の伯元に譲り隠居。著書に『形影夜話』ほか多数。
 

解体新書(国立科学博物館蔵)
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