吉川和夫ブログ美術庵=諸国放浪記

キッカワ・カズオは、本物の画工を目指して孤軍奮闘しています。

全体表示

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

広島の原爆ドーム

イメージ 2

私が描いた広島原爆ドーム↑

原爆ドーム(: Atomic Bomb Dome)の名で知られる広島平和記念碑: Hiroshima Peace Memorial)は、日本の広島市に投下された原子爆弾の悲惨さを今に伝える記念碑被爆建造物)である。もともとは広島県のさまざまな物産を展示するため[1]広島県物産陳列館として開館され、原爆投下当時は広島県産業奨励館と呼ばれていた。ユネスコ世界遺産文化遺産)に登録されており、「二度と同じような悲劇が起こらないように」との戒めや願いをこめて、特に負の世界遺産[注 1]と呼ばれている。


原爆ドームの被爆時の状況

1945年昭和20年)8月6日午前8時15分17秒(日本時間)、アメリカ軍B-29爆撃機「エノラ・ゲイ」が、建物の西隣に位置する相生橋を投下目標として原子爆弾リトルボーイ」を投下した。投下43秒後、爆弾は建物の東150メートル・上空約600メートルの地点(現・島外科内科付近)で炸裂した。

原爆炸裂後、建物は0.2秒で通常の日光による照射エネルギーの数千倍という熱線に包まれ、地表温度は3,000℃に達した。0.8秒後には、前面に衝撃波を伴う秒速440メートル以上の爆風(参考として、気温30℃時の音速は秒速349メートルである)が襲い、350万パスカルという爆風圧(1平方メートルあたりの加重35トン)にさらされた。このため建物は、原爆炸裂後1秒以内に3階建ての本体部分がほぼ全壊したが、中央のドーム部分だけは全壊を免れ、枠組みと外壁を中心に残存した。

〜〜〜〜〜〜〜〜
私が描いた被爆直後の「広島県産業奨励館」=原爆ドーム ↓
イメージ 1



広島市への原爆投下


広島市への原子爆弾投下第二次世界大戦太平洋戦争)末期の1945年昭和20年)8月6日午前8時15分、アメリカ軍が日本の広島市に対して世界で初めて核兵器リトルボーイ」を実戦使用した出来事である。これは、人類史上初の都市に対する核攻撃である。この核攻撃により当時の広島市の人口35万人(推定)のうち9万 - 16万6千人が被爆から2 - 4か月以内に死亡したとされる[2]
原爆投下後の入所被爆者も含め56万人が被爆したとされる[3]

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

原子爆弾は、アメリカ合衆国のユダヤ人科学者を中心とした連中によって製造された。そしてトルーマン大統領の命令で、昭和天皇を生き神様とする皇国日本の広島市に投下された。 

私が描いた原爆投下の絵です。↓
イメージ 1


8月の吉川和夫美術展=植物画では、
北海道の「ハマナスの花」です。
イメージ 1

( 画用紙 水彩/パステル 6号 330x410mm )


「ハナマスの花」
 ハマナスは、北海道110年を記念して一般公募を行い、 「純朴、野性的で力強い」「花の色が鮮明で、葉も美しい」「生命力が強く育てやすい」など、 北海道にふさわしい花という多くの意見により、昭和53年7月26日に指定されました。

•名称 ハマナス(バラ科)
•学名 Rosa rugosa Thunb
•英名 Japanese Rose
•形態 海岸の砂地に自生する落葉樹で耐寒性が強く、観賞用としても栽培されます。
 高さ1〜1.5メートル、枝にはとげが密生しています。葉は厚ぼったく毛があり、だ円形でツヤがあります。 花は普通淡紅色で径6〜10センチメートル、6〜7月ころ枝先に1〜3個咲き芳香があります。 果実は平たい球形で赤く熟し光沢があります。
 また、果実は熟すと食べられ、花からは良質の香水がとれます。

イメージ 2
  

8月の吉川和夫美術展〜人物画は、
英国人のサムライ「ウィリアム・アダムス像」を描く。
ウイリアム・アダムスは、昔、徳川家康に仕えた人物で、日本人名:三浦按針として、知られています。

イメージ 1
( 水彩/パステル 画用紙 6号 )

ウィリアム・アダムス( 三浦按針)
三浦按針(William Adams, 1564年9月24日 - 1620年5月16日(元和6年4月24日))は、 安土桃山・江戸初期,日本に来た最初のイギリス人で,徳川家康の政治顧問。

本名ウイリアム・アダムズ(William Adams)。 ケント州ジリンガムに生まれ,造船所の徒弟を経て海軍に入る。 1598年オランダのロッテルダム会社の東洋派遣艦隊のリーフデ号の航海士としてオランダ最初の太平洋回りアジア渡航に参加, 慶長5(1600)年に豊後(大分県)の臼杵に近い佐志生に漂着,大坂に送られて徳川家康と会見する。

同船のオランダ人ヤン・ヨーステンと共に家康に信頼され,相模国三浦郡逸見村(横須賀市)で200石と江戸日本橋に邸宅を与えられた。 日本名を名乗り家康の外交顧問を務めるとともに幾何学,地理学,造船技術など西洋諸学を教えた。 その建造した2隻のヨーロッパ式帆船のうち1隻は上総(千葉県)に漂着した フィリピンの前総督ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・ベラスコがメキシコに帰るときに使用され太平洋を往復した。

慶長16(1611)年に彼がジャワ在留のイギリス人あてに書いた日本事情を知らせる手紙は,当時,ジャワのバンタムに商館をおいていた イギリス東インド会社を刺激し,同18年,ジョン・セーリスが国王ジェームズ1世の国書を持って平戸へ来航する機縁となった。 アダムズは駿府でセーリスを家康に会わせ,貿易許可の朱印状と平戸に商館を置くことを認めさせた。 アダムズ自身,イギリス東インド会社と契約を結んで俸給を得た。

彼はセーリスの帰国の際,日本を離れる許可を得たが,結局そのままとどまった。 日本人の妻とのあいだに2子がある。自ら朱印船貿易家としても活躍し,シャム,アンナン,トンキンに渡航もしている。 徳川秀忠の代になると幕府との関係が薄れ,平戸で病没した。 
 夫婦を祭った按針塚が領地の横須賀市に現存する。『大日本史料』12の33(元和6年4月24日条)に三浦按針についての史料が網羅されている。  




次の写真は、横須賀市にある三浦按針夫妻の供養塔です。

イメージ 2

横須賀

神奈川県横須賀市逸見には三浦按針の領地があった。同地(横須賀市西逸見)にある濤江山浄土寺が三浦按針の菩提寺となっており、按針が東南アジアからもたらしたという唄多羅葉や、念持仏が納められている。

横須賀市西逸見町の「塚山公園」には、按針夫妻の慰霊のために作られた2基の供養塔(宝筺印塔)があり、「安針塚(按針塚)」「三浦按針墓」と呼ばれる。江戸時代、三浦按針は遺言によって、江戸城を遠く望む逸見の地に葬られたと伝えられるようになった。また、江戸時代後期には浄土寺や日本橋按針町の人々によって、按針の法要が行われた。

8月の吉川和夫美術展〜風景を描くでは、
ベトナム国の世界遺産であるハロン湾を描きました。

イメージ 1

(水彩/パステル 6号画用紙)


ハロン湾(ハロンわん、ベトナム語: Vịnh Hạ Long / 泳下龍)は、  ベトナム北部、トンキン湾北西部にある湾。漢字表記は下龍湾。  クアンニン省のハロン市の南に位置し、カットバ島のほか大小3,000もの奇岩、島々が存在する。

  伝承では、中国がベトナムに侵攻してきた時、竜の親子が現れ敵を破り、口から吐き出した宝石が湾内の島々になったと伝えられている。

  カットバ島以外の島は現在は無人だが、約7,000年前の新石器時代にはわずかに人が住んでいた。
  また、数世紀前までは海賊の隠れ家として利用され、また、モンゴル帝国の侵攻の際には軍事的に利用された。
 
彫刻作品のような島々の景観は、太陽の位置によって輝きが変化し、雨や霧によってまた趣のある雰囲気を醸し出す。  地質学的には北は桂林(中国広西チワン族自治区)から、南はニンビンまでの広大な石灰岩台地の一角である。  石灰岩台地が沈降し、侵食作用が進んで、現在の姿となった。

1994年にユネスコの世界遺産(自然遺産)に登録。
ユネスコが支援するフランスのNGO世界で最も美しい湾クラブにも加盟している。

          < 写真:ハロン湾 >

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4


イメージ 5





.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事