吉川和夫ブログ美術庵=諸国放浪記

キッカワ・カズオは、本物の画工を目指して孤軍奮闘しています。

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5月の吉川和夫美術展〜風景を描く〜では、
中国の北京動物園とパンダを描きました。



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2018年7月10日、
私は中国の北京動物園を訪れました。
その時に撮影した写真です。

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↓ 園内に、写真パネルがありました ↓

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5月の吉川和夫美術展〜人物画は、
中国の唐王朝の玄宗皇帝像を描く

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玄宗皇帝は、712年に即位し、開元の治で安定したが、
晩年は愛妃・楊貴妃一族を重用し、政治が乱れ、
755年の安史の乱をまねいた。

玄宗は、 の中興の祖といわれる皇帝。クーデターによって前皇帝の皇后であった韋后(いこう)とその一派を倒し、父の睿宗を復位させ、712年父から譲位されて皇帝となった。在位756年まで。

その前半は引き締まった政治を行い、「開元の治」と言われたが、晩年は楊貴妃を溺愛して政治を顧みず、その一族楊国忠が実権を握り、それに反発した節度使安禄山などの反乱である安史の乱が勃発し、唐王朝を動揺させることとなった。

エピソード = ポロの名手玄宗
 若い頃の玄宗は、スポーツと音楽を愛する人間的な皇帝であった。特にポロは得意で、兄弟たちと楽しんでいた。吐蕃の使節との試合でも4人で10人を相手にして勝ったという。ポロは馬に乗って行うホッケーで、イランを起源とし吐蕃を通じて唐に伝わり、流行していたという。
 また玄宗は音楽にも優れており、みずから管弦楽器を演奏し、「皇帝梨園弟子」という楽団を作った。日本で歌舞伎界のことを梨園(りえん)というのはこれによるという。このように玄宗は人間的な魅力のあった皇帝なので、晩年に楊貴妃を溺愛して唐朝を傾けたにもかかわらず、人気が高い。

日本との関係

玄宗が即位する前の702年に日本から派遣された遣唐使の中に僧侶・弁正がいた。玄宗と弁正は囲碁を通じて親しくなった。その後、弁正は唐において病没するが、唐で生まれた息子の秦朝元が遣唐使の一員として唐に戻った際には玄宗は特に手厚くもてなしたと言う(『懐風藻』)。玄宗は日本からの遣唐使に対しては好意的な対応を行っており、日唐関係は安定した時代を迎えた。その背景として玄宗が弁正を介して日本に対して好意的な姿勢を抱いたからとする見方がある[3]





               ↓ 楊貴妃を描く ↓

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楊貴妃は、中国史で有名な唐の玄宗の愛妃。
初め玄宗の子寿王の妃となったが、745年玄宗に召し出され宮中に入る。寵愛(ちょうあい)を一身に受け,楊氏一門はみな高位に列した。ために国政は乱れ,安禄山の反乱を招いた。四川へのがれる途中,馬嵬(ばかい)でくびり殺された。

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5月の吉川和夫美術展〜植物を描く〜では、
山梨県の県花=富士桜(フジザクラ)を描きました。

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山梨県の県花=フジザクラは、4月から5月にかけて、富士の裾野を彩ります。木はあまり大きくならず、花びらも小型で下むき加減に開きます。きびしい富士の風雪に耐えて、つつましやかに咲く花は、「和と忍耐」を表しています。(昭和29年制定)




次の写真は、富士桜の風景です。↓

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4月吉川和夫美術展〜風景を描く〜では、
中国の首都北京にある、「中国屈指」と称される世界遺産「頤和園」を描きました。

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世界遺産「頤和園」は、
中国,ペキン (北京) 市の北西約 10km,清朝西太后離宮で知られる名園。頤和園は万寿山とその南麓にある人造湖昆明湖の総称。周囲約 8km。鮮やかな色彩で彩られた多くの楼閣,長廊,湖上に浮かぶ石舟,蘭花,柳など絶好の景勝地。明代には好山園といわれ,清の乾隆帝ハンチョウ (杭州) のシー (西) 湖にならってつくり,清い園 (せいいえん) とも呼ばれた。咸豊 10 (1860) 年天津条約の批准をめぐってイギリスとフランスの連合軍8万が北京へ進駐し,西郊の円明園が焼かれた際に類焼した。光緒 14 (1888) 年西太后の命によって再建され,名称も頤和園と改称。光緒 20 (1894) 年西太后は自分の還暦祝いのため,大金を投じて大改修工事に着手。イギリスから借りた北洋艦隊増強用金までこの工事に流用した。現在北京市民憩いの場として一般に公開されている。

私は、昨年2018年7月に、北京の頤和園へ旅しました。
次の写真は、その時に撮影したものです。
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4月の吉川和夫美術展〜人物を描く〜では、
世界の三大美人と言われる「小野小町像」を描きました。

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<人物像>
小野小町の詳しい系譜は不明である。彼女は絶世の美女として七小町など数々の逸話があり、後世に浄瑠璃などの題材としても使われている。だが、当時の小野小町像とされる絵や彫像は現存せず、後世に描かれた絵でも後姿が大半を占め、素顔が描かれていない事が多い。

次の写真は、インターネットで掲載されている画像「小野小町像」です。

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<出自>
系図集『尊卑分脈』によれば小野篁息子である出羽郡司小野良真の娘とされている。しかし、小野良真の名は『尊卑分脈』にしか記載が無く、他の史料には全く見当たらない。加えて、数々の資料や諸説から小町の生没年は天長2年(825年) - 昌泰3年(900年)の頃と想定されるが、小野篁の生没年(延暦21年(802年) - 仁寿2年(853年))を考えると篁の孫とするには年代が合わない。ほかに、小野篁自身の娘[1]、あるいは小野滝雄の娘[2]とする説もある。
血縁者として『古今和歌集』には「小町姉(こまちがあね)」、『後撰和歌集』には「小町孫(こまちがまご)」、他の写本には「小町がいとこ」「小町姪(こまちがめい)」という人物がみえるが存在が疑わしい。さらには、仁明天皇更衣(小野吉子、あるいはその妹)で、また文徳天皇清和天皇の頃も仕えていたという説も存在するが、確証は無い。このため、架空説も伝えられている。
また、「小町」は本名ではなく、「町」という字があてられているので、後宮に仕える女性だったのではと考えられる(ほぼ同年代の人物に「三条町紀静子)」「三国町仁明天皇皇子貞登の母)」が存在する)。前述の小町姉が実在するという前提で、姉妹揃って宮仕えする際に姉は「小野町」と名付けられたのに対し、妹である小町は「年若い方の“町”」という意味で「小野小町」と名付けられたという説もある。

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