吉川和夫ブログ美術庵=諸国放浪記

キッカワ・カズオは、本物の画工を目指して孤軍奮闘しています。

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2018年7月8日、中国・北京市にある「世界遺産の一つである天壇公園」を見学しました。
その時に、撮影した風景写真です。

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2月吉川和夫美術展〜風景を描く〜では、
中国・北京市の天壇公園にある「祈念殿」を描きました。
( 水彩/パステル 画用紙6号 410 x 320mm )

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天壇(てんだん)は、北京市街の南部に位置する、明から清時代の皇帝たちが祭祀を行った神聖な場所です。古代中国には“天”を最高権力とみなし敬う思想がありましたが、それに基づきここでは定期的に“天”を祀る儀式が行われていました。天壇の見どころは「圓丘壇(かんきゅうだん)」、「皇穹宇(こうきゅうう)」、「祈年殿(こうきゅうう)」の3つの壇や建物になりますが、現在はその周辺を含んだ天壇一帯を「天壇公園」と呼んでいます。

天壇公園には多くの建築物が残されていますが、そのなかでも最大の見どころが「祈年殿」と呼ばれる建築物です。
この「祈年殿」は、天壇公園にある建築物の中でも最も古くに作られたものだといわれています。
その高さは階段を合わせて38メートルにも及び、天気が良ければ青空に突き抜けんばかりの壮大な姿を見ることができます。
この祈年殿の屋根をはじめとした天壇公園建築物には、瑠璃瓦が使用されているのが大きな特徴。
瑠璃瓦の青色は、空つまり天を意味するといわれています。
空を背にそびえ立つ祈年殿は、今も昔も神秘的な存在感を放っています。
2月吉川和夫美術展〜人物を描く〜 では、
中国史上の最高の美人と言われる「楊貴妃像」を描きました。
( 水彩/パステル 画用紙 6号 410 x 330mm )

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楊 貴妃(よう きひ、719年6月22日開元7年6月1日) - 756年7月15日至徳元載(元年)6月14日))は、中国代の皇妃。姓は楊、名は玉環。貴妃は皇妃としての順位を表す称号。玄宗皇帝の寵姫。玄宗皇帝が寵愛しすぎたために安史の乱を引き起こしたと伝えられたため、傾国の美女と呼ばれる。世界三大美人の一人で古代中国四大美人西施王昭君貂蝉・楊貴妃)の一人とされる。壁画等の類推から、当時の美女の基準からして実際は豊満な女性であった。また、才知があり琵琶を初めとした音楽舞踊に多大な才能を有していたことでも知られる。

補足:

・細身の趙飛燕と比べて、豊満な体型をしていたということで「楊肥趙痩」「環肥燕瘦」と、豊満体型とほっそり体型の美人を比べ、表現する言葉として残っている。 ・日本山口県には、楊貴妃が阿倍仲麻呂と共に安史の乱を逃れて日本に亡命してきたとの伝説が存在し、長門市油谷町の二尊院というお寺には楊貴妃の墓と伝わる五輪塔(山口県指定有形文化財)がある[5]。 ・日本には、楊貴妃は熱田神宮明神の化身であるという伝説もある(『長恨歌』に詠われた、天に還った楊貴妃がいた蓬莱が日本であるという伝承があった)。 ・京都市泉涌寺にある観音菩薩坐像は楊貴妃をモデルに作られたという伝承があり、楊貴妃観音とも呼ばれている。 ・茘枝を好んだという前出のエピソードから、デ・カイパー社(オランダ)のライチ・リキュールには「貴妃」という名前が付けられている。 ・また、カクテル「楊貴妃」はライチリキュールがベースとなっている。 楊貴妃が好んで飲んだと伝わる薬酒の楊貴美酒という処方がある。 ・メダカに「楊貴妃メダカ」という赤い色の種類がいる。

次の絵画は、楊貴妃観音像を描きました。
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次の写真は、中国の華清市にある「楊貴妃の像」です。

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次の写真は、中国の興平市にある「楊貴妃の墓」です。

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2月吉川和夫美術展 〜植物を描く〜 では、
群馬県の県花である「レンゲツツジの花」を描きました。
( 水彩/パステル 画用紙 6号F 410 x 330mm )

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特徴

高さ1 - 2mの落葉低木。
花は直径5cmほどのロート状で、4 - 6月に葉が出たのち葉が開くのと前後して咲く。
果実は櫺漫長さ2 - 3cmの円筒状で、10〜11月に熟すると5裂して小さな種子を飛ばす。
北海道南部から九州まで日当たりのよい草原に多く自生する。庭木としてもよく利用される。花は朱色。花の色が黄色い種類としてキレンゲツツジがある。
全木にジテルペングラヤノトキシン( grayanotoxin )[1]、ロドジャポニン( rhodjaponine )などの痙攣を含み、呼吸停止を引き起こすこともある。牛や馬にとっても有毒なため(ウマツツジ、ベコツツジの別名はこれらの動物に害を与える事から)食べ残すので[2]、レンゲツツジの群生地になっている牧場も多い。花には蜜があり子供が吸う場合があるが、摂取させるのは非常に危険である。トルコ蜂蜜での中毒例が報告されている[3]。このため、日本の養蜂業者はレンゲツツジが自生している所では蜂蜜を採集しないか開花期を避けるなどしている[4]

文化

群馬県の県花である。
山梨県三窪高原が、10万株の群生地として有名。
長野県東御市群馬県吾妻郡嬬恋村の県境にある、湯の丸高原、地蔵峠周辺は、約60万株のレンゲツツジの群生地として、天然記念物の指定を受けている。
レンゲツツジを市の花としている栃木県矢板市高原山には標高1200mの八方ヶ原高原があり約20万株のレンゲツツジが群生している。

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1月吉川和夫美術展〜風景画〜中国の「万里の長城」を描く
私は、2018年7月に、中国の「万里の長城(八達嶺)」を見物しました。
そこで、「万里の長城」の風景画を描きました。そして、訪問時の風景写真を併せて掲載します。

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万里の長城は、中華人民共和国に存在する城壁遺跡である。ユネスコ世界遺産文化遺産)に登録されており、2007年には新・世界七不思議にも選ばれている。中国には他にも長く連なった城壁、いわゆる長城は存在するが、万里の長城が規模的にも歴史的にも圧倒的に巨大なため、単に長城と言えば万里の長城のことを指す。現存する人工壁の延長は6,259.6kmである。
匈奴のような北方の異民族が侵攻してくるのを迎撃するために、代の紀元前214年始皇帝によって建設された。長城は始皇帝によって建設されたと一般には考えられているが、実際にはその後いくつかの王朝によって修築と移転が繰り返され、現存の「万里の長城」の大部分は明代に作られたものである。この現存する明代の長城線は秦代に比べて遥かに南へ後退している。
よく「農耕民族遊牧民族の境界線」と言われるが、秦・漢代の長城は草原の中に建っているところが多い。これは両王朝が遊牧民族に対し優位に立ち、勢力圏を可能な限り北方へと広げようとしたためである。それに対し明代の長城は防衛を容易にするために中国本土に近いところに建設されており、とくに首都北京付近においてその傾向が強く、北京付近の長城は北京から100kmも離れていない稜線上に設けられている。万里の長城は南北両勢力の境界線として機能したが、北方の遊牧民族も南方の農耕民族もお互いの物産を必要としており、長城沿いには交易所がいくつも設けられ、盛んに取引が行われていた。交易はいつもうまくいっていたわけではなく、北方民族側の思うとおりにいかない場合もあった。その交易を有利にするための威嚇として、明の力が弱い時期に北方民族は長城を越えて侵入を繰り返していた。また、長城は観念上においても両勢力の境界線として機能し、たとえば中原の諸王朝が北方遊牧民族を指す場合、「塞外」(塞は城塞の意味で、この場合万里の長城を指す)という言葉が用いられることも多かった。


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