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いつも疑問に思っていたが、元荒川の由来について 思い立って調べてみた。 越谷地区を中心に整理すると、 大まかには次のように変遷したと理解される。 ややこしいので、図を参照。 よくご存じの方、ご教示ください。 1.1万年前:石器時代が終わり縄文前期 ・氷河期から間氷期に移り気候温暖化 ⇒縄文海進。東京湾が栗橋あたりまで入り込む(古東京湾といわれる)。 ⇒下総台地と武蔵野台地(大宮台地含む)が陸地で、湾を形成。 ⇒越谷は海の中。越谷は海抜2〜8メートル、平均5メートル。 10メートル以下なので、当時は海の中。 ・その後、しだいに海が後退し、川による堆積等を重ねながら、 湿地・沼地の多い谷地(沖積低地)を形成していく。 ・ついでながら、越谷の語源について、 こし=山・台地のふもと、 谷=低地 という意味合いから、「台地のふもとの低地」である、という説がある。 (元荒川沿いの低地を越して大門の坂を経由して浦和方向(大宮台地)へ という意味で「越谷」 という説もある)
古代以前(1万年前)の越谷と利根川、荒川 (資料1より)
2.2300年前(紀元前300年):縄文時代末〜弥生時代初めころ ・ほぼ現在の海岸線・地形になった ・越谷は利根川と荒川が流れていた。流路は現在の古利根川と元荒川・綾瀬川。 3.1300年前(700年ころ):奈良時代 ・利根川は春日部市小渕から西流蛇行し、岩槻市長宮あたりで荒川を合流。(図 参照) ・越谷付近は輪中(わじゅう)の地であり、 越谷の市域は利根川(現在の元荒川)より東側が下総国、西側が武蔵国に分けられていた ・小渕から長宮までは今は、古隅田川と称されていた。今は、道になっている。 ・この時代、荒川の主流は綾瀬川であり、今の元荒川は利根川の本流であった。
古代の国堺と越谷の位置(利根川で分断されていた)(資料1より)
4.400年前(1600年代):江戸時代。利根川、荒川の大幅な流路の変更。 ・利根川の東遷:1594年(文禄3年)〜1654年(承応3年)ころ 利根川は粕壁、越谷、さらには江戸の地から切り離され 流路は東に移った。 ・荒川の西遷:1629年(寛永6年) 荒川が熊谷市久下(くげ)で締め切り、南を流れる入間川筋の 和田吉野川に付け替えた。荒川と隔絶(かくぜつ)した旧荒川は、 久下を源流点として、元荒川とよばれるようになった。 ・変更の理由:いずれの変遷も、洪水対策、新田開発促進、舟運等のため
利根川東遷と荒川西遷 (資料2より)
5.その後の変遷 ・流路の大きな変更として、明治時代以降、荒川の下流域での荒川(荒川放水路)と
隅田川 の分流等
・元荒川に関しては、古利根川と元荒川(葛西用水)を結ぶ逆川(さかさがわ)開発、渡し船から、橋の創架、堰溜井・用水の開発、土手の補強工事(コンクリート化等) あるが、略。 参考文献:主に、次の3資料を参考にしました。
・資料1「わが町の歴史 越谷」:竹内誠/本間清利、文一総合出版、1984年。 ・資料2「大利根百話」:建設省関東地方建設局監修、(社)関東建設弘済会、1987年。 ・資料3「利根川と淀川」:小出博、中公新書、1975年。 |
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はじめましてテントです。宜しく!
2009/11/2(月) 午後 10:12 [ テント ]
利根川、荒川、渡良瀬川、は関東平野の奥深くまでひとつの広大なデルタ地帯を作っていたんですね。海のない埼玉が独立したひとつの県になったのも東京に直結する水路網のおかげなのでしょうか。
2012/9/29(土) 午後 3:17 [ きりぴぃ ]