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江戸で芭蕉庵と称するところは2か所ある。
ここ関口芭蕉庵と前に紹介した深川芭蕉庵である。 マクロ的に言えば、
江戸東京における7つの台地のひとつである目白台地のふもと、
神田川沿い、 広々とした早稲田田圃(現早稲田大学キャンパス)を目の前にした ところに関口芭蕉庵がある。隣接して、江戸一急峻で有名な
胸突坂(むなつきざか)、さらにその隣に水神社(すいじんじゃ)がある。 さて、この芭蕉庵正門は すっきりした江戸的趣のある門構えである。(4月9日に訪ねた) 神田川沿いの桜が川面に舞い散り、流れている。
人々が三々五々に立ち止まり、 閉ざされた門構えをながめ、横の案内板を 読むなりの、のどかな風情。 芭蕉庵正門。江戸的おもむきがある。桜散る。緑の勢いが増している。 すぐ横の胸突坂(むなつきざか)に面した簡素な通用門から入る。
石段があり、すぐそばの芭蕉庵に至る。
全体がこじんまりとしているが、 静かで俳趣が感じられる江戸的おもむきがぱっとひろがる。 庭園の下方に広く配置されている瓢箪池(ひようたんいけ)が全体の構図を決めている。
この周囲にはさまざまな木々、草花が配置・演出されている。 芭蕉にゆかりのある木石、モニュメントには句が添えられている。 五月雨(さみだれ)にかくれぬものや瀬田の橋
古池や蛙(かわず)とび込む水の音 真中に富士聳えたり国の春 (伊藤松宇)
二夜鳴く一夜はさむしきりぎりす (紀逸) 巡回庭園であり、小さな山谷の起伏があり、苔むして、
かけひの水音の心地よい響きを耳にしながら、ゆっくり、 ゆったり歩きめぐる。 瓢箪池(ひょうたんいけ)。ひようたんとはいかにもの趣。 瓢箪池の方向から芭蕉庵を見る。現在は休み処となっている。 奥座敷では同好の志による句会がしばしば開催されている由。 池の周りには、芭蕉ゆかりの句碑、木々に句が添えられている。
狭いながら竹林もある。 起伏があり山と谷を石段で結ぶ。 高台の中腹に芭蕉堂をみる。 (堂内は非公開。芭蕉と高弟(基角・嵐雪・去来・丈草)の像が 安置されている。) 歌川広重の「名所江戸百景 関口上水端」 江戸川(現神田川)の右手にさみだれ松と芭蕉庵。左手は早稲田田圃。 庭園案内図 (史跡関口芭蕉庵案内記より) ……
池の周りを巡回し小さな山や谷めぐりをしていると いつしか芭蕉の時代にスリップしてしまう。 せまい小さな世界、しかし広く深くイメージ界が広がる。いい感じだ…。
でも、ふと思う…。 ここは、芭蕉当人にとってどんな場所だったのだろうか。
なにをやっており、なにを感じて4年間を過ごしたのか。 神田上水の工事現場ではなかったか。 工事現場のすぐそばで、別世界の俳句をつくる余裕があったのだろうか。 調べてみた。
・上水工事での芭蕉の役割は、工事の監督という説、浚渫(しゅんせつ)工事の請負、 監視やゴミ拾い・掃除などの使い走り的な軽労働である説がある。 ・芭蕉は現場小屋か水番屋に住んで働き、
後に芭蕉を慕う人たちによって芭蕉庵が建てられたものであるらしい。 ・芭蕉が住んでいた4年間(1677〜1680;34〜38歳)には、
かれ枝に烏のとまりけり秋の暮
など、それなりの活躍をしていた模様であること。
しかし、芭蕉の江戸での大きな活躍は、この後深川移り 深川芭蕉庵を拠点にしてから以降のことであること。 (もっといえば、無所住の「旅」そのものが彼の拠点であったのでは ないかとも思う。) ……
さて、この目白台には、神田川が流れる低地を結ぶ坂が数多くあり、 そのなかのひとつに 胸突き坂がある。急峻な坂として有名。 ついでであるが、この近くに面白い坂があるので紹介します。
珍しい三つ又に分かれるY字坂。左が日無坂、右が富士見坂。
追記1.関口芭蕉庵正門にある案内板 追記2.浚渫(しゅんせつ)工事 (ウィキペディアより)
浚渫(しゅんせつ、dredging)は、港湾・河川・運河などの底面を浚(さら)って
土砂などを取り去る土木工事のことである。
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芭蕉をたどる
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桜について続ける。
越谷近くの、芭蕉ゆかりの草加松原遊歩道を歩いた。 むかしならった古文の授業を想い出す。 芭蕉の「奥の細道」の冒頭、 月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり。… 予もいづれの年よりか、片雲雲の風に誘はれて漂泊の思ひやまず… そして、旅は日光道中第2の宿場の草加について、 もし生きて帰らばと、定めなき頼みの末をかけ、その日 やふやふ草加といふ宿にたどり着きにけり… この遊歩道は、「奥の細道」にちなみ、
綾瀬川(あやせがわ)の川沿いに、松並木、 桜並木、そして大きく湾曲する百代橋、矢立橋があり、 景観が美しく、ウオーキングを楽しむ人も多い。 なお、「日本の道百選」「利根川百景」にも選ばれている。 ……
桜を背にして芭蕉像。江戸方向を見返る。
「奥の細道」旅立ち300年を記念して制作されたブロンズ像。 矢立橋(やたてばし)。大きく湾曲する太鼓橋である。 桜と松の並木が見える。この先にもうひとつ同型の百代橋がある。 綾瀬川の両岸に松並木(常緑)と桜並木(うつろい)が向かい合って並ぶ。
一輪一輪の咲きざま…いとおしい。マクロ(近接モード)で撮る。
綾瀬川に斜めに並ぶ満開の桜と菜の花…春らんまん。 遊歩道終点にあるリング型モニュメント。異世界の桜をのぞき見る…ようだ。
かべ絵が「奥の細道」をイメージさせる。 |

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隅田川の新大橋と清洲橋の間にかけて 芭蕉関連の史跡が集まっている。 清洲橋の見える隅田川沿いに芭蕉の句碑が並ぶ さりげなく咲く 芭蕉像。芭蕉庵史跡展望庭園内にある。 隅田川、日本橋方向あるいは富士山を眺めるのか。 遊覧船が行交う隅田川。後は清洲橋。
この当時は、清洲橋はない。
新大橋。最初の木橋は元禄6年(1693年)芭蕉がこの深川に住んでいるときに架けられた。 芭蕉は新大橋が完成していくのを見て、句を残した。 「初雪やかけかかりたる橋の上」 「ありがたやいただいて踏むはしの霜」 なお、新大橋については「隅田川の橋(10)新大橋」にブログしてあります。 芭蕉庵旧居跡 芭蕉稲荷神社に芭蕉庵旧居跡の石碑がある。 3度ほど火災に会い何度か転居している。
ここにあった草庵からは、
遠く富士山が望まれ、浅草観音の大屋根が花の雲の中に浮かんで見えた。 目の前の隅田川は三つ又と呼ばれる月見の名所で 大小の船が往来した。 それに因んで一時泊船堂とも号した。(案内板より) 近くに江東区芭蕉記念館の入り口 仙台掘川の海辺橋のたもとの採荼庵(さいとあん)にある芭蕉の座像。 弟子の杉風(さんぷう)の別宅で、奥の細道の旅立ち前にここで起居していた。 小名木川に架かる萬年橋(まんねんばし)。 このあたりの江戸土産絵図(えどみやげえず)。 手前が小名木川と万年橋。奥に隅田川に架かる新大橋。 萬年橋の向う側左の小さな林のところに芭蕉庵があった。
これらのフォトを見つつ目をつぶって芭蕉を想う。
川のほとりでのゆるやかで穏やかな生活、火災などで転居に急ぐ芭蕉、弟子たちのきずな、 ここを拠点に江戸俳諧の世界でエネルギュシュに活動する姿、 「奥の細道」の旅立ちへのやむにやまれぬ思い… などのイメージが連想されてきた。 マップ (「隅田川を歩く」より) |
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隅田川の清洲橋の近くで、小名木川が合流する角地に 芭蕉庵史跡展望庭園があり、芭蕉像がどこともなく隅田川を眺めている。 芭蕉像。後は隅田川に架かる清洲橋。 1680年(延宝8年)、芭蕉はこの深川に移り住んだ。 8年前に26歳で伊賀上野を出てから、 神田川沿いの関口、日本橋と居を移しながら 俳諧の修行を積んだ。 さらに8年後の1689年(元禄2年)、 この地から千住に向け「奥の細道」に旅立つ。 深川を拠点に、江戸俳諧の世界で頭角をあらわしていく。 古池やかわづ飛び込む水の音 はこの時期の句である。 …… さてこの像は、なにを見ているのだろう それともなく目で追っているのは すぐそこの隅田川の流れなのであろう。 そして、こころに映じているのは、 心機一転の野心に満ちたこころざしか 湧きいずる詩句のおだやかな喜びか、 不易流行のあらたなビジョン、境地、詩論か、 奥の細道で見るであろう風景の予感か 造化随順のまことか… もろもろがポジティブに心中去来しているのであろう…と思った。 芭蕉庵史跡展望庭園にある「芭蕉像」
清洲橋と遊覧船
芭蕉稲荷神社。このあたりに芭蕉庵があった。 「古池やかわづ飛び込む水の音」の石碑。そばに芭蕉愛用のかえる(模造)。 マップ なお、新大橋と清洲橋の間に、 次の句がひとつづつ展示されている。 名月や門に指くる波頭
花の雲鐘は上野か浅草か 名月や池をめぐりてよもすがら あられ聞くやこの身はもとのふる柏 芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな しばの戸にちゃをこの葉かくあらし哉 |
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千じゅといふ所にて舟を上がれば、 前途三千里の思ひ胸にふさがりて、 幻の巷に離別の涙をそそぐ。 行くはるや鳥啼き魚の目はなみだ はせお翁 江戸を後にした芭蕉は、日光街道を北へと歩きはじめる。 いいですね。芭蕉の万感の離別の情が出ています。 覚悟しているんですね。死と再生の長い旅路を。 素盞雄神社は平安時代創建といわれる。芭蕉も祈念するとともに すさのおの荒き魂を詩魂の中に取り込んだのではないでしょうか。 「奥の細道」では、この後、草加の宿に泊まったとあるが、 それは虚構で実際は春日部に泊まったとのこと(同行の曾良日記より)。 しかし、草加あたりでそれこそ、前途三千里の思いが しだいに実感し始めたのではないでしょうか。 草加にある芭蕉像は江戸方向を思いを込めて振り返っています。 なお、江戸深川から旅立ったのは1689年(天保元年)、46歳のとき。 約600里(約2400km)を約半年かけて旅をした。最終地は大垣。 追記1.日本文学研究者ドナルド・キーンが「奥の細道」を英訳して 紹介しているが、上の句は次のように翻訳されている。 「奥の細道」全路程図。千住大橋公園内。 素盞雄(すさのお)神社。(2007.3.28撮影) 素盞雄神社内にある句碑。 句碑のコピー。 奥の細道図屏風。与謝蕪村画。 「奥の細道」千住大橋の切り絵。宮田雅之作。 |



